第42話 看板娘、恋愛指南ノートとパン束特訓
パンの香りに包まれる王都の人気店「麦のひかり」。
そこで動き回る娘・マリエの笑顔は町の人たちを明るくしていました。
けれど胸の奥には小さな悩み――「エミルと、ただ普通に話したい」。
そんなささやかな願いを、なぜか侯爵家の若様ライと、暴走侍女ミーナ、そして冷静沈着な執事バルドが全力サポート!?
登場するのは怪しい冊子《恋愛指南ノート》。
赤ペンと理屈とツッコミで改造され、ついに「実用版」へ……!
物語の続きを一緒に歩んでいただけたら嬉しいです。
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パン屋の扉を開けた瞬間、焼きたての香りが鼻をくすぐった。
香ばしい小麦とバターの匂いに、思わず客たちが幸せそうに目を細める。
王都でも人気のパン屋「麦のひかり」は今日も大繁盛で、棚には次々とパンが並び、すぐに売れていく。
その奥で、髪を後ろでまとめた娘――マリエがせわしなく動き回っていた。
頬に粉をつけたまま、彼女は元気よく客に笑顔を向けている。庶民からすれば「気さくで親しみやすいパン屋の娘」だが、ライからすれば「ただの庶民」以上の存在になりつつあった。もちろん、本人はまだ気づいていない。
「ライ様……ちょっと、いいですか」
忙しさの合間に、マリエが声をかけてきた。
その顔は、いつもの元気さよりも少し真剣だ。
「どうしたんだ?」
「その……エミルさんと普通に話したいのに、緊張しちゃって。好きとかそういうのじゃなくて……ただ、普通におしゃべりしたいだけなんです」
言葉の最後が小さくなっていく。耳まで赤くなっているのが分かる。
ライは思わず背筋を伸ばした。恋愛相談など、自分には一番向いていない分野だ。だが目の前のマリエが困っているなら、逃げるわけにはいかない。
「なるほど……誠実は、最短の近道じゃない。でも唯一の道だ」
「……え?」
マリエはきょとんと目を瞬かせる。
ライは真剣に続けた。
「声のトーンを下げると安心感が生まれる。視線を合わせる時間は三秒以内。長すぎると威圧感になる。短すぎても心が伝わらない」
「えっと……」
「さらに、姿勢を正すことで信頼度が増す。これは兵士の訓練でも同じ理屈だ」
「えぇ……?」
マリエの表情はますます困惑に染まる。
しかしライは止まらない。まるで戦場の講義のように理屈を並べ立てていく。
そこへ、パンを買いに来た子どもが無邪気に叫んだ。
「ライ様!顔がこわいから、パンが二割増しでおいしそうに見えるよ!」
「……それは褒めているのか?」
マリエは慌てて子どもの頭を押さえ、「こらっ!」とたしなめた。だが店の中にはクスクスと笑い声が広がる。
結果として、場が和んでしまったのだから皮肉だ。
「ライ様って……ほんとに真面目ですよね」
マリエが少し笑って言った。
その笑顔は疲れを吹き飛ばすように明るい。
ライは咄嗟に視線を逸らした。胸の奥に不思議な熱がこもり、次の瞬間、腹のあたりにチクリとした痛みが走った。
――またか。
懐中時計の針がピクリと跳ね、モフドラが足元で「ぷしゅ〜」と蒸気を吹き出す。温めてくれているらしい。ありがたいが、絵面は完全にコントだ。
「エミルさんと、笑い合えるようになりたいです」
マリエの声が再び耳に届く。
その言葉に、さらに痛みが増した。だがライは顔色ひとつ変えずに答える。
「君なら、大丈夫だ」
「……はい。なんだか、少し勇気が出ました」
マリエはほっとしたように微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、ライの腹は再び重く締めつけられる。だが彼は必死に平静を装った。
その姿を横目に、通りすがりのミーナが指を突きつける。
「ライ様!今のは完全に恋です!恋腹痛です!確定です!」
「変な断定するな!」
ライのツッコミが響き、パン屋の店先はまた笑いに包まれるのだった。
パン屋の裏手は、昼の喧騒が過ぎて粉っぽい静けさに包まれていた。
ライは配達用の袋を整えながら、マリエに相談された「どうすれば普通に話せるか」という悩みを反芻していた。懐中時計の針は落ち着いたまま。モフドラは袋の上で丸くなり、すやすや寝息を立てている。
「ライ様、朗報です!」
ドンッと勢いよく置かれた箱に、粉の静けさは一瞬で吹き飛んだ。
侍女のミーナが両腕で抱えてきたのは、やけに派手な冊子の束。表紙には大きな字でこう書かれている。
《恋愛指南ノート 〜これ一冊で誰でもモテる!〜》
サブタイトルの小さな字には「※当社比」「※返金不可」「※使いすぎ注意」と、意味不明な注意書きまで添えられていた。
「これさえあれば、マリエさんとエミルさんの恋は百戦百勝です!」
ミーナは胸を張る。
マリエは目を瞬かせ、ライは眉をひそめて表紙を見つめた。
