-5- 発火
最初の数ページは、驚くほど静かだった。
《4月3日》
《大学が始まった。キャンパスは広くて、ちょっと疲れた。》
他愛のない記録。
誰かに見せるためではなく、ただ書かれた文字。
佐々木は淡々とページをめくった。
《5月10日》
《駅前のレストランでアルバイトを始めた。店長も、パートの小松さんも、河合さんも優しい。》
名前は、ただの情報としてそこにあった。
佐々木は何も考えず、次のページへ進む。
《仕事は忙しいけど、慣れたら大丈夫そう。》
《6月2日》
《新しく入ったアルバイトの朝山太陽くんに、ご飯に誘われた。少し驚いたけど、断る理由もなかった。》
文章はまだ軽い。
日常の延長線にある出来事。
《河合さんが、その話を聞いていた気がする。》
気がする、という曖昧さが残っていた。
《6月7日》
《遊びに行った。》
それだけだった。
一行だけの記録。
次のページ。
《帰りたかった。》
その下には、何も書かれていなかった。
佐々木の視線が、空白に吸い寄せられる。
ページを押さえる指に、わずかに力が入った。
《次のバイトの日、河合さんが私のことを藤井さんって呼んだ。》
ここで初めて、胸の奥がざわついた。
《今までそんな呼び方じゃなかったのに。》
文字の筆圧が、少し強くなっている。
《仕事を教えてもらえなかった。》
《忙しい時間に一人にされた。》
佐々木の手のひらが、じんわりと湿る。
《太陽くんには、いつも笑っている。》
ページをめくるたび、心拍が早まった。
《私が悪いのかな。》
その一文を読んだ瞬間、
佐々木の胸に、鈍い熱が生まれた。
《誰にも言えない。》
《家では、普通でいないといけない。》
文字が歪み、行間が乱れる。
《……淳平に会いたい。》
名前が書かれていた。
それだけで、佐々木の喉が詰まった。
《でも、迷惑かもしれない。》
最後のページには、日付だけが残っていた。
その下は、白紙だった。
佐々木は日記を閉じた。
汗ばんだ手のひらと、異様に熱い胸。
怒りはまだ形を持たない。
だが確かに、
彼の中で何かが目を覚まし始めていた。




