-2- 違和
美咲は自転車にまたがり、夜の道路を走っていた。
街灯の光が一定のリズムで流れていく。ペダルを踏んでいるはずなのに、どこか地面から浮いているような感覚があった。
交差点に差しかかる。
信号は赤だった。
美咲はブレーキをかけなかった。
進もうとして、ようやく後続車のクラクションで我に返る。慌てて足を地面につけると、心臓が大きく跳ねた。
自分が今、何をしようとしていたのか分からなかった。
――危ない。
そう思ったはずなのに、恐怖は少し遅れてやってきた。
赤信号が青に変わるまで、美咲はずっと前だけを見つめていた。
家に着くと、リビングのテレビがついていた。
ニュース番組の音だけが部屋に流れている。
「おかえり」
ソファに座った父が、画面から目を離さないまま言った。
それだけだった。
「ただいま」
美咲はそう返して靴を脱いだ。
大丈夫、と言おうとして、やめた。聞かれていないことに答える必要はないと思った。
「飯、温め直してある」
父はそれだけ言った。
美咲は首を小さく振り、「後で食べる」と答えた。
廊下を通り、自分の部屋へ向かう。
その背中を、父は一瞬だけ見た。
美咲の服に、暗い染みがあるのに気づいた。
父は眉をわずかに動かしたが、何も言わなかった。
テレビの音量を少しだけ上げ、視線を画面に戻した。
美咲は気づいていなかった。
自室に入り、ドアを閉める。
カーテン越しに街灯の光が差し込んでいた。
美咲は上着を脱ぎ、机の上に広げた。
袖口と裾に、はっきりとした汚れが残っている。
洗濯機に入れれば簡単に落ちるかもしれない。
でも、それは出来なかった。
この服は、縮みやすい。
前に一度、少しだけ形が変わってしまったことがある。
美咲は洗面所へ行き、タオルを濡らして戻ってきた。
ごしごしと擦らないよう、指先で押さえるように汚れを落とす。
――まだ大丈夫。
そう言い聞かせながら、何度も同じ場所を拭いた。
この服は、父が買ってくれたものだった。
もう何年も前になる。成長しても着られるようにと、少し大きめのサイズを選んでくれた。
「似合ってるな」
そう言った父の声を、美咲は覚えている。
机に視線を落とすと、古い写真が目に入った。
壁に貼られた一枚の写真。
父、佐々木、美咲、母。
四人が横一列に並び、カメラに向かって笑っている。
父の手が、佐々木の左肩に置かれている。
それがやけに自然に見えた。
美咲は写真を見つめたまま、小さく呟いた。
「……戻りたいな」
声は、ほとんど音にならなかった。
濡れたタオルを握る手に、力が入る。
汚れは、完全には落ちなかった。




