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Recall  作者: ツナ缶
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一章 1

作者(腹痛)が中学校終わり頃から、大学一年の終わりまで長々と書いていた、初めて書き上げた長編作品です。それだけ量はありますが、伝えたいことや大切に思うことをキャラクターに乗せて書き連ねたらこうなりました。

長くなるかもしれませんが、お付き合いくだされば幸いです。

Recall


 それは、きっと綺麗な思い出のはずだった。

 遠くて、あまりにも遠い。けれど、温かくて、大切で。

 ずっと手に入れたくて、ずっと手を伸ばしていて。

 やっと、届いた大切な思い出。

 だから。だからこそ、許せなかったのだろう。

 その思い出を、穢されたことも。その思い出が、あまりにもありふれたものであることも。

 全部、許せなかった。

 失ったものが、かけがえのない尊いものほど。それを奪われた痛みを、許すことはできなかった。


「例え、それが間違っていたとしてもね」


 違うと、それは間違っているんだ、と。真っ向から否定できる人が誰にもいなかった。それを言えるだけの心の強さと優しさを兼ね備えた人はいなかったのだ。

 もし、もしもだ。そこに私がいたら。何かが変わっていたのだろうか。ただ見ているだけしかできない私が、声を張り上げ彼を止めることができたら。今は変わっていたのだろうか。

 ありもしない『もしも』を想像することは、無意味だってわかってる。

 けれど今もなお、心の底にいつまでも、重く、残っていて。


「それが、私の償いになるなんてわからないけど、私は……」


 何も触れられない、届かない手を強く握りしめる。小さな、とても頼りない私の手。それでも精一杯、力を込める。

 何度も失い、何度も苦しんできた彼が。自分で自分に償いを科し続ける、悲しいまでに滑稽な彼が。いつか、祈り、願い、望んだとしたなら。

 その伸ばされた手を、掴むと決めていた。





一章 


秋宮柊弥(あきみやしゅうや)


 真っ白な雲から、それ以上に白い雪がいくつも降ってくる。雪は公園の遊具に落ち、冷え切った遊具はその雪を溶かすことなく、そのまま降り積もっていく。

 その遊具を、琴美(ことみ)は手袋もつけないまま赤くなった手で掴んだ。


「ほらっ、はやくはやく!」


 これは、いつの光景だろうか。まだ琴美が外で遊べた頃、だと思う。

 現に琴美は所々ペンキの剥げたジャングルジムに登って、まるで咲いたばかりの花びらのような笑顔を浮かべて僕に手を伸ばしている。

 ……ああ、そうだ。

 この頃の僕は怖がりで、公園にあるどんな遊具でも遊べなかった。琴美と出会うよりも前に、男の子が滑り台の上でふざけて落ちて怪我をした光景を見たことがあるからだ。

 シーソーに乗って間に挟まってしまったら? ジャングルジムから落ちてしまったら?

 どれも怪我に直結している遊具たちが、あの頃の僕には恐怖の対象だった。

 冬の凍えた空気に冷やされた遊具に少しでも触れると、身がすくんでしまう。

 そんな僕を、琴美は。


「柊弥のいくじなし~。こんなの、高いだけじゃない」


 そうやって、ジャングルジムの頂点から僕を見下ろして言った。


「しかたないだろ……こわいんだから」

「あははっ」


 屈託のない笑顔で琴美が僕を笑う。馬鹿にされてるはずなのに、どうしてかその笑顔を見て、僕は悪い気にはならなかった。


「だったらさ、約束しよう」

「約束?」


 唐突に出てきた言葉に、僕は疑問を返す。僕の問いに、琴美は更に笑顔を輝かせて頷いた。そして、差し出していた手を更に僕へと近づける。


「そ、約束」

「なにを約束するの?」


 まだ、僕は差し出された手を掴めなかった。

 ただ差し出された小さな手のひらを、じっと見ている。


「かんたんなことだよ」


 伸ばされた指先は、艶々していながらも、寒さで赤く染まっている。


「どっちかがつまずいたり、立ち止まったりしたら、かたほうが手をつかんで、ムリヤリでも立たせる。そうすれば、こわくないでしょ? ころんでも、手をさしのべてくれる人がいるんだから」


 何もおかしなところなんかないと、自分の言葉に一切疑問を持たないような態度。今考えれば、何の根拠もない自信。

 理由なんてない。それなのに、僕の心には安心が満ちた。

 例え相手が嫌がろうとも、無理矢理立ち上がらせ、隣に並べるなどという、身勝手な約束。それでもあの頃の僕は、その約束が心強かった。

 転んだって、この手が立ち上がらせてくれる。転んだって、傍にいてくれる。

 だから、怖がらないで歩いていける。

 彼女が、傍にいてくれるなら。

 気づけば、いつのまにか僕は彼女の手を掴んでいた。

 冬の凍えた空気の中。その手はまるで、陽だまりのように暖かかった。

 その温かさを、僕は一生忘れない。

 一生、忘れない。



 望んだものが手に入らなかったとき、人はどうするのだろう。

 どんなに恋い焦がれても、どんなに渇望しようとも。必ず手に入らないものがある。

 強く強く、願っても。

 どんなに強く、手を伸ばしても。

 どうしても届かないものがある。

 祈ろうが願おうが望もうが。

 決して、届かないものが確かにある。

 それを望んだとき、人はどうするのだろう。

 届かないとわかったとき、人はどうするのだろう。



 雑草が茂る庭を体を低く、這うように進む。下は地面だから、服が汚れてしまうので気をつけて歩いていく。冬の中、どこか生気のない葉をつけて並んだ植木に身を隠しながら、僕は段々と歩くスピードを上げていった。

 誰にも見つからないように、着々と進んでいく。雑木林の間を蛇さながらの動きで抜け、何も身を隠すものがない場所は隙を見て全力で駆けた。

 そうした苦労の末に。僕はある病院の最南端、そこにある病室の窓の前に立った。

 一応、不法侵入にならないよう、ノックする。が、返事はない。それでも僕は気にせず窓を開けた。


「お邪魔します」


 ここの鍵が昼間は閉じられていないことはわかっている。さっきのノックだって形だけの礼儀でしかない。

 僕はその場で靴を脱ぎ、躊躇なく中へ入ろうとすると。


「え?」


 何かが僕に向かって飛んできて───


「あだっ」


 急に飛んできた何かが額に当たり、僕はそのまま後ろにひっくり返ってしまった。


「いつつ……」


 何だ? 何が起きたんだ?


