第46話 看板娘、窓の向こうの応援
朝の侯爵邸で、帳簿とにらめっこしているはずのライ。なのに視線は三回に一回、必ず窓の外へ——小さなパン屋「麦のひかり」。
心拍を針で示す懐中時計、妹ルチアのズバッと指摘、ミーナの“見える化”暴走、そしてバルドの名言。にぎやかな一日の終わりに、ライがそっと戸口へ残したのは、革ひもと小さな紙包み。
「応援で、十分だ」と言う彼の背中に、ほんのり湯気とさみしさ。そんな回です。
この先の花祭り本番をいっしょに見届けたいな、と思ってくれたら、ブックマークで道標を置いておいてね。次の話、すぐ迷わず辿り着けます。
朝の光が斜めに差しこむ侯爵邸の居間。
大きな窓のそばに置かれた机の上には、分厚い帳簿と納入台帳が並んでいた。
ライオネル・フォン・グランツは、背筋を正しく伸ばしたまま椅子に座り、淡々とペンを走らせている。領地の麦粉の価格や、酵母の仕入れ量を確認する大事な作業だ。
――のはずなのだが。
視線は、三度に一度は必ず窓の外へ。
窓から見えるのは、通りの角にある小さなパン屋「麦のひかり」。朝早くから白い湯気を立ちのぼらせ、香ばしい匂いが屋敷のほうまで漂ってくる。
ちょうどそのとき、エプロン姿のマリエが姿を現した。パン耳を小さな子どもに分けてやり、楽しそうに笑っている。
ライの眉が、ほんのわずかに緩んだ。
その瞬間、彼の胸ポケットの中から「コツ…コツ…」と不規則な音がした。銀の懐中時計――心拍を針で示す魔具だ。普段は一定のリズムを刻むが、動揺するとすぐ反応する。
「……む。誤差の範囲だ」
ライは小さく咳払いし、帳簿に視線を戻した。
しかし、机の端で丸まっていた小竜モフドラが「ぷしゅ〜」と湯気を吐き、主人の心中をバラすかのようにお腹を温めてきた。
そこへ、軽やかな足音とともに妹のルチアが入ってきた。
「兄様、帳簿よりも窓のほうが、ずいぶんお気に入りのようですわね?」
さらりと言いながら、兄の向かう視線を追う。ルチアの瞳に、店先のマリエの姿が映る。
「領民の働きを把握するのも仕事だ」
ライは真面目に答えた。
が、その言葉が終わるより早く、またもや窓に目をやってしまった。懐中時計の針がぴくりと跳ねる。
ルチアは目を細める。
「……兄様、わたくし、確信いたしました」
「何をだ」
「マリエさんのこと、本気で気にしてらっしゃるでしょう?」
唐突な指摘に、ライの腹が「ムズッ」と締まった。恋腹の初期症状だ。彼は慌てて祖母の腹当てを押さえ、深呼吸を繰り返す。
「ち、違う。ただの……視察だ」
「ふふ、帳簿よりも熱心な“視察”ですこと」
ルチアはくすりと笑った。妹として、そして一人の少女として、兄がマリエを見る眼差しに特別な色が混じっていることを見逃さなかった。
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しばらくして、二人は小さなサロンへ移った。
ルチアはソファに腰掛け、足を組んで少し大人ぶった仕草をする。けれど声色はやさしい。
「兄様。いつも誰かの背中を押してきた兄様ですけれど……恋は戦いではなく、並走ですわ。相手の歩幅を待つのも大事です」
ライは黙って聞いていた。やがて視線を落とし、低く答える。
「僕は……応援するだけで十分だ」
そう言いながらも、マリエが笑う顔が脳裏に浮かび、懐中時計の針が「ドン」と一段強く跳ねる。腹の奥がきりきりと痛む。モフドラが「ぷしゅ……」と湯気を吹き、腹当てをちょこんと押し戻した。
「応援だけ、ですか?兄様は、もっと求めていいと思いますわ」
ルチアは微笑む。兄が不器用に目を逸らすその姿が、むしろ確信を強める。
「……兄様の恋、わたしは応援いたしますのに……」
その言葉は、ルチア自身の思いでもあった。
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廊下に出ると、ちょうどミーナがやって来た。お盆にお茶菓子を乗せて、いつものように鼻歌を歌っている。
「あ、ルチア様!その顔は……兄様案件ですね!? ね!? そうでしょう!」
ミーナの早口に、ルチアは軽く頷いた。
「ええ。兄様、マリエさんのことを放っておけないようですの」
「やっぱり! 応援モード突入ですね!では私も全力で――」
胸を張るミーナに、ルチアがすかさず釘を刺す。
「余計な演出は“控えめ”ですのよ?三角関係とか変な旗を振るのは厳禁ですわ」
「了解! さりげなさを焼きたてで提供します!」
やる気満々のミーナの顔は、すでに“何か図を描きたくて仕方ない人”のそれだった。
ルチアは溜め息をつく。
「……控えめ、ですのよ?」
大好きな兄様の思いを守るためには、妹の自分が常にブレーキ役にならねばならない。そう強く心に誓うルチアであった。
昼下がりのパン屋「麦のひかり」。
売り切りの山を越えて、店内は落ち着いた空気に包まれていた。
そこへ、ずかずかと入ってきたのは——侍女ミーナ。
両手にはチョークや紙束、カラフルな糸まで抱えている。
「人類は図解が大事です! 今日からは“見える化”の時代ですよ!」
宣言と同時に、彼女は壁に大きな紙をぺたりと貼りつけ、チョークを走らせた。
