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-1- 日常

閉店後の店内は、昼間とは別の顔をしていた。

客のざわめきが消え、空調の低い音とモップが床を擦る音だけが残っている。

藤井美咲は、その静けさの中で黙々と作業を続けていた。


一日中立ちっぱなしだった足は重く、肩の奥に鈍い痛みが溜まっている。

早く帰って、シャワーを浴びて、布団に倒れ込みたい。

ただそれだけを考えながら、美咲はテーブルの下を拭いていた。


「藤井さん、そこまだ終わってないでしょ。」


背後から、少し高めの声が落ちてくる。

振り向かなくても誰の声か分かった。


河合春紀は、カウンターにもたれかかりながら、美咲を見ていた。

その手には、半分ほど残ったペットボトルの飲み物がある。

彼女はもう自分の作業を終えているらしく、どこか手持ち無沙汰そうだった。


「すみません、もう少しで——」


美咲がそう答えかけた瞬間、河合は一歩近づいた。


「ねえ藤井さん、それ新しい服?」


唐突な問いだった。

美咲は一瞬言葉に詰まり、視線を落とした。


淡いピンク色のブラウス。数年前高校入学の際に父が買ってくれたものだった。

「たまには明るい色もいいだろ」と、少し照れたように笑いながら。


「……はい。」


小さく答えると、河合はふっと笑った。


「へえ。似合ってるかどうかは別として、まあ頑張ってる感はあるよね。」


その言い方に、胸の奥がきゅっと縮む。

美咲は何も返さず、再びモップを動かそうとした。


その瞬間だった。


河合が、わざとらしく手を滑らせた。

ペットボトルが傾き、中身が美咲の胸元から腹部にかけてこぼれ落ちる。


「あ。」


乾いた声が、河合の口から出た。


甘い匂いが広がり、ブラウスに濃い染みができていく。

美咲は、ただ立ち尽くした。


「ごめーん、手が滑っちゃった。」


口ではそう言いながら、河合の表情には焦りはなかった。

むしろ、どこか満足そうですらある。


「藤井さん、ちゃんと避けてくれないと困るんだけど。」


美咲の喉がひくりと鳴った。

疲労で頭がうまく回らず、何を言えばいいのか分からない。


「……すみません。」


反射的に、そう言ってしまった。


河合は一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめた。


「まあいいや。着替え持ってきてないの?

 あ、でも藤井さんっていつも同じような服だもんね。」


その言葉が、静かな店内に落ちる。


近くにいた社員とアルバイトは、視線を逸らした。

誰も何も言わない。

誰も止めない。


河合はちらりと彼らの方を見てから、また美咲に向き直った。


「ねえ藤井さんさ、もっと愛想よくした方がいいよ。

 太陽くんとか、そういうところちゃんとしてたし。」


その名前を聞いた瞬間、美咲はわずかに顔を上げた。

もう辞めた男性アルバイト。

河合がやたらと距離を詰め、笑顔を向けていた相手。


「男の人と話すときは、あんな感じでいいのにさ。」


河合は楽しそうに言った。


美咲の視界が、じわりと滲む。

ブラウスの染みが、やけにくっきりと目に入った。


お父さんが選んでくれた服。

「似合うよ」と言ってくれた声が、頭の中で蘇る。


「……」


言葉は、出てこなかった。


河合はもう興味を失ったように背を向けた。


「じゃ、私先帰るね。

 藤井さん、後片付けよろしく。」


足音が遠ざかる。

ドアが閉まる音がして、店内は再び静かになった。


美咲はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

濡れた服が、じんわりと冷えていく。


モップの水音だけが、空虚に響いていた。


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