「あはは、ははっ」


 笑い声が病室から響いてくる。何度も聞いたことのあるこの声の主に向かって、僕は起き上がって声を上げた。


「琴美っ! いきなり何するんだ!」

 部屋の中では少女が一人、お腹を抱えて笑っていた。

 栗色の髪を揺らし、肩も揺らして笑っている女の子。僕の幼なじみ、満永琴美(みつながことみ)はこの病院に入院している。

 いつもニコニコ笑っていて、性格は裏表なくいつもハキハキとした物言いの女の子だ。小さい頃から一緒にいることが多く、小学校ではそれを理由にクラスの男子にからかわれたりもした。それでも僕たちは相も変わらず一緒に遊び、学んできた。

 けれど僕たちが中学に上がる前、琴美は急に体調を崩し、すぐさま入院。三年間の長い闘病生活を送ってきた。

 その間僕は、時間を見てはこうしてお見舞いに来てるんだけど。


「あはは、ごめんごめん。柊弥の顔見たら投げたくなって」


 このように、まともな歓迎を受けたことがない。

 まぁ、窓から侵入する時点で、まともな歓迎を期待するのは間違ってるとは思うけど。それでも、もう少しまともな歓迎ってものがあると思う。


「なんだそりゃ。というか、何投げたんだよ。メチャクチャ痛かったぞ」


 琴美は無言で、手に持った真っ赤に熟れた果実を僕に見せた。


「……りんご?」

「そ、りんご」


 ……いやいや、投げるなよ。


「おまえな、それはダメだと思えよ……」


 下手したら硬球をぶつけられたぐらいの威力になりかねない。


「えへへ、投げたあとになって思った」

「はぁ……」


 このため息も何回目だろう。少なくとも一日五回は出してる気がする。正確な数を知るとまた悲しくなって数が増えるから数えたことはない。


「それで、今日は出歩いても大丈夫なのか?」


 家族などの血縁関係でもない僕は守秘義務によって、詳しい病名は知らされない。琴美自身が僕に教えることは出来るのだが、琴美から言い出さない限り、僕の方から質問するのも躊躇われる。推測だけど、簡単に治るようなものじゃないはずだ。

 今では少しの運動でも息切れし、貧血を起こしてしまうほどの虚弱体質になってしまった。昔の琴美は男勝りで、髪が伸びていなかったら男の子と誤解されてもおかしくないほど元気で活発な女の子だったんだけど。


「うん。最近は調子いいんだ。お父さんも軽く散歩ぐらいはして体力をつけなさいって」


 琴美のお父さんはこの病院の院長だ。病院の院長という割には若く、外見も整った人だ。

 ……まぁ。その分性格に少なからず難があるから、プラマイゼロというか、なんというか。

 とにかく、院長でもあるお父さんが大丈夫だと言うんだ。きっと、今の状態は問題ないのだろう。


「もう行ってきたのか?」

「ううん。これをもらってきただけ」


 そう言ってりんごを投げてきた。さっきみたいな勢いはない。優しく、下投げで放られたりんごを、僕は両手で捕る。


「そろそろ柊弥が来る頃かなって。ビンゴだったみたいだね」


 僕の通っている中学校がこの病院の隣に建っているので、簡単にお見舞いに来れる。今は昼休み、本来なら許可を取ってから学校を出ないといけないんだけど、そんな暇はない。授業終了のチャイムが鳴った途端、全力で病院側にあるフェンスまで走る。それからはあの通り。病院の職員は幼い頃からの顔見知りばかりだからあまり顔を見られたくない。

 ましてや女の子に会うために学校を抜け出しているだなんて。

 そんなことをしているから、昼飯はいつも琴美のお見舞いの品なんだよな。母さんは仕事が忙しく、お弁当なんて作ってる暇ないし。自分で作るのも面倒だ。

 ありがたくいただくとしよう。前歯で皮ごとりんごを齧る。


「あぁーーー!!」


 いきなり発せられた奇声で、飲み込みかけたりんごが喉に詰まる。


「ゴホッ。ガハッ……ど、どうした?」

「皮剥いてあげようと思ったのに……」


 涙目になった琴美の手には、果物ナイフが握られている。

 ……いや、泣かれても。なら剥いてから渡してよ、と言いたいが。恨めしげな視線を送られていて、理不尽な状況なのに、どうしてか罪悪感が湧いてくる。


「はぁ……」


 こうなったらもう、何を言っても無駄なんだ。


「もう一個食べるから、剥いといて」


 もともと僕は小食だから、一個でお腹いっぱいなんだけど。そんな目で見られるのは耐えられないしな。


「……うんっ」


 さっきとは打って変わって、笑顔でりんごの皮を剥き始める。その手つきは、初心者オーラ全開の拙いものだったが、一生懸命さも全開だった。

 来客用の椅子に座る。椅子は冷たく、誰もこの部屋にお見舞いに来ていないことを表していた。


「……なぁ、どうしてそんなことするんだ?」


 僕の質問に、琴美はナイフを動かす手を止め、僕に目を向けて首を傾げた。


「そんなことって?」

「それだよ。りんごの皮剥き」


 いつもの琴美なら僕がみかんを筋つきで食べようが、りんごにそのままかぶりつこうが気にしてなかった。ましてや、わざわざ皮を剥いてあげる、なんて殊勝な考えを持っているわけがない。


「練習だよ。練習。家庭的な女の第一歩なんだよ。こうやって日々の鍛錬が大事なわけ」


 果物ナイフを片手に持ちながら自慢げに話す琴美。憎たらしさを覚えるような仕草なのに、見た目が幼いからむしろ微笑ましい。


「なんだそりゃ。そもそも、琴美が家庭的って……ねぇ」


 イメージが湧かない。入院しているから当たり前といえば当たり前だけど、どうしても僕は、琴美が家庭的な行動、例えば料理や洗濯といったものをしている光景を想像できなかった。


「もー、いいじゃない。っと、ほらできたよ」


 りんごの皮を剥き終えた琴美は、手のひらをまな板がわりにしてりんごを縦に食べやすいように切り分けてく。

 ……いつも思うんだけど、手のひらをまな板代わりにするこのやり方は見ててハラハラする。刃を当てるだけなら問題ないんだろうけど。お団子みたいにプニプニな手の琴美がやると尚更だ。


「はい」

「ん、サンキュ」


 切り分けられた一片を受け取り、まじまじと見てみる。


「……ど、どう?」

「うん、いいんじゃないかな。初めてにしては上出来だよ」


 お世辞なんかじゃなく、本気でそう思った。確かに、見事とは言いがたい。形は歪つで、多くの身が皮ごと切られてしまっている。ちょっと芯の部分が残ってもいた。

 けど、不器用な琴美が頑張ったんだから、上手だと思った。


「ほんと?」

「ああ。嘘ついてもしょうがないだろ?」


 僕の言葉に、わーいわーいとまるで子供のように喜ぶ琴美。中学生になっても……と、苦笑いしながらりんごを口に運ぶ。何故だかそのりんごは、さっき口に含んだ時より何倍もうまく感じた。


「今料理も教わっているんだ。今度作ってあげるね」


 ドクン。


 心臓が、跳ねた。大きく、ドクンと。

 今度。

 それはいつだろうか。来ることがあるのだろうか。二人で、その今度を迎えることができるのだろうか。

 動悸が激しくなる。胸が苦しい。空気がいくら吸っても肺に入らない感覚。水の中で必死に呼吸しても息はできないように。

 肺に入り続ける、気味の悪い粘着質の何か。


「柊弥? どうしたの?」

「あ、ああ」


 琴美の手が僕の額に触れる。小さい、けれど、底無しに暖かい手。

 ……あれ?

 いつのまにか、ちゃんと呼吸ができていた。あんなに激しかった動悸も今はすっかり治まっている。


「柊弥?」

「え? ああ、ううん。大丈夫」


 心配そうに僕の顔を伺う琴美に、僕は笑ってみせた。


「そう、よかった」


 ぬくもりが離れる。一瞬、また心臓が跳ねた。

 ……いったい何なんだよ。疲れてるのか?


