第50話 看板娘、紙灯の夜、余白に灯る名
花祭りの朝、王都は紙灯と花の匂いで満ちています。
胸の奥で小さく震える予感を抱えたまま、それぞれが「渡すべきもの」を胸に――パン、言葉、そして背中を押す勇気。
これは、並んで走ることと、静かに手放すことを学ぶ一日の物語です。
夜明けの王都は、どこか浮き立つような気配に包まれていた。
石畳の通りには露が光り、頭上には紙でできた灯り――〈紙灯〉がいくつも吊るされ、朝の風に揺れている。屋台からは花蜜水の甘い香り、焼き菓子の匂い、笛や太鼓の音。いつもより街全体が明るく、まるで呼吸そのものが祭りのリズムを刻んでいた。
その人波の中、黒マントを肩から下ろした長身の青年が歩く。
――ライオネル・フォン・グランツ。
侯爵家の嫡男でありながら、今はただの“働き手”のように荷車を整理し、迷子札の張り紙を貼り、通りの渋滞をあっという間にさばいていく。
「助かります、ライ様!」
「はやいな、もう片付いた!」
庶民たちの声が飛ぶ。
だが、彼らの視線は決まって少し上から下へ。
安心と同時に、顔の怖さへの畏れが混じる。
ライは気にした様子もなく、紙灯を見上げる。赤と白が交じる灯りが揺れ、彼の胸に小さな熱を残した。
「殿、朝の一服でございます」
背後から、執事バルドが銀のカップを差し出す。薄荷の香りがする温かい茶だ。
「ありがとう。……今日の任務は“見守り”だ」
「ええ、殿の得意分野でございますな。ただし恋愛を除いて」
「……余計だ」
ライはそっと腹当てを押さえた。痛みはまだ来ていない。だが、銀の懐中時計の針は、なぜかほんの少し震えている。胸の奥に、まだ見ぬ予感だけが広がっていた。
そのころ、宿の一室では――。
マリエが鏡の前で自分の姿を見ていた。
昨夜、侍女ミーナとルチアが仕立ててくれた衣装。淡い花色の布を重ねた、ドレス風のエプロン。飾りは少なめだが、胸元の刺繍にはパンと花が並び、彼女らしさが詰まっている。
「……ドキドキする……」
思わず呟いた声は、自分の耳にも震えて聞こえた。
「マリエさん!今日はもう“告白フラグMAX”です!」
ミーナが旗を振り回す。どこで仕入れたのか、派手な紙旗だ。
「やめなさい。旗は戦場で振るものです」
バルドがすかさず横取りし、くるりと背後に隠す。
「むぅ……」と頬を膨らませるミーナ。
ルチアはくすっと笑い、マリエの髪に細いリボンを結んでやった。「大事なのは飾りじゃないわ。気持ちを渡すことよ」
マリエは深呼吸をひとつ。
胸の包み――昨夜から大事に抱いてきた“告白パン”をぎゅっと抱え直した。
その姿を、遠くからライは見ていた。
――胸が少し、熱い。
けれどそれは自分のための熱ではない。誰かを応援するための火だと、彼はもう理解していた。
昼になると、祭りは人でごった返した。花びらが舞い、紙灯の影が通りを覆う。
マリエは人混みを縫うように、エミルの屋台を目指す。けれど押し寄せる波に足を取られ、体が前のめりになった。
「きゃっ……!」
倒れる――その直前、影が重なり、しっかりと腕が彼女を支えた。
「……っ」
腰と肩を抱きとめられた瞬間、世界が止まったように感じた。
目を開けると、すぐそばにライの顔。
花とパンと薄荷の匂いが混ざり、息が触れそうな距離。
「……ドキドキする……」
小さな声が漏れた。自分でも驚いたその言葉は、心臓の鼓動に押し出されるように自然に出てしまった。
ライの懐中時計の針が激しく跳ねる。腹の奥で鋭い痛みが走った。
それでも彼は顔を崩さない。
(これは……距離の反射だ。彼女の“本当”は別の方向にある)
心の中でそう呟き、ゆっくりと腕の力を緩める。
「怪我はないかい」
「だ、大丈夫です……」
マリエの視線は謝罪とともに、すでに別の場所を探している。その先にいるのは――エミル。
ライは一歩退いた。
