第54話 シスター、と消えたトマ
はじめまして、またはおかえりなさい。
この章では、静かな修道院の朝から一気に空気が張りつめ、失踪した少年トマを追うために、ライとセラフィーナたちが動き出します。小さな“風鈴の音”や“パンくず”、そして“紙鳥の合図”など、手がかりを積み上げて進む捜査パートが中心です。
読みやすさを大事にしつつ、緊張とわずかなユーモアを混ぜました。「続きが気になる」と思ってもらえたらうれしいです。
もし「面白そう」「続きも読みたい」と感じたら、今のうちにブックマークをしておいてください。次の更新がすぐ見つかります。では、本編へどうぞ。
修道院の朝は、いつもと同じように始まった。
まだ空気の冷たい時間。石造りの回廊には夜露が残り、足を運ぶとひんやりと湿った感触が靴底に伝わる。厨房の奥からは焼きたてのパンの香ばしい匂いが流れ、子どもたちの胃袋をくすぐる。
中庭では小鳥が枝から枝へと飛び移り、昨日ライが枝と糸で作った即席の風鈴がコロンと小さく鳴った。
その一音で子どもたちは「今日は良いことがある」とはしゃぐのが常だった。風鈴は、彼らにとって小さな幸運の合図のようなものだったのだ。
――普段ならば。
しかし、その朝は違った。
「……トマがいません!」
年長の子の声が講堂を切り裂く。まだ幼さの残る声だったが、その緊迫は大人の心すら震わせた。
布団は乱れたまま。そこにあるはずの小さな影は消えていて、窓辺には彼が昨夜ふざけ半分に描いた風鈴の落書きだけが取り残されていた。
「妖精にさらわれたんだ!」
「ちがう!井戸の神様が食べたんだ!」
「ぜったいおばけだって!」
恐怖に駆られた想像が口々に飛び交い、講堂は一瞬で騒然となった。泣き出す子、声を張り上げる子、震える子。
不安が不安を呼び、まるで部屋全体が大きな波に揺られているようだった。
その混乱を切り裂いたのは、勢いよく駆け込んできた若い修道女の姿だった。
シスター・セラフィーナ。普段はどんな時も穏やかな笑みを浮かべ、子どもたちの心を和ませる存在。だが今は違う。頬は血の気を失い、肩で荒く息をついていた。
「ライ様! トマが……どこにも見当たりません!」
その声は、子どもたちの騒ぎを一瞬で凍りつかせた。
黒いマントを翻し、堂々と現れたのはライオネル・フォン・グランツ。侯爵家の嫡男にして、誰もが認める完璧超人。
しかし、鋭い眉と強い目つきのせいで、子どもたちからは「怖い人」と思われがちだった。今も、近くにいた小さな子が思わず息を呑み、口を押さえる。
けれど、その低く落ち着いた声が響いた瞬間、場の空気は大きく変わった。
「子どもたちは二人一組で修道院の中を探せ。廊下、倉庫、鐘楼……外には出るな」
短く、的確で、揺るぎない命令。
騒いでいた子どもたちの目に、次第に落ち着きが戻る。やがて「はい!」という返事が重なり、皆が素早く散っていった。
その背中を見送りながら、ライはひとつ頷いた。敷地の中なら危険は少ない。子どもたちにできる範囲を与えることで、不安を行動に変えさせたのだ。
セラフィーナは胸に手を当て、しばらく祈るように目を閉じていた。だが次の瞬間、決意を帯びた眼差しで顔を上げる。
「ライ様は外を探しに行かれるのですね。……私も同行させてください」
その声は震えていなかった。だが、必死さが伝わってきた。
ライは眉をひそめる。
「外は危険だ。もし誘拐だとすれば、犯人と鉢合わせするかもしれない」
「それでも行きます」
セラフィーナは即座に答えた。その表情は恐怖に支配されるどころか、むしろ固い意志で満ちていた。
「トマも、あの子たちも、皆、私の家族です。見捨てることはできません」
ライは短く息を吐いた。やはり、この女性を無理に止めることはできない。
「……三つの約束を守れるなら許そう」
彼は指を一本ずつ立て、条件を告げる。
「一つ。必ず僕の二歩後ろを歩くこと」
「二つ。危険を感じたらこのベルを鳴らすこと」
ライが取り出したのは小さな真鍮のベル。普通の鈴ではなく、握ると内部のボタンが押され、澄んだ音が鋭く響く仕組みになっていた。
「三つ。単独行動は絶対にしないこと」
セラフィーナは真剣にうなずき、震える手でベルを両手に受け取った。その目は決して揺らがない。
ライはさらに腰の袋から白い紙を取り出し、鳥の形に折りたたむ。魔力を込めると淡く光を帯び、翼が震える。
「ロイスへ。誘拐の可能性あり。修道院周辺で待機。追って知らせる」
言葉を書き込むと同時に、ライは指を弾いた。紙鳥は小さな羽音を立てて飛び立ち、光の尾を残しながら空へ消えていった。頼れる友へ応援を送ったのだ。
三人と一匹は門へ向かう。
鉄柵の棘には赤い布切れがひっかかっていた。ライはそれを指先でつまみ、染料がわずかに手に移るのを確かめる。魚油のにおいが強く鼻をつき、港の運搬人が使う肩掛け布であることがすぐに分かった。
そのすぐ脇の石畳には、白いチョークで丸と矢印が描かれている。高さはちょうど子どもの胸ほど。
「“助けてサイン”……。よくやった、トマ」