「さってと」


 琴美は足を振り子のように動かし、勢いをつけてベットから降りた。その仕草はまるで小学生みたいだ。まんま見た目が小学生だから尚更。


「散歩行ってくるね」

「一人で大丈夫か?」

「うん。中庭をぶらぶらするだけだから」


 この病院には入院患者の憩いの場として作られた中庭がある。木々に囲まれていて差し込む日差しのおかげで日中は冬でも暖かい。とても落ち着ける空間だ。まぁ、最近はどこの病院にもあるみたいだから、そんな珍しいものじゃない。けれど僕たちはその場所が好きだった。

 あの場所だけは、病院特有の無機質な白に囲まれてない。温かな光で満ちていて。ここが病気や怪我を治す場所だということも、忘れることができるから。


「大丈夫だよ。だから柊弥は真面目に勉強してきなさい」

「それが嫌だから一緒に行こうと思ったのに……」

「……何か言った?」

「いいえまったく一言も」


 自分が通えていない、という理由もあるだろう。琴美は、僕が学校のことを蔑ろにすることをひどく嫌う。旗色が悪くなったことを察した僕は、早々に残ったりんごを口に詰めていく。


「ほらほら、さっさと戻る。早くしないと瑞穂さんがくるよ」


 瑞穂さんとは琴美を担当している看護士さんだ。いきなり乱入してきては僕達をからかったりして遊ぶ困った人で、僕が一番苦手な相手。確かに、出来れば会いたくはない。


「あ~……帰るかな」

「よろしい。それじゃ、またね」

「ああ」


 調子が良いことを証明するためか、琴美は片手をひらひらさせながらスキップで病室を出ていった。

 ……まぁ、放課後になったらまた来るわけだし。


「僕も戻るか……」


 昼休みも残り少ない。そろそろ教室に戻っておかないと。

 窓を開け、辺りを見回し誰もいないことを確認して、外に出る。


「あれ?」

 靴が、ない。土足であがるわけにはいかないから、いつも靴は窓の外に置いてあるのに。


「どこいったんだろ」

「捜し物はコレかい?」


 横から発せられる声。その声の主に思い当たり、瞬時に全てを理解する。


「……何やってるんですか?」


 横から聞こえてきた問いに、できるだけ怒りを抑えて問い返す。


「いやね、最近裏庭の草むしりしてないなと思ってね」

「院長が直々に草むしりですか。それは感心ですね」

「だろう?」

「じゃあその手にあるのは何ですかね」

「うーん、靴だね」


 琴美の父親でありこの病院の院長、満永秋人(あきひと)の手には、僕が今まで履いていた学校指定の革靴があった。


「そうですね靴ですね。どうしてそれをあなたが持ってるんですかね」

「見たことある靴だなぁ、と思ってね」


 当たり前だ。僕の靴なんだから。


「それ、僕のなんです。返してくれません?」

「え~娘へのプレゼントにしようと思ったのに~」


 ……落ち着け。早まるな。病院の壁に爪を立て、なんとか怒りを抑える。


「……それで、琴美が喜ぶと思いますか?」

「未来の旦那の靴だよ? きっと喜ぶさ」


 男の靴をもらって喜ぶ女の子がいるもんか。あと未来の旦那ってなんだ。決め付けるのも早過ぎるだろう。


「とにかく返してください。いい加減戻らないと遅刻になるんですよ」

「ふっ、男ならほしい物は力ずくで手に入れようぜ」


 ───もし本当に堪忍袋の緒なんてものが頭の中にあるのなら、今確かにそれが切れたに違いない。


「……わかりました」

「……いや、あの、冗談だよ?」


 今更言い訳を言っているみたいだ。だけどもう遅い。僕はもうあんたを追い掛けるための装備を持っている。


「そ、それはっ」


 そう、毎回外から入るため、院内を歩く際に必要になるスリッパ。琴美の部屋に一足置かせてもらっている。それを履き、狙いを院長に定める。


「あ、あの~、それは一応室内用なわけで、外で履くのはちょっと勘弁してもらいたいな~と思ったりしちゃったり……」

「大丈夫ですよ」


 スリッパを履き、僕は外に降り立ち、未だ必死に弁明をしている男に向かって笑顔で言い放つ。


「すぐに終わらせますから」


 発した殺気に気付いたのか、僕が駆け出す前に逃げたす院長。


「逃がすかぁ!」


 スリッパで全力で走る。が、靴とは違って足に固定されてないから走りづらい。けど、僕は足には自信がある。

 あんな親父なんて速攻で捕まえてやる!


「ふふふ。だがこんなこともあろうかとっ」


 急に立ち止まり、茂みの中に手を突っ込んだ。

 そして引き出したのは―――


「ジャッジャァーン!」

「じ、自転車!?」


 なんでそんなの用意しているんだよ!


「ハッハッハ。用意周到たぁこのことよ!」

「くそっ」


 あと少しで手が届いたのにっ!

 裏庭を自転車に駆け抜ける院長と僕の距離は、みるみるうちに空いてしまう。


「だぁぁ! 逃げるなっ!」


 静かな情感に溢れた病院を、僕は叫びながら走り続けた。

 結局、怒りのあまりスリッパを脱ぎ捨ててしまい、靴下は土で汚れて。そのうえ授業には遅刻になってしまった。



 いつも、僕は一人だった。

 もともと社交的とは言い難い性格だったし、父さんの仕事の関係で色々な学校を転々としたのも理由の一つだ。父さんの仕事のせいで、やっとの思いで友達になった子とも、離れてしまった。

 そんなことを何回も繰り返すうちに、僕は誰かと触れ合うことが恐くなってしまった。

 どうせ離れてしまうのに、どうして人は触れ合うのだろう。ぬくもりを確かめ合うのだろう。

 届いたと思ったら離れて、離れたと思ったら届いて。繰り返し繰り返し、何度そのサイクルを味わえば……。

 そんなことがもう嫌になって、いつしか僕は人と関わることをやめてしまった。

 出会わなければ、別れはない。

 そんなことを、本気で信じていたんだ。

 子供ながらの純粋で、残酷な心は。



「や、やっと終わった……」


 教室の机の上で力尽きる。そりゃもうバターのようにべたーと。


「あの糞オヤジ……」


 結局、院長を追い回しているうちに、あろうことか院内にまで侵入した院長が中庭にある池に自転車ごと突っ込んだという決着になった。

 もちろん、僕の靴は道連れでびしょぬれ。トドメに、院内でばか騒ぎしたから当たり前だが、婦長からはナースステーションの前で正座のまま説教を受けた。更には琴美からは「……何やってんの?」と、冷やかな目で見られる始末。

 もういろんな意味でへとへとになった状態で、やっとこさ学校に戻った時にはHR終了間際、という状態だった。友達からは何をしていたかの質問攻めにあい、生活指導の先生からはまたニュアンスの違った質問攻めにあったりと散々だ。


「ほんとに疲れた……」


 できればもう少し休んでいたいけど、早く病院に行って琴美の話相手にならないと。

 ここらへんの界隈の子供はみんな元気で、入院するほどに重病な子は少ない。まぁ、たまたまみんな健康ってだけなんだろうけど。

 だから、入院患者はお年寄りが多い。別に琴美がお年寄りが嫌いだったりするわけではなくて(むしろ積極的だ)、同い年の子が話相手になってくれるとうれしいだろう、と院長が言ったからだ。それ以来、僕は毎日病院に行っている。