花冠を抱えた子どもが通りすがりに、彼の頭にポスンと花を落とす。
「……」
ミーナが思わず拍手しかけ、バルドに無言で制される。ちょっとした笑いが走るが、それ以上は広がらない。
広場の向こう、木札の屋台が見えた。そこに立つエミルの姿を見つけ、マリエの呼吸が変わる。
ライはそっと言った。
「マリエ。君の持つ包みは、きっといい香りがする。……渡すべき相手に、渡すべき場所で」
マリエの胸の迷いがほどける。
「はい……」
その声はライに向けたものではない。自分の勇気に向けた返事だった。
ライは笑った。初めて“怖くない笑顔”を覚えたよ
うに、柔らかな表情で。
バルドが小声で言う。
「殿の灯りは背を照らすもの。眩しすぎては前が見えませぬ」
「……そうだな」
ライは頷き、半歩下がった。
モフドラが腹にちょこんと乗り、「ぷしゅ〜」と湯気を立てる。まるで見送る合図のようだった。
マリエは包みを胸に、まっすぐエミルへ歩み寄る。
エミルは顔を上げ、粉だらけの手を布で拭きながら笑った。
その瞬間、マリエの震えは止まり、指先が落ち着いた。――“向き先が合った”のだ。
ライは少し離れた場所で、一本の紙灯に火を灯す。
(僕は完璧だ。……恋以外はね)
言葉にしないまま、空へと視線をやった。
そこに悔しさはなかった。あるのは、ただ“よく燃えてほしい”という祈りのような思いと、名付けにくい空洞。
だが空洞があるからこそ、風は通る。風が通れば、灯りはよく燃える。
人混みの中で、マリエは小さく会釈し、エミルの声を聞いた。
「やあ、来てくれたんだ」
ライは視線をそっと外す。群衆と灯りの海に紛れながら、ひとつだけ笑みを残して。
夜空に、幾千もの花火が咲き乱れていた。
轟音と光の波が広場を包み、人々は歓声を上げる。
けれど、その喧騒の真ん中で――マリエとエミルだけの世界があった。
彼女の手の中には、小さな包み。
昨夜、ライと一緒に焼いた、星の刻印入りのパン。
緊張で胸がいっぱいになりながらも、マリエは勇気を振り絞り、エミルへと差し出した。
「これ……食べてください。私が、あなたに……」
声が震える。けれど、その瞳はまっすぐだった。
包みを開くと、星の砂糖がきらめくパン。甘い花の蜜の香りが夜風に乗り、ふわりと漂った。
エミルは少し驚いた顔をしたあと、パンを一口。
噛んだ瞬間、ほんのりとした甘みが広がる。
彼の口元が、自然にゆるんだ。
「……美味しい。とてもやさしい味」
その一言で、マリエの胸がどくんと鳴った。
目の端に涙がにじむ。
「わ、わたし……。あなたが好きです。ずっと……笑ってくれるあなたの顔が、いちばん……」
言い切った。
花火の音に負けないくらい、心臓が大きく響いた。
エミルは、少し間を置いたあと――困ったように、でも優しい声で答えた。
「まいったなあ……。俺も、同じ気持ちだ」
その瞬間、花火が空いっぱいに開いた。
紅、青、金――いくつもの色が重なり、夜を昼のように照らす。
人々は二人を知らないまま拍手を送り、祝福の声を上げた。
ミーナは「やったー!フラグ大成功です!」と叫びそうになったが、ルチアに口を塞がれ、もごもご暴れている。
バルドは後ろで腕を組み、「鍋で鐘を鳴らすのはやめなされ」と小声で諭していた。
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マリエとエミルの指先が、そっと重なった。
それは花火よりも小さな光景。
けれど、マリエにとっては世界で一番大きな瞬間だった。
「……ありがとう、エミル」
「こっちこそ」
二人は照れくさそうに笑い合う。
その背後で、静かに見守る影――ライがいた。
懐中時計の針は激しく揺れ、恋腹の痛みは最高潮。
だが今夜の痛みは、なぜか耐えられた。
胸の奥で、別の温かさが灯っていたから。
マリエがふと振り返る。
その視線とライの瞳が重なった。