「……ミーナ、まさかこれ……」
「はいっ! ずばり『三角関係図』です!」
「さ、三角関係……!?」
マリエが真っ赤になる。
ルチアは慌てて扇子で口元を隠し、「せめて表現をやわらげましょう。……『心の距離(暫定)』に」と提案した。
仕方なく、見出しは修正された。けれど赤・青・黄色の糸が紙に走り、札に描かれた似顔絵が吊り下げられていく。
マリエ(小麦の飾り付き)。
エミル(剣の印)。
そして、黒マントのシルエット——ライ。
「……私が入るんですか?」とマリエ。
「むしろ主役です!」と即答するミーナ。
糸の意味は「赤=好意、青=尊敬、黄=感謝」。だが途中で色が足りず、「緑=パンの香りがする方角」が
急遽追加された。
そのとき、店の鐘が鳴った。
長身の影が入ってくる。
「……ライ様!」
マリエの声が少し上ずる。
黒マントを払って入ってきたライは、壁にでかでかと描かれた『心の距離(暫定)』に目を止め、硬直した。
「……これは、何だ?」
低い声に、ミーナは胸を張った。
「若様!視覚化しました!この通り関係性が一目で!」
ライの懐中時計がカチリと音を立てる。心拍を刻む針がぐっと跳ね上がり、モフドラが「ぷしゅー」と温風を吹いた。
「兄様、誤解しないでくださいませ!」
ルチアが慌ててフォローする。「これはあくまで整理で……決して、からかいではなく」
しかしライの目は“関係”の字に釘付けだった。
深く息を吐き、「三角関係ではない。僕は……ただ、マリエとエミルの仲を応援しているだけだ」ときっぱり告げる。
「……っ」
マリエは視線を伏せた。「ライさんが頼りになるのは本当です。だから……名前を出されると……ちょっと恥ずかしくて、ドキドキするんです」
その素直な言葉に、ライの腹がギリッと痛む。
恋は叶わないとわかっているのに、心臓の針はさらに暴れた。
ルチアが素早く糸を直す。
マリエとエミルは赤い細い糸でそっと結ばれ、マリエとライの間には青と黄の二重線。
ライは短く告げる。
「応援は、目立たず、困った時にだけ差し出す。それで十分だ」
「でも! 手をつなぐ練習は続行で!」
ミーナが言いかけた口を、ルチアの扇子がパタンと塞いだ。
「ミーナ……もういいでしょう……」
そこへ、執事バルドが書類袋を手に現れる。
「……若様。図画工作の課題は、屋敷で仕上げるべきでは?」
赤ペンを取り出し、修正していく。
そして見出しを《マリエとエミルの応援表》に直した。
「……これなら、ちょっとわかりやすいかも」
マリエがほっと笑う。
ライは図を拾い上げ、端を整えて店の隅に立てかけた。
「……君が困ったら呼んでほしい」
短い言葉と一礼。彼の手は腹を押さえていたが、それを誰にも気づかせなかった。
モフドラが図の上で丸まり、「ぷしゅ〜」と湯気。
「これで“湯気”も入れましょう!」とミーナが叫ぶ。
「追加しませんの!」とルチアが即座に突っ込む。
バルドは静かに言葉を落とした。
「若様。恋の地図は、きれいに描けば描くほど、現地で迷うもの。——ゆえに、礼節こそが方位磁針でございます」
その言葉が妙に胸に響き、ライは黙ってうなずいた。
夕方。通りの灯りがひとつ、またひとつ灯る。
「麦のひかり」の戸口では、マリエが小さな子に余った端っこパンを渡し、くすっと笑っていた。店の奥からは、片付ける音と、粉のにおい。いつもと同じ、終わりかけの一日。
ライは店の影のところで足を止めると、懐から細い革ひもと小さな紙包みを取り出した。紙には、短い文字。
――明日は風が出る。かごの持ち手に巻くと安定する。
(ミントは緊張に効く。よければ)
ノックはしない。ベルも鳴らさない。
革ひもと紙包みを戸口の釘にそっと掛けると、マントの裾を払って背を向けた。
胸ポケットの懐中時計が、かすかに音を立てる。
暴れていた針は、今はゆっくりと、静かな角度へ戻っていた。
「……応援で、十分だ」
誰に聞かせるでもない声が風にまぎれる。
遠くでルチアの声、近くでミーナの鼻歌、どこかからバルドの咳払い。
全部が、今日の終わりをやさしく指さしていた。
空を仰ぐ。薄い雲の切れ目に、早い星がひとつ。
ライは片手で祖母の腹当てを押さえ、もう片方の手でマントの襟を整える。
「今日、君が前を向けたなら、僕の恋はもう役割を果たした」
言い終えたとき、モフドラが胸元で小さく「ぷしゅ」と湯気を吐いた。
温かいのに、どこか少しだけ、さみしい。
きっと、今日も誰かの幸せの余白に、僕の名前は残らない。
――それでも、灯りは消さない。明日も、道が見えるように。
読んでくれてありがとうございます。
今回は“押す勇気”ではなく“並走する勇気”の回でした。ライは派手に動かないけれど、風が出る明日にそっと備えを置いていく——そういう優しさが、いちばん効く時もあるよね。
次回は花祭り前夜。かごの持ち手は補強済み、ミントも準備万端。あとは心の準備だけ。
「続きが気になる!」と感じたら、ブックマークや感想で足跡を残してくれると、とても励みになります。迷子にならずに、二人と一緒に祭りへ行こう。
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