 ……本当は、僕が彼女に会いたいからなんだけど。


「……帰ろう」


 カバンを持ち、教室を出る。

 教材は全部置いてってるから鞄が軽くて楽だ。琴美にはよくだらしがないと怒られるが、毎日毎日重たい教科書やらノートやらを持って登下校したくない。


「お、柊弥。ちょっと待った」


 下駄箱で外履きに履き替えていると、背後から馴染みのある声が聞こえた。


「飛坂先生?」


 僕のクラスの担任の飛坂智明先生。

 若くして教師になったので、僕達にとっては頼れるお兄さんみたいな感じだ。

飄々としていて、掴み所のない性格で人気者。整った顔立ちとスラっとした体系もその人気に拍車をかけている。(特に女子)

 だけど、先生は生まれつき、なのかは定かではないが、左手がまったく動かせないのだ。正確には左上肢まるごと。いつも平気そうにしているから、仕事には問題がなさそうに見えるけど、苦労は多いだろう。


「もう帰るのか?」

「ええ、寄らなきゃいけないところがあって」

「寄るところって、病院だろ?」

「……なんでわかったんですか?」


 僕が毎日病院に行っているのはバレてないはずなのに。


「おまえ病院が隣なの忘れてるのか?」

「あ……」

「……ほんとに忘れてたのか?」


 あーうん。そういえばそうだ。隣なんだから、下校中に誰かに見られてもおかしくない。


「盲点だった……」

「……秋宮って天然だよな」

「そんなことないです」


 一応否定しとこう。あんまり説得力ないけど。


「まぁいいけどな。俺が言いたいのは、病院行くなら一緒に行かないかって話だ」

「先生が? 病院、ですか?」

「まぁ……定期健診みたいなもんだ」


 そう言って、先生は左肩をぽんぽんと叩いた。心に抱えた感情を隠すような笑みを浮かべて。


「……別にいいですよ」


 まぁ、この人なら、人の事情を他言することはないだろう。きっとこの人も、隠すことしかできない何かを持っているだろうから。


「お、いいのか?」

「ええ。そう言ったつもりですけど」

「いやぁ、な? わざわざ知られないようにしてたんだろ?」

「まぁ、そうですけど……なんかどうでもよくなっちゃって」


 あはは、と軽く笑ってみた。


「そうか」

「それじゃ行きましょうか」


 早くしないと。琴美が怒るだろうし。



「それじゃあ秋宮は毎日その幼なじみのお見舞いに?」

「ええ」

「はぁ~。大変だな」

「そうでもないですよ。話すのが楽しいですから」


 実際、琴美と話していると退屈はしない。元気で口数も多く、知識もたくさんある。病気なんてなければ学校で人気者になれる器だ。欲目もあるかもしれないけど、見た目もかなりかわいいし。


「……青春だな」


 急にニヤけだす先生。その先生の表情を、僕は薄目で睨みつけた。


「そんなんじゃないですよ」


 それは決して嘘や謙遜ではなく。甘いロマンスなんて僕らには一切ない。

 なんというか、けなしけなされの繰り返しみたいなもんだ。ドラマや小説で見るような愛を語り合う僕たちの姿なんて想像も出来ない。


「おまえってあんまり浮いた話を聞かないからな。先生は秋宮がちゃんと異性に興味津々で安心したよ」


 したり顔で何回も頷く先生。なんだか気恥ずかしくなって、僕は視線を逸らす。


「だからそんなんじゃないって言ってるのに……」

「いいか? とにかく若いうちは元気にはっちゃけろ」

「……はぁ」


 この人、話を聞いちゃいない。


「先、行きますよ」

「まぁまぁ、そう時間はかからない話だから」

「だから、急いでるんですよ」

「いやけど、実際積極的にアタックしてったほうがいいぞ」

「だから……はぁ」


 もう何を言っても無駄な気がして、僕は抵抗をやめる。


「その娘、琴美ちゃん……だったか」

「……なんで知ってるんですか?」

「有名な話だぞ。ある女性入院患者とある男の密会ってやつなんだけど」

「……誰から聞きました?」

「ん? 目がキリッとして髪をアップにした看護士さんと、院長先生だな」


 聞くまでもなかった。あんのクソ親父。次会ったらただじゃおかねぇ。瑞穂さんには逆らえないから不問にしてあげるけど。

 怖いわけじゃない。ただどうせ仕返しされるのだから無駄だということで。

 …………情けねぇー。


「なぁ……」

「はい?」


 先生の顔は、さっきまでとは明らかに違う感情が浮かんでいる。


「その、踏み込んだことかもしんないが。彼女、もう長いこと入院してるのか? 大丈夫、なのか?」


 ドクン。


 また心臓が跳ねる。前より確かに、力強く。何度も、何度も跳ねる。心臓が激しい鼓動を起こす度に、一つの確信が形を構成していく。

 ああ、そうか。

 僕は、それを考えたくなかったのか。

 届いていたものが届かなくなる。触れていたものが触れられなくなる。そんな、まるで絶望のような事実を。


「お、おい。大丈夫か? 顔色悪いぞ」


 琴美が、いつか僕の前から消えてしまうという現実を。

 受け入れたく、なくて。


「柊弥!」

「……え?」

「おまえ、本当に大丈夫か?」

「え、ええ」


 ボーっとする頭を振って、何度も瞬きを繰り返す。そうして、ようやく僕は先生に肩を捕まれて揺らされていることに気づいた。


「悪い……聞いちゃいけないことみたいだな、いや、当たり前か……」

「いえ……そんなことないです」


 きっと、言われなきゃいけなかったことだ。でないと僕は、ずっと目を逸らしたままだった。目を逸らしたまま、何も考えず日々を過ごしていただけだ。


「質問の答えですけど……わからないんです」


 院長は僕に琴美の病気に関してのことは一切教えてくれない。ただ琴美の体は衰弱していき、その行き着く先は……。

 例えそれが確定した未来だとしても、いつ起こるのかわからない。

 なんの確証もない未来ってのは、みんなと同じだ。けれど、必ず人より早めに来る終わりがあるという部分が、圧倒的に違う。


「そうか……大変だな」


 渋面となった先生に向けて、苦笑いを向ける。


「……僕より、彼女のほうが大変ですよ」


 明日、必ず生きていられるという確信も持てずに生きていく。

 僕より、よっぽど辛い。


「そう、か……」


 一度だけ溜息を吐いて、先生が僕の方を軽く叩く。


「……けどな、辛いとか楽しいとか。そういう感情は人によってその大きさが違うんだ。ある人には死んでしまうくらいのつらい現実でも、ある人にとっては『そんなことで』と笑い飛ばせるくらいに余裕がある人もいる」