彼女は涙を浮かべながらも笑みをつくり、深く頭を下げる。
ライは一歩前へ出た。
「……おめでとう。いい夜になったようだな」
「はい……ライ様のおかげです」
「君の決断を尊重します。僕の好意は、君の自由の敵ではない」
その誠実な言葉に、マリエはもう一度深くうなずいた。
隣のエミルも少しぎこちなく頭を下げる。
「……色々、助けてもらいました。ありがとうございました」
ライは静かに笑った。
「彼女のパンは強い。君が隣にいれば、もっと強くなる」
エミルは顔を赤くしながら「はい」とだけ返した。
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やがて、二人は肩を寄せ合い、一つの紙灯を空へ放った。
灯りはふわりと浮かび、花火の下を昇っていく。
その軌跡は、まるで二人の未来を示すように真っ直ぐに伸びていた。
ライはその光を見上げ、心の中で呟く。
(きっと、今日も誰かの幸せの余白に、僕の名前は残らない)
けれど、その余白を残せる自分に、ほんの少しだけ誇りを感じていた。
「僕は完璧だ。——恋以外はね」
空で最後の大輪が咲いた。
モフドラがお腹の上で「ぷしゅ〜」と息を吐き、夜気に白い湯気が混ざる。
バルドが横に立ち、カップを差し出した。
「若様。熱い薄荷湯をどうぞ」
「ありがとう、バルド。……僕はうまくやれただろうか」
「恋は鍛えられませぬが、手放す強さは鍛えられます。今宵の殿は――完璧でございましたよ」
ライはカップを受け取り、そっと口元をゆるめた。
涙ではなく、ただ静かな夜風が頬を撫でていた。
花火の音が遠ざかり、広場には静けさが戻っていた。
屋台の灯りも一つ、また一つと消えてゆく。
最後に残ったのは、夜空を漂う紙灯――マリエとエミルが放ったあの灯だけだった。
ライは黒マントの裾を整え、ひとり歩き出す。
懐中時計の針は、ようやく静かに落ち着きを取り戻していた。
恋腹の痛みは消えぬまま、けれど不思議と足取りは軽かった。
(人の幸せを見届けることが、僕の役割なのかもしれない)
そんな思いが、胸の奥で小さく温かく灯る。
ふと、肩の上で丸くなったモフドラが「ぷしゅ〜」と寝息を立てた。
そのぬくもりに、ライは苦笑を浮かべる。
「僕は……完璧だ。恋以外はね」
その呟きは、風にさらわれて消えた。
けれど確かに夜空へ届き、静かに輝く灯と重なった。
---
暗がりの奥から、バルドが歩み寄ってきた。
いつものように、背筋を伸ばし、銀髪を風になびかせながら。
「若様。恋に敗れる姿もまた、ご立派でございましたな」
「……そう見えるか?」
「はい。振られてなお笑える男は、勝者よりも尊いものです」
バルドの言葉に、ライは小さく目を伏せた。
そして、ほんの二ミリだけ口角を上げる。
ルチアが少し遅れて駆けてきて、兄の横顔を見上げた。
「兄様……やっぱり“並走”はできましたわね。離れていても」
ライは妹の言葉に応えるように、ほんの短い「そうだな」と返す。
ミーナは後ろで袖をぎゅっと握りしめ、声を抑えて言った。
「若様の恋腹……今日は世界一かっこよかったです」
ライは「ああ……」と答え、ただ頭上を見上げた。
花火が散った夜空には、紙灯がひとつ、ふらふらと漂っている。
それはきっと、マリエとエミルの未来を照らす灯り。
そして、ライ自身の心の奥に残った“ささやかな火”でもあった。
「……僕は完璧だ。――恋以外はね」
風にさらわれた呟きは、夜空の灯と重なり、やさしい光になって消えていった。
誰かの幸せの余白に自分の名前が残らなくても、その余白が読みやすくなるように灯りを置けたなら――それもきっと、ひとつの誇り。ライの痛みと温かさが、紙灯の光のように静かに届いていたら嬉しいです。
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