序章 ―― 地上の役立たず
空を飛ぶ姉がいるなら、
地上を走らせる姉がいてもいいと思った。
これは、列車の時刻に人生を捧げた女の話です。
「姉ちゃん……またお湯でしょ。これで今週三回目だよ」
標の声が、台所から静かに飛んでくる。
振り返ると、シルバーのパッケージの中で、
黒いソースと濁り湯が混じり合った液体の中に、麺がぐったりと沈んでいた。
「……あ」
それだけしか言えなかった。
私——時刻 結衣、
二十七歳——は首都圏鉄道株式会社 東京指令センターの運行管理士だ。
一日に百本を超える列車の位置と速度と遅延をリアルタイムで把握し、
相模中央鉄道との直通調整を秒単位でこなし、
NR東日本の指令官が電話口で怒鳴り散らしても片眉ひとつ動かさない人間だ。
そんな私が。
三分という時間を、計測することができなかった。
標が黙って新しいお湯を沸かし始める。
ケトルのランプが赤く点る。
「......一回、目で見て待ったら?」
「考えごとをしていた」
「ダイヤ?」
「……改正案」
標はため息をついた。
怒った声ではなかった。
呆れた、でも慣れた、弟の声だった。
二十四歳の弟——時刻 標はこの家の食事と掃除とゴミ出しと、
それから私の生存確認を一手に引き受けている。
姉の凄さを誰より近くで見ているくせに、
その姉がカップ焼きそばのお湯を処理できないことも、
毎週のゴミの日をまちがえることも、ぜんぶ知っている。
それでも怒らない。
それが余計に、居たたまれない。
改めて画面を見る。
テーブルの上には、折り込み線だらけの時刻表が一冊。
昨夜から開いたまま、ページを替えるのも忘れてそのままだ。
昭和五十三年——私が生まれるより前に印刷されたダイヤ。
とっくに廃止された路線の、もう二度と動かない列車の、
1分単位の約束が、こまかい活字でびっしりと並んでいる。
列車は人の約束を運ぶ。
その約束を守ることが、私にできる唯一の誠実さだ。
地上の私は、ただの役立たずだ。
* * *
翌朝、東京指令センターのドアをくぐった瞬間。
スイッチが入る音がした——頭の奥で、何かが噛み合う。
モニターの光が顔を照らす。
六面のディスプレイには路線図と時刻と、動き続ける列車の点滅。
空調の匂い、電子音の底鳴り、指令官席の静かな緊張——
このすべてが、私を私にする。
「おはようございます、時刻さん。
今日の相中、朝からずいぶん機嫌が悪いですよ」
後輩の西崎が苦笑しながらモニターを指す。
相模中央鉄道の直通枠が、始発からじわりと詰まり始めていた。
「わかってる」
ヘッドセットをつける。
椅子に座る。
キーボードに指を乗せる。
頭の中で、ダイヤが走り出す。
——コレが私のダイヤグラム。
飛行機と違って、鉄道は「止められない」乗り物です。
だから彼女たちは、今日も秒単位で世界を繋いでいます。
次章から、地上のダイヤが動き始めます。