 感情に定量はない。基準もなく、比べても答えが出ない。


「そりゃ彼女も辛いだろうが。おまえだって、辛くないわけじゃないだろ? 人の感情ってのは、そんなにうまく量れるもんじゃない」


 誰よりも辛い、だなんて。口にしたところでその整合性なんて誰もわからない。


「……どうした? また変なこと言っちまったか?」

「いえ……ただ、ちゃんと先生なんだな、と思っただけです」

「……どういう意味だよ」


 不貞腐れたように表情を崩す先生を見て、僕はようやく、拙くもあるが微笑むことができた。



 先生とは向かう病棟が違うため、入り口で別れることになった。いつもならわざわざ入口からではなく、今朝のように直接琴美の病室に向かうのだが、今日はロビーの長椅子で少し休んでから行くことにした。先生に知られてるということは、クラスのみんなにも知られてるってことだ。もう今更隠す気も起きない。

 待合室に置かれている自動販売機に小銭を入れ、ココアのボタンを押す。ガコンッ、と音を立てて出てきたココアを手に取った。ロビーの長椅子に戻り、温かいココアを一口飲む。


「あま……」


 僕はもともと甘い物が苦手だ。なら何故ココアを買ったのだろう。考えてみても、理由なんて思いつかなかった。強いて言うなら、なんとなく。


「いっつも琴美はこれを飲んでるんだよな……」


 そう、なんとなくそれを思い出しただけ。僕とは対照的に、琴美は大の甘党だ。ケーキとか和菓子とか、毎日食べないと死んでしまう! とわざわざ大声で公言してたりする。

 琴美の言ってることが本当なら、琴美はこのココアに生かさせてもらってるということだ。この、たった百二十円で買えてしまうぬくもりのおかげで。

 ……お願いだから、僕にも元気をくれないか?

 そんな願いを心のなかでつぶやき、僕はココアを一気に飲み干した。

 くどい甘味と、暖かなぬくもりが、体に広がっていった。



「やっほ。調子はどう?」


 僕は努めて明るく琴美に挨拶する。今まで寝てたのか、琴美はベットのリクライニングを起こしている最中だった。


「寝てたのか?」

「うん。最近暇でね。やることないんだよ」


 そう言ってあくびを一つ。どうやら本気でやることがなく、昼から今までずっと寝ていたようだ。その証拠に、顔を横にして眠っていたのか、顔の右半分だけが赤くなっている。


「趣味とかないのか?」

「趣味?」

「ああ、なんでもいいよ。何かないの?」


 この広くも狭い病院の中で、琴美が普段何をしているのか。それが、少し気になった。


「ない、かな。毎日色々やってるから、趣味って言えるほどのものはないよ。あっ、ねぇねぇ、じゃあ柊弥が考えて見てよ」

「うーん……そうだな」


 悩んでしまう。そもそも僕だって人のことを言えるほど何かに熱中しているわけでもない。ゲームも読書も、たいていのことは人並みにやるけど、どれも趣味と呼べるほどでもない。


「無難に読書なんてどうだ?」

「……読書なら」


 琴美が指差した方向にはダンボールがいくつか縦に並んで置いてあった。あまり触れることがないのか、うっすらと埃がたまっている。

 僕は椅子から立ち上がり、ダンボールに近づき、開いてみた。


「うわっ、すごい量だな」


 そこには面積分一杯にびっしりと本が詰まっていた。ハードカバーの分厚いものも、文庫本サイズの小さなものもある。他のダンボールも開けてみる。

 ……結果は同じだった。


「なんだ。趣味らしい趣味があるじゃないか」

「けどそれ昔のだから。今はもう読んでないから趣味とは言えないよ」

「どうして今は読まないんだ?」

「……おもしろくないから」


 窓の外を見ながら、琴美はつぶやいた。


「そっか……」


 窓から差し込む夕日を見る琴美に、僕はそれ以上何も聞けなかった。幼なじみでも結局は他人でしかない。踏み込んでいい時といけない時がある。今がそのいけない時だ。

 気まずくなった空気から目を逸らすように、僕はダンボールの中にある本の題名を見ていく。タイトルから見て、全部、恋愛小説のようだった。


「まぁ。無理に作る必要があるわけでもないしな」


 僕にだって趣味の一つもないんだから。


「そうだ、勉強でもしていたらどうだ?」

「ちゃんとしてるもん。私、柊弥より頭いいって自信あるよ」


 得意げに胸を張っている琴美を見て、僕はうまく話を逸らせたと安心した。同時に、馬鹿にされたような気がしてちょっと対抗意識が燃える。


「よしいいだろう。そこまで言うなら勝負をしようじゃないか」


 僕は鞄からプリントを一枚取り出して琴美に渡した。


「何これ」

「今日あった抜き打ちテストの問題。これで僕より高得点だったらさっき言ったことを認めてやろう」

「いいけど、柊弥は何点だったの?」

「……三十点」


 病室に、さっきまでとはちょっと種類の違う沈黙が立ち込める。


「……何点中?」

「…………百」


 顔を逸らして呟く僕を見て、琴美は深くため息を吐いた。

 ……結果は、惨敗だった。

 満点なんて、初めて見た。



 今から七年前。父さんが死んだ。

 車に轢かれそうになった子供を助けるために車道に飛び込み、代わりに轢かれたらしい。

 父さんの葬式にはたくさんの人が参列した。仕事仲間、親戚、他にも見たことのないたくさん人。みんな、とても悲しい顔をしていた。

 僕には、その悲しみの理由が理解できなかった。

 どうして? どうしてみんな悲しんでるの?

 僕はうれしいよ? お父さんがいないからもう転校もしない。

 もう誰ともお別れしなくていいんだよ?

 なのに、なんでみんな泣いてるの?

 どうして、笑っている僕を怒るの? 笑っている僕を見て泣くの?

 僕はうれしいんだよ? うれしいから、笑っているんだよ?

 僕は―――



「はぁ~…」


 授業中、昼休みを目前に控えたこの時間。僕は眠気と戦っていた。

 僕の席は窓際の一番後ろ。誰もが羨む魅惑の座席だ。教師の視線をの隙を見つけは漫画を読んだり次の授業の宿題をしたりと素敵な特典がある。

 しかし、しかしだ。


「眠い……」


 授業中だというのに緊張感もなく、窓からは暖かな日の光りがサンサンと照っている。つまり、とにかく眠くなってしまうのだ。別に僕は品行方正とは言えない生徒だけど、真面目に授業を受けようと思う時だってある。そんな殊勝な心がけさえ、この座席の前では無力に等しい。


「ほんとに眠い……」


 やばい、本気で眠ってしまいそうだ。眠気を追い払うために、思いっきり頬をつねってみる。けど、ダメだ。少しは意識が冴えるけど、またすぐに眠くなる。このままだといつのまにか意識が飛んでしまいそうだ。一応話を聞いてないといざ指された時に対応できない。

 それに今は飛坂先生の授業だ。あの人、容赦なく当ててくるからなぁ。

 ……仕方ない。


「あの、先生。お腹が痛いのでトイレ行って来てもいいですか?」

「ん? いいぞ、手早くな」


 生返事をしつつ、席を立つ。


「大丈夫?」

「ああ、うん。大丈夫だよ」


 う、クラスメイトに心配されてしまった。なんかちょっと罪悪感が……。

 とにかく廊下に出る。だがここで安心してはいけない、教員は不定期に校舎内を徘徊してるんだ。辺りを見回し、人気がないことを確認して一安心する。その緊張感のせいか、眠気はどこかに行ってしまっていた。