低くつぶやく声に、セラフィーナの目に希望の光が戻る。
さらに、花壇の端から路地へと小さなパンくずが点々と続いていた。拾い上げた粒からはほのかにミントの香りが漂う。
「修道院で焼いた“祈りのパン”だわ……」
セラフィーナが息をのむ。昨日、笑顔でそれを抱えていたトマの姿が脳裏に浮かんだ。
物置小屋の角には、青い麻縄の繊維が絡みついていた。指先でひねると、べっとりとした油の匂いが立ちのぼる。港で荷物をくくる縄だ。
手がかりが揃いはじめたその時、通りには野次馬が集まり始めた。
「子どもがさらわれたのか!?」
「赤い布が証拠だ!」
噂が噂を呼び、通りはざわめきで埋まり、道はふさがれていく。
その場に、セラフィーナが一歩進み出る。両手を胸に重ね、静かに祈りを唱えた。
「子らのために……どうか道を空けてください」
鐘の音のような清らかな声が広がる。野次馬のざわめきは自然と静まり、人々は左右に分かれて道を開けた。
ライはその隙を逃さず跡を調べる。小さな靴跡が乱れ、大きな足跡に重なっている。子どもの歩幅は引き伸ばされ、不自然に広がっていた。
「……市場の裏手だな」
低く断定するライ。その言葉に周囲の空気が再び張り詰める。
その時、光の尾を引きながら紙鳥が戻ってきた。羽を小さく震わせ、ライの肩先にとまる。紙でできたはずのそれは、まるで生き物のように呼吸し、羽ばたき、短い合図を告げた。
――応援到着。
ライは目だけで合図を確認し、振り返った。
石畳の路地を抜けて現れたのは、金髪碧眼の青年ロイス・フォン・エルバートだった。公爵家の子息にして、ライの友人であり、何かと張り合う好敵手でもある。
今日は周囲に溶け込むよう地味な外衣をまとっていたが、背筋の伸びた立ち姿や、歩みに漂う気品までは隠せない。人々は思わず視線を向け、ざわめきを飲み込んだ。
「遅れてすまない」
ロイスは軽く息を整え、すぐに地面へ視線を落とす。その仕草には無駄がなく、彼の勘の鋭さを物語っていた。
「子どもの足跡……それに大人の足跡が二人分。途中から子どもの歩幅が消えている。抱えられたな」
淡々と告げる声に、セラフィーナの顔色がさらに険しくなる。ライは静かに頷き、次の説明を待った。
ロイスはしゃがみ込み、石畳の一角を指さした。
「ここだ。この欠け方……片輪が欠けた小型の荷車の跡だ。港筋を走る運搬車と一致する」
言葉に迷いはなかった。ライは短くうなずき、腰から折り畳んだ地図を広げる。羊皮紙の上に記された路地と運河を前に、彼は赤い布切れ、祈りのパンのパンくず、青い麻縄の繊維、そして荷車の跡を一つずつ指先でなぞっていく。
点が線となり、線はやがてひとつの場所へ収束した。
「旧水車小屋……」
低くつぶやいた声に、場の空気が重く沈む。
それは、かつて運河の水を利用して粉を挽いた場所。だが今は使われず、物資の一時置き場や、裏取引の抜け道にされていると噂される建物だった。
夕暮れが迫る市場の空を赤く染め、石畳は炎のように光を返す。港の方角から漂う魚油のにおいは、嫌でも現実の厳しさを思い知らせた。
セラフィーナは両手を胸に重ね、小さく息をのむ。
「まさか……そこに……?」
ライは地図を折りたたみ、冷静な声で返す。
「まだ断定はできない。だが、証拠はすべてそこを指している」
彼の瞳には、焦りよりもむしろ冷徹な計算の光が宿っていた。
「無理に突入はしない」
ライはゆっくりと仲間たちを見渡した。
「旧水車小屋はあくまで中継地だ。奴らが本当に動くのは夜。……運び出されるその時を狙う。確実にだ」
ロイスは頷き、視線を上空へ送る。建物の屋根、運河にかかる高台、そこから見える港筋。
「ならば、高台からの監視は私がやろう。上からの合図なら見逃すまい。逃げ道は一歩たりとも作らせない」
バルドは黙って救急箱を持ち直し、ライへと目をやった。その声は落ち着きながらも、どこか含みがあった。
「殿。足取りは青い縄でつながりましたが……心の縄はまだ解けませぬな。どうか、切れぬように」
ライは一瞬、視線を伏せる。言葉は返さなかった。だが胸元では、セラフィーナが握る小さなベルが「ちりん」と鳴り、緊張を震わせながらも確かな合図となっていた。
遠くで、風鈴がコロンと鳴る。
その音に背を押されるように、隊は夜の包囲へ向け、静かに歩を進めていった。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます。
今回は、いつもの修道院が一転して事件の現場になり、ライの冷静さとセラフィーナの勇気が光る回でした。チョークの矢印、ミントの香りがするパンくず、青い麻縄――小さな手がかりを集めて「旧水車小屋」に行き着く流れは、書いていてもワクワクしました。
「ここが良かった」「この場面をもっと見たい」「このキャラの出番を増やしてほしい」など、感じたことを評価や感想で教えてください。
ひと言でも大歓迎です!
みなさんの声が、次の展開の力になります。
それでは、次回もお楽しみに。




