-10- 斡旋
細谷は閉店後の誰も居ない事務所で携帯電話を握りめていた。
営業時間外の店内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。事務所の時計の針の音だけが響いている。
「……頼めるか?」
相手は小松だった。
声は自然を装っていたが、指先には汗が滲んでいた。これが正しいかどうかなど、考える余裕はもうなかった。正しいかどうかではない。自分が助かるかどうかだ。
小松は短く息を吐いた。
「河合のこと?」
細谷は頷いた。
それ以上の説明はしなかった。説明をすれば、責任が形を持ってしまう気がした。
「別にいいけど」
小松の声は驚くほど軽かった。
「前から気に入らなかったし。ああいう女」
それだけだった。
正義も、同情も、義務感もない。ただの好き嫌い。
細谷はその軽さに一瞬だけ救われた気がした。自分だけが汚れるわけじゃない、そう思えたからだ。
通話が切れると、細谷はしばらく動けずにいた。
これでいい。これで、何もかもが丸く収まる。藤井家の怒りは収まり、世間は納得し、店は守られる。自分の立場も、生活も。
——そう信じるしかなかった。
⸻
小松は電話を切ると、少しだけ夜風に当たった。
街灯の下で携帯を操作し、いくつかの名前の中から一つを選ぶ。
半グレだとか、闇バイトだとか、そういう言葉は彼女の中ではとうに現実になっていた。
怖さはない。ためらいもない。
「一人、ちょっと懲らしめたい女がいるんだけど」
電話口の向こうで、笑う気配がした。
「顔は割れてる?」
「ええ、まあ」
「金は?」
「そっちは相談で」
小松はそれだけ話すと、電話を切った。
河合の顔が脳裏に浮かぶ。媚びた笑い方。人を見下す目。
「ざまあみろ」
小さく呟いたその言葉は、誰にも届かず夜に溶けた。
⸻
その頃、朝山太陽は雑居ビルの階段を下りていた。
スマートフォンを見ながら、片手で煙草を揉み消す。
最近は、こんな仕事ばかりだった。
女と遊び、金を使い、借金が増え、また少し危ない仕事をする。その繰り返し。どこで間違えたのかは分からない。考えようとも思わなかった。
画面に通知が表示される。
〈DM〉
知らないアカウントだった。
プロフィールは空欄。アイコンも初期設定のまま。
短い文面。
「単発。顔出し不要。簡単な仕事。
金、いい」
朝山は立ち止まり、画面を見つめた。
胸の奥で、ほんのわずかな違和感が芽生えたが、それはすぐに別の感情に押し流された。
——金。
それだけが、今の彼にとって現実だった。
指が、返信ボタンの上で一瞬止まる。
そして、何事もなかったように動いた。