「どうしようかな」


 腹痛を理由に出てきたんだからすぐ戻るわけにもいかないし、琴美にバレたら怒られるから病院にも行けない。さてどうしたものかと考え、結局トイレには行かず、一目のつかない所で休んでいることにする。あまり足音を立てないように廊下を歩いていく。


「秋宮くん?」

「うわっ!」


 驚き、声のした方向に目を向けると、少女の後ろで束ねられた黒髪の房がぴょこんと動いていた。


「み、水夏(みなか)さん……?」


 曲がり角の先に、僕と同じクラスの女の子がいた。名前は水夏沙紀(みなかさき)。よく笑う素直な娘で、顔も整ってかわいいからクラスの男子の中でも人気が高い。同性からも好かれていて、いつも誰かと楽しげに話してるのを見かける。


「今授業中のはずだけど、何してるの?」

「えっと、ほらっ、トイレに行こうと思ってて……」

「トイレ、もう過ぎてるよ?」

「……そっちこそ、授業中なのに何してるのさ」

「さっき体育の授業だったでしょ? ケガした子がいたからその付き添いでね」


 何も言葉を発することができず、沈黙が漂う。


「……じゃ、そういうことで」

「待った待った」


 立ち去ろうとしたところ、ガッシリと肩をつかまれる。


「……まぁその、なんといいますか。できればこのまま手を離して僕のことは見なかったことにしてもらえると」

「うん、ごめん。それ無理」



「うわぁ~~~、さっむい!」


 屋上に出ると、肌に突き刺すような冷たい風が吹いていた。


「そりゃ冬なんだから、寒いに決まってるよ」


 脅迫されて泣く泣く買ったミルクティーの缶を渡してあげる。


「あ~~、あったかい……」

「暖を取るのはいいけど、温かいうちに飲んだほうがいいよ」

「あれ? 秋宮くんは買ってないの?」

「うん、ちょっと金欠気味だからさ」

「……はい、半分あげる」


 グイッと缶を傾けて飲んだ後、水夏さんは僕に缶を差し出した。


「いいの?」

「いいも何も、もともと秋宮くんのお金だし」

「……口止め料じゃなかったの?」

「友達からそんなものもらわないよ。だいたいこうしてここにいるわたしだって同罪だしね」

「……それもそっか」


 元々屋上には向かうつもりだったし、暖を取るために何らかの温かい飲み物は買うつもりだった。

 受け取って一口飲む。口の中に甘味が広がったあと、食道を冷えた体には痛いぐらいの熱が通る。僕がその感覚に一息ついていると、何故だか水夏さんは少し顔を赤くしていた。


「……き、気にしないんだね」

「え、何が?」

「ほら……か、間接キス」

「……ああ」


 まったく意識してなかった。回し飲みなんて琴美とは数えきれないほどしてきたし、今さら照れもしない。


「……うーん、どうやらほんとみたいだね」

「何が?」

「秋宮くんの彼女が隣の病院に入院してて、毎日放課後逢引きしてるって」


 頭を抱えるまでに、一秒かかってません。


「……なに、それみんな知ってるの?」

「そうだね、ウチのクラスはみんな知ってるかな」


 ……なんだか、今までの僕の苦労が全部アホらしくなってきた。いや、元々盛大にアホらしかったのかもしれないけど。


「彼女でもないし、逢引きなんてしてないよ」

「じゃあそれ以外はほんとなんだ」

「まぁ、ね」


 僕が必死になって琴美との関係を隠していたのにはもう一つ、ちゃんとした理由がある。

 病気の女の子を見舞いに行く幼なじみの男の子。そんなの、その手のドラマや小説であまりにもありふれたストーリーラインだ。けど、当事者にとってそれは紛れもない現実で。ありふれているからこそ。


「そっか、そうなんだ」


 水夏さんは嬉しそうに手のひらを合わせて、笑顔のまま、口にする。


「なら、みんなに教えてあげないと」


 ───こうやって、まるでフィクションのように楽しまれることが悔しくてしょうがない。


 ああ、くそ。どうして、どうして。

 こんな奴らがこれから先も生き続けるのに。どうして琴美は死ななくちゃいけないんだろう───


 頭を抱えていた指先の骨が、軋むほどに強く、自分の頭に爪を立てる。


 ちょっと待て。

 今、僕は、なんて思った?

 何を、嘆いた?


「秋宮くん?」

「ああ、いや。なんでもないよ」


 両手を頭から離して、水夏さんに笑いかける。


「それよりさ。その、あんまり言いふらさないでほしいんだ」

「もちろんそんなことしないよ」

「え?」

「秋宮くん、いつも教室にいる時窓から病院の方見てるよね。その時さ、すっごく悲しそうな顔してるの、みんな知ってるんだよ」


 気恥ずかしいのか、少しだけ頬を染めながら。


「だからクラスのみんな、秋宮くんの事情をおもしろおかしく語ったりなんて絶対しないよ。約束する」


 けど、最後だけは恥ずかしがることもなく、僕の目をしっかりと見て言ってくれた。


「……そう。それは……うん、うれしいな」


 ずっと一人で溜め込んできたものが、少しだけ軽くなった気がする。


「でさ、告白はいつするの?」


 ……あれ?


