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音占い-言えなかった言葉の音を届けます-

 朝、少し早めに会社に行き本を読む。

これが僕のルーティンだ。

朝の社内は少しだけざわついている。

エレベーターの到着音、カードリーダーの短い電子音。

それらの音を耳の端に、僕は本に集中する。

スマホでなんでも読める時代に、なぜ紙の本にこだわるのかと聞かれることがある。

うまくは答えられないが、紙の手触り、ページをめくる乾いた音が耳に届き、それと一緒に活字が目に入る。

これらが、心地いいのかもしれない。


 僕が本を閉じる頃、社内に「おはようございます」の言葉が飛び交う。

とりあえずの「おはようございます」

上から目線の太い「おはよう」

気持ちのいい「おはようございます」

僕がいつの頃からか、なんとなく意識し始めた川村風花さん、いつも気持ちのいい「おはようございます」を言ってくれる一人だ。


いつも明るく挨拶をしてくれる。

愛想がよく、人当たりが柔らかい。なのに、どこか慎重な気配がある。

それが悪いわけではなく、明るく元気な笑顔と、ためらう癖、それも彼女の魅力の一つなのかもしれない。

彼女のデスクの上に、ピンク色のハンカチが置いてあったり、緑色のシュシュをしていたり、もしかしてラッキーカラー?

そう思うと微笑ましくも思えた。


 ある日の昼休み、本を読んでいる僕の背後で、彼女が立ち止まり言った。

「私もこの本持ってます」

僕が振り向くと彼女は少し緊張した笑顔で、でもまっすぐな目で僕を見た。

「川村さんも、紙の本派なの?」

聞くと「はい、電子書籍もいいけど、私の手は紙の本が好きみたいです」

自分でそう言って、彼女は恥ずかしそうに笑った。

「なるほど、手が紙の本が好きなんだね」

短いやりとりだった。


考えてみれば、彼女は僕の2年後輩で、いつも感じの良い挨拶をしてくれるが、会話らしい会話をしたのは、この時が初めてかもしれない。

この短いやりとりがきっかけで、本の話が中心だが、川村さんと話をすることが増えた。


 数日後、僕は川村さんに「駅から少し行った所にある『風見文庫』って本屋さん知ってる?」

このとき、少し間があった。

そして「知らないです」

でも、彼女の目は名前だけなら知っている、と答えていた。

「目は口ほどに物を言う」まさしくこれなのか?

彼女が正直すぎるのか?


「今度案内しようか?」

僕の言葉にまた、少しの間があった。

「はい、ぜひお願いします」

少しの間が無かったことになるような、澄んだ声と最高の笑顔を返してくれた。


 日曜日。

まち合わせ場所に現れた彼女は、会社にいる時と違って見えた。もちろん良い意味でだ。

会社ではあまり見ない、生成色きなりいろのふんわりしたセーターと、細めのプリーツスカートがよく似合っていた。

風見文庫は初めて訪れる人はみな、入り口で立ち止まる。古い木の扉を開けると、静かな空気の中に、紙とインクの混ざる匂い。

棚と棚の間の狭い通路を、僕はいつもよりゆっくり歩いた。本屋では大きな声が出せない、だから

距離を縮め、小声で話した。

何も言わず頷く彼女から、緊張が伝わってきた。

会話の密度は濃くないのに、二人で共有した短い時間。

この短い時間が僕の中で、なんとなく意識していた人を特別な人に変えていった。

この時、少し先の未来にとんでもないことが起きるとは、考えてもいなかった。


 その頃会社では新しい動きが進んでいた。

北海道を拠点に人を出すことになり、即戦力が求められていた。

年齢と経験、そして独身で動きやすい。僕は早い段階で候補に上がったらしい。


サラリーマンをしている以上仕方のないことなのか…。

迷いがなかったと言えば嘘になる。

これから大切に…そんな自分の思いが崩れていく音がした。

以前、上司に言われたことがある。

「後悔はするな時間の無駄だ。反省はしろ、反省のできない者に成功はない」という言葉が蘇る。

もっと早く声をかけていれば、違う未来があったのだろうか…。

胸の奥が沈んだ。


 