「……これは、いったい?」
「恋愛必勝マニュアルです!実践型、読み物型、応援団型、すべて兼ね備えたスーパー本!」
ライは無言で一ページ目をめくる。そこには大きな字でこう書かれていた。
《第一章:目はハートにしない》
イラストは目からハートを飛ばすミーナ自身の似顔絵。
次のページにはこうある。
《第二章:距離感はメロンパン一個分》
そして三ページ目。
《第三章:沈黙がきたら焼きたての話》
「……沈黙が来たらパンの話?」
マリエが首をかしげる。
ライは真顔で答えた。
「メロンパンの直径は一定ではない。距離感の単位としては……不安定だ」
「そこですか!?」とマリエが思わず突っ込み、ミーナは「理屈っぽい!」と口を尖らせた。
そこへ背後から咳払い。
「添削いたしましょう」
執事のバルドが静かに登場した。
手には赤ペン。長い。
「第一章、語尾が曖昧です。“しない”ではなく“避けましょう”のほうが丁寧」
「第二章、“メロンパン一個分”は不適切。“手のひら一枚分”と修正」
「第三章、“焼きたての話”は相手の興味から外れます。“花の世話について”と差し替え」
一瞬で赤ペンが踊り、ノートは赤字だらけに。
「おおお、真っ赤だ!」とミーナは絶望の声を上げた。
「ご安心を。これで実用性は五割増しです」
バルドはきっぱり言い切る。
ライは小さくうなずいた。「……的確だ」
マリエは笑っていた。変なマニュアルが、バルドの赤とライの真面目さで、少しずつ「使えるノート」に変わっていく。それがなんだか面白くて、同時にありがたかった。
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「では、実習です!」
ミーナは勝手に仕切りを始める。パン束をマリエに持たせ、店の前に立たせた。
「エミルさんに渡すつもりで!」
マリエは緊張で背筋が固まる。相手役のライは、あえて“こわい顔”を強調して受け取る側に立った。
「……お、おつかれさまです!」
声がわずかに上ずる。
「声量合格。語尾が上ずりましたので、一拍置いてから話しましょう」
バルドが赤ペンを走らせる。
「パン束は流行る!」とミーナは妙なことをメモし、ライは無言でため息をついた。
つづいて話題転換の練習。
「花より団子って言っちゃえばいいんです!」とミーナが叫ぶ。
「相手の仕事を下げるのは最低です」バルドが一刀両断。
ライが口を開いた。
「花の水やり時間を聞けばいい。その上で『その時間に差し入れを持っていきたい』と言えば自然だ」
「なるほど……それなら私にもできそう」
マリエが小さくうなずく。その顔を見て、ライの懐中時計の針がコトリと跳ねた。
モフドラが腹の上で「ぷしゅ」と小さく蒸気を吐く。
だがミーナは珍しく黙っていた。彼女はノートに「恋腹注意」とだけ書き込んでいる。
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夕暮れが迫るころ、最後の実習。
マリエがパンを花に見立てて差し出し、ライが受け取る角度を直す。
「受け取る人が上になりすぎないほうがいい。対等の位置で渡すこと」
「なるほど……」
マリエは何度も繰り返し、自然な動きを身につけていった。
気づけば、ノートの表紙はこう変わっていた。
《恋愛指南ノート(実用版)
パン屋さんが花屋さんに笑って話しかける方法》
赤と青の字、そしてミーナの星マーク。カラフルだけれど妙に説得力がある。
「ありがとう……これ、家で練習します」
マリエは笑顔でノートを胸に抱いた。
その笑顔を見た瞬間、ライの懐中時計はふたたび小さく跳ねる。
腹の奥がきゅっと締めつけられたが、彼は気づかれないように背筋を伸ばした。
「明日、試してみるといい」
そう告げた声は、あくまで誠実な応援者のものだった。
チリン――。
店の前の鐘が鳴り、影が通りを横切る。
花束を抱えた若い男の後ろ姿。
ミーナがごくりとつぶやいた。
「……チャンス、来るかも」
バルドはノートをトントンと閉じ、「焦らぬことです」と一言。
「バルド、ミーナ、時間がある時にパン屋を手伝ってやれないか」
ライはパン屋の様子が気になる様子である。
夕焼けに染まるパン屋の窓を背に、次の幕が静かに上がろうとしていた。
今回のテーマは「マニュアル恋愛」。
出てきた《恋愛指南ノート》は、最初は完全にネタ本。けれどバルドとライの“誠実”が入ることで、ただのギャグから「使えるノート」へと化けていきました。
マリエが「やってみよう」と笑ったとき、ライのお腹がまた反応したのは……まあ、お約束ですね。
けれどこの痛みすら、きっと誰かの恋を応援する力になる。
そうやって彼は「100連敗」を重ねていくのです。
次回もどうぞお楽しみに。
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