「あの、水夏さん。さっき言ったこと全否定するようなこと聞かれたような……」

「大丈夫大丈夫。だってこれはただの恋バナだもん」

「…………さいですか」


 納得は、できてないけど。反論したところで意味もなさそうだ。


「柊弥くんって実はけっこう人気あるんだよ? みんな気になってるんだって」

「人気、ねぇ……」


 ずっと琴美にかかりきりで、クラスのみんなとの関係も希薄な僕に人気なんかあるとは思えないけど……。


「で、どうなの?」


 ……そうだな。この質問は僕だけに向けられたものだ。


「……うん、好きだよ。いつか告白しようとも思ってる」


 水夏さんの顔が、何故か一瞬で真っ赤に変わる。


「……いや、そこでどうして水夏さんが顔を赤くするのさ」

「う……その、男の子がマジメな顔で『好きだよ』なんて言ってる姿、目の前で見たの初めてだから……」

「へぇ……意外だな。水夏さんこそ人気があるってうわさなのに。告白だってされたことあるでしょ?」

「それは……ある、けど。けどそういう時って、みんな緊張してたりするでしょ。目が泳いでる人もいたし」

「そう、だろうね」


 僕たちの年代でそう何度も告白したことある人なんてそうそういないだろう。自分の感情、それも恋愛感情を曝け出したりしていたら、照れて当たり前だ。


「けどほら、僕だって本人を前にして言ったわけじゃないんだし」

「うーん……けど、秋宮くんが照れてる姿って想像できないなぁ……」

「いやいや、僕だって人並みの羞恥心は持ち合わせてるよ」


 今だって、かなり恥ずかしい思いはしてるんだから。


「そうじゃなくって……なんだろう。秋宮くんってあたしたちと同い年に思えないというか」

「……それは、遠まわしに老けてるって言ってるのかな……?」

「ち、違うよ!? そんなこと言ってないからね! 秋宮くん全然老けてないし、えっと……女の子みたいで綺麗な顔してるよ! うんっ!」

「……それ、フォローになってないから」


 昔から女顔なの気にしてるのに……。琴美と外で遊んでた時もよく『女の子二人が仲良く公園で遊んでる』って誤解されてたもんなぁ……。


「うう……その、なんて言いたいかというとね。秋宮くんって、大人っぽいんだよ。ズバ抜けて」


 少しだけ、言い淀むように。


「まるで……あたしたちが今いる時期なんてとっくに過ごしてきた、みたいな……」

「……ちなみに留年もしてないからね? というかしようがないからね。中学だし」

「わ、わかってるよっ!?」


 慌てて否定してくれる水夏さんを見て笑っていると、校舎の中から甲高いチャイムの音が響いてきた。


「さて。そろそろ戻らないとね。水夏さんはいいけど、僕はずいぶん長いトイレだと思われちゃう」


「……ごめんね、わざわざこんなところまで呼んで」

「いいよ、気にしないで。僕は元々サボりだったんだから。それに、良い気分転換になった」


 一度自分の気持ちをはっきりと口にすると、なんだか気持ちが楽になったし、やるべきものも見えてきた。決意、と言うには少し大げさかもしれないけど。


「……うん、そっか」

「それじゃ、あたしは先に戻ってるね」

「うん、また後で」


 水夏さんが屋上を出て行く。僕はその姿を黙って見ていた。


「……良い人だよな、ほんと」


 ……さっき、僕はその彼女に対してなんて思った?


「ふざけんなよ……」


 握り締めた拳。手のひらに爪が突き刺さるぐらいに、強く。

 あんな良い娘に対して、僕はなんて思った?


 こんな奴らがこれから先も生き続けるのに。どうして琴美は死ななくちゃいけないんだろう───


 ふざけてる。最低だ。

 僕たちの関係をただ見守ってくれていた彼らに対してなんて間違った考えか。

 そして、何より。


「どう、して……!」


 まるで、琴美が死ぬことが決定事項かのように考えた自分が。何より、許せなかった。



「きみは、ぼくを怒らないの?」


 お父さんが死んだことを、僕は嬉しく思った。

 これで僕はみんなとお別れしなくて済む。悲しい思いをしないで済む。

 そう言ったら、僕はお母さんに叩かれた。

 みんなそうだった。みんな僕が喜んでいると決まって怒りだした。

 そんなみんなが嫌いで、僕はいつも一人で公園にいた。

 公園にいても怖がりな僕は遊具の一つにも乗れず、ただベンチの上に座っているだけ。

 そんな毎日のある日、一人の女の子が僕の前に現れた。

 女の子は僕によく話しかけてきた。

 うれしそうに、楽しそうに。今日あったこと、明日あることを笑顔で語り続けていた。僕はそんな女の子を疎ましく思った。

 だから、話した。父さんのこと。僕の喜び。みんなが僕を怒ることがいかに見当違いかを話した。だからきっと、この娘も僕を怒る。僕の喜びを間違ってると決め付ける。そうに決まってる。

 そう決め付けて、僕は目を閉じた。

 女の子が近づいてくる。

 さぁ、僕を怒れ、呆れろ。もう僕に関わらないで、ただただこの喜びに浸らして欲しい。

 けれど、罵声も、嗚咽も聞こえてこない。

 気づけば、女の子の暖かい手が、僕の頭に触れていた。

 優しく、撫でられる。


「怒らないよ」

「え?」


 女の子は笑っていた。

 テレビや雑誌でどんなに綺麗だと言われている人より、どんなに可愛いと言われている人より。


「怒らないから、ね?」


 女の子の笑顔は、綺麗で、可愛いくて、優しかった。



「あ~~~、疲れた……」


 水夏さん、さっそくクラスのみんなに言いふらすんだもんな……。おかげで午後の時間丸々質問やら何やらで潰れてしまったような。いや、それでいいのか飛坂先生。というか先導してましたよね。いいの? それで。先生として、大人としてさ。


「うーん、けど。悪いことだけじゃないのかもな」


 僕のクラスには、僕と同じ小学校だった人もたくさんいる。その人たちは、みんな琴美のことを知っていたけど、入院するようになってからは親しくしていた僕しか事情を知らされずにいたらしい。今度の終末、そんな人たちを連れてみんなで琴美のお見舞いに行くことになった。

 二人で話すのももちろん楽しいけど、やっぱりもう一度、みんなの輪の中で笑う琴美を見たい。そう思うと、みんなに僕たちの関係や事情を知られたことは、思ったよりも良いことだったのかもしれない。


「琴美、驚くだろうな」


 驚いて、隠していた僕に対してちょっぴり怒って、そしてみんなに照れながらも笑いかけるんだ。そんな妄想とも想像とも取れる考えをしながら、病院までの道を歩いていた。

 この道も、使うようになってもうけっこう経つ。一人で公園に遊びに行く時も、琴美と一緒に行く時も、学校に行く時も、いつも使ってきた。そう、この夕日の色に染まった、赤い道を。


「……え?」


 その夕日の赤色が、次第に、更に赤く、真っ赤に変わって。



 拉げた大きな車体が見えた。壁を削り取るような軌跡。大きなトラックは、夕日に当たって赤くオレンジ色に。だが、それよりも真っ赤な、何かが破裂したかのように。


 真っ赤な、紅く、朱い華のような何かが、壁に咲いて。



「なん、だ……今、の……」


 脳裏に走った光景。その中の鮮烈なまでの赤色に、眩暈する。


「知らない。僕は、そんな光景知らない……」


 そんな、真っ赤すぎて直視できないほど凄惨な光景なんて、僕は知らないのに。


「……あれだ。デジャブとか、とにかくそういう記憶違いだ。きっと、そうだ」


 映画や漫画でのそういう凄惨な光景を、さも自分が実際に目にした光景だと錯覚してしまったんだ。

 そうじゃないと、説明がつかない。


「疲れてんのかな。ま、早く行って少し休ませてもらおうかなっ」


 努めて、わざとらしくもそう明るく口にする。だって、そうとでもしないと。また頭の中にあの光景が浮かんできそうで。そうだ。早く、あんな光景忘れてしまわないと。


 だって、あの光景の中にあった栗色の髪は、どう考えたって―――。

          


「……こんにちは」


 今更隠れて琴美の病院に向かうのもバカらしい。だから僕は真正面から病院に入り、琴美の病室に向かうことにした。


「あれま、珍しい」

「……どうも」


 覚悟はしてたとはいえ、こうして目の前に立たれると否応がなくゲンナリしてしまう。


「お久しぶりです、瑞穂さん」


 涼森瑞穂(すずもりみずほ)。この病院に勤務している看護士だ。見た目は美人のお姉さんなんだけど、とにかく、ほんと、ほんっとうに性格が悪い。人をからかいイジることが天命だとでも言わんばかりに僕にちょっかい出しては、場を引っかき回していく。そのくせ人並みの常識や良識は持ち合わせてるのか、引き際を見極めるのもうまいし、本人が本気で嫌がっていたらしっかりやめてくれる。

 ……まぁ。だからこそタチが悪いというか。


「おう、久しぶり。今日はまたいつものバレバレなルートは使わなかったんだ」


 さっそく聞いてきますか。


「なんのことやら。そもそもそんな回りくどいこと僕は一切していませんとも、ええ」

「じゃあこの撮り初めて数年経ったこの膨大な映像データは、いったいどういうことなんだろうね」

「撮ってたの!?」

「うん、バッチリ。夜遅くに来ることも考えてわざわざ高性能暗視カメラも設置していた」

「なんでそんなことに金使ってんだあんたは……無駄使いもいいとこだ」

「え? あたしは一銭も出してないよ。全部経費」

「病院の経費をなんだと思ってんだよ! 国の金だぞ!」

「その辺りはしっかり院長から許可は出てる。というか院長の発案だ」

「ほんとに何考えてんだろうなぁあの糞オヤジ!」

「こらこら、病院で騒ぐんじゃないよ」

「き、急に正論言いやがって……」


 疲れる。すっごい疲れるよこの人……。


「もういいですから。静かにしますから。それじゃ……」


 立ち去ろうと背を向けた僕の肩に、瑞穂さんの手が置かれる。


「待った待った。今日は琴美ちゃんとの逢瀬は無理だよ」

「だから逢瀬じゃ……って、何でですか」

「検査だよ。毎日来てるんだから、わかるだろ?」


 月に一度、琴美には精密検査の日がある。それは知ってたけど、いつやるかなんて僕は知らない。いつもは琴美が前もって教えてくれるんだけど。


「いえ、知りませんでした」

「……まいったな。これは大誤算だ」


 珍しく真顔で瑞穂さんが呟く。そして僕をしっかりと見据える。


「とにかく、そういうわけだから今日はこのまま帰ったほうがいい」

「別に、終わる待てますよ? そんなに時間はかからないでしょう?」

「……警告のつもりで言ったんだが」


「もういい加減にしてよっ!!」


「……え」


 耳を劈くような、高い声の叫びが病院の中に響き渡る。

 ちょっと、待ってくれ。今の声は、確かに。


「いつもいつも同じことばっか! 何度言われたって無理だよ!! 必ず良くなるって、その『必ず』っていつくるの!? 明日? 明後日!? 毎日毎日、明日こそはきっとって思って、裏切られて、何度そんなこと繰り返せばいいの!? もうやだよ! 私はもう、やだっ! いやぁ!!」


 バタバタと辺りを踏み鳴らす音。聞き覚えのある声。怒声。叫び。静寂は消え、いくつもの耳障りな音が連続して耳に響く。


「あ……」


 僕は知ってる。この声が誰のものだか、知ってる。


「こと───!」


 駆け出そうとして、肩を掴まれた。振り切ろうとしてもその力は強くて、その指先は痛いほど肉に食い込む。


「離せっ、離せよっ!! 琴美が、あんな辛そうにっ」

「……行って、あんたに何ができるのさ」


 瑞穂さんの目つきは鋭く、声は冷たい。けど、そんなことに覚えている暇はない。


「何ができるって、そんなの知るかっ! いいから離せよ!!」

「……言い方を変えるよ」


 掴まれた肩が回される。顔を両手で固定され、目の前に瑞穂さんの瞳が現れる。


「あんたは、泣いてる琴美ちゃんをちゃんと見れるのか?」


 質問の意味がわからない。頭の両脇から挟む手を解こうと爪を立てる。ちゃんと見れるか? 見れるに決まってる。そんな当たり前なことをどうして今───


 ――泣いてる、琴美?


「あ……」


 知らない。違う。そんな、そんな琴美なんて、見たことがない。あの琴美が、いつも笑って僕の目の前にいる琴美が泣いてる姿なんて。

 僕は、見たことがない。


「見れるのか?」


 瑞穂さんは僕を見つめたまま、もう一度同じ質問をする。


「あんたはああして泣き叫ぶ琴美ちゃんを、ちゃんとその目で見れるのかって聞いてるんだっ」

「ぁ……っ」


 声が出せない。呼吸がうまくできない。唇が震えて、足も震えて。どこにも、力が入らなくて。

 琴美の元へ駆け出すことなんて、できなかった。いつのまにか、ずっと響いていた慟哭は止まっていた。けど、聞こえるはずのない小さい嗚咽が、耳の中でずっと鳴り響いていた。

 やっと動かせた両手で耳を塞いでも、ずっと、鳴り響いていた。



「検査の日は、いつもなんだよ」


 待合室のロビーには誰もいなくて、瑞穂さんの声がよく聞こえる。


「ああして騒いで、疲れ果てて眠る。そしたら次の日には笑ってるんだ」


 それを繰り返す。月に一度。いや、もしかしたらもっと多いかもしれない。いくつも、何度も。声を荒げて、泣き叫んで。

「無理してるってのは、誰の目から見ても明らかだ。けど、みんな何も言えなかった。その役目は、あたしたちにはなかったから」


 来院した人が座る長椅子に座りながら、その言葉を聞く。


「あの娘はまぁ、この病院のアイドルみたいなもんだからさ。こういう日は、誰も部屋から出ないで、じっとしてるんだよ。だから、今日はいつもより怖いぐらい静かだ」


 少しでも時間を見つけては、琴美は院内を歩き回り、声をかけていた。笑顔をふりまいて、みんなを元気付けていた。それが、僕の知っていた琴美。

 でもその先があることを、僕は見ないフリをしていた。


「……あんたがこの先、どうするかは自由だ。もう琴美ちゃんと関わらないで生きるのも、一つの手ではある」

「そんなの……」

「できるわけない、か?」


 そうだ。と、心の中ではすぐに断言できた。けど、言葉にならない。声帯を動かし、声にできない。


「じゃあ逆に聞くが、このまま関わって生きていけるのか?」

「……で」


 できる。

 そう、即答するべきなのに。


「今日はもう、帰りなさい」

「……帰れませんよ」


 優しく述べられた言葉を、そのまま受け取ることもできない。だって、琴美は今も苦しんでいるはずなのに。僕だけ逃げ出すことなんて、しちゃいけない。できるわけがない。


「じゃあ、帰らなくてもいい。とにかくここから少し離れなさい。どこでもいいから、一人でじっくり考えて、それから答えを出してきなさい」

「……はい」


 ロビーの長椅子から立ち上がり、病院から出ると、突き刺すような冷たい風が吹いていた。その冷たさでようやく、自分がコートを忘れてきたことに気づく。


「寒い、な……」


 それでも、もう一度病院に入ろうとは思えなかった。戻って、何ができるっていうんだ。何も考えず、足を前に出す。一歩、二歩。そうして機械的に動いたほうが、足はスムーズに動いた。

 病院の前には僕と琴美の遊び場だった公園がある。スプリングの錆び付いたシーソー。細々とした頼りない光を放つライト。

 そして、ペンキの剥げたジャングルジム。


「……小さいな」


 もっと大きかったはずのジャングルジム。今ではもう、簡単に登頂部まで登り詰められる。鉄でできたそれは、触れると氷のように冷たい。思い出すのは、その冷たさとは真逆の、陽だまりのような温かさ。


「あ……」


 だから、あの時感じた温かさが嬉しかったんだ。

 だから、あの時交わした約束があったんだ。


「そうだ……そうだよ」


 あの時、交わした約束は決して、まだなくなっちゃいないのに。

 僕は、こんなところで何をしているんだ。


「戻らないと……」


 手のひらを握り締め、振り返る。まだやることがある。


 だから。


 だけど。


 顔を青ざめて走り回る看護士たちの姿が目に飛び込んできた時。もしかしたらこの世にいるかもしれない神様を。

 初めて、殺してやりたいと思った。


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