転勤の話は、正式決定の前に一部だけに共有された。

社内の噂は早いが、彼女の耳に届くのはもう少し先だと思っていた。

噂で彼女の耳に入るより、自分の口から伝えよう。そう決めていた。


 昼休み、彼女と本の話をしていた。

僕は転勤の話をどう切り出すか探していた。

伝え方を間違えないようにしなければ…。

「もっと早く話ができていたら、もっと本の話とかできたのにね」

僕の言葉に彼女は小さく「えっ」

「今度、北海道に転勤するんだ。まだ若い方だし、独身だし、仕事もわかっているから。らしいんだ」

そのあと、彼女は予想より長く黙ってしまった。

すぐ後輩や同僚たちが加わり、「引越し手伝いますよ」「見送りに行くよ」と、いつもの賑やかさが戻った。

僕は同僚たちの話に受け答えをしながら、心は彼女だけを見ていた。

そこには、文庫本を両手で握りしめた彼女がいた。


…好き、という言葉は簡単には口にできない。

もうすぐここを去る者の言葉ではない。

わかっている。


 翌日、彼女が「…今お忙しいと思いますが、今度お礼にご馳走させてください」と言ってきた。

「えー、嬉しいな」即答で答えた。

心の底から嬉しかったのも事実だ。

そこには、ためらう癖は一切見せず、彼女が持っている、ありったけの勇気を全部連れてきた。そんな彼女がいた。

少しでも早く返事をするのが、今、僕が彼女にできる唯一のことだと思った。


 約束の週末まで、彼女と一緒に行く店をスマホで、検索していた。

最高の思い出になる夜景の見えるレストラン?

レンタカーを借りようか?

…笑ってしまう…誘いたかったのは僕自身だ…。


約束の店は、たまに行く店で、落ち着いていて、もちろん料理も美味しい店にした。


 当日、彼女が小さな箱を差し出してきた。

「谷口さん、これ使ってください。あると意外に便利なんですよ」

箱を開けるとキッチンタイマーだった。

彼女の言い方と、キッチンタイマー。

彼女の気遣いが満ちていた。

「キッチンタイマーだね。気がきくね、ずーっと実家暮らしだったからね。料理は全くできなくて」笑う僕を見て彼女も少し笑った。

彼女の柔らかい笑顔は、悲しいほどに愛おしかった。そして彼女の笑顔は、時計の針が進むのと一緒に少しずつぎこちなくなり、口数が減ってしまった。

本の話をした。少しだけ笑顔が戻った。

そして、また静かになった。


 店を出ると、外は土砂降りだった。

「これは凄いね」

彼女に帰る方向を尋ねた。

彼女は「⚪︎⚪︎駅の近くの⚪︎⚪︎ハイツです」

「よかった同じ方向だね」と、嘘をついた。

本当は逆だった。

タクシーに乗ると、ラジオからクリスマスソングが流れていた。

彼女は静かだった。

少しでも明るい話題をと考えている間に、⚪︎⚪︎駅の前を通り過ぎ、⚪︎⚪︎ハイツが見えた。

彼女はタクシーから降り際に、笑顔を見せてくれた。

いつか職場で見た「無理をして笑っている」ときと同じ笑顔だった。

結局、何も言えなかった。

彼女が降りた後、窓を叩く雨粒がより一層激しくなった。

何も言えなかった僕を責めるように。

ラジオのクリスマスソングも聴こえないほどの

大粒の雨が、タクシーの窓ガラスを叩きつけていた。


 次の日、彼女は駆け寄ってきて、いつもの笑顔で「谷口さん、おはようございます。昨日はご馳走さまでした…」と、言ってきた。

彼女の笑顔に救われた。が、すぐに「谷口さん、これなんですが…」後輩が僕がいなくなった後が不安らしく、最近は質問攻めだ。

彼女との会話は1分も無く強制終了した。


転勤の日取りが確定してから、後輩たちが送別の段取りを張り切って進めてくれる。

僕は淡々と引き継ぎをした。


 転勤の日はすぐにきた。

朝の空気は冷たい。ビルに入る前に、いつもより少しだけ長く見慣れた景色を見ていた。


今日は挨拶だけだ、手を振って笑って会社を出た。

後は歩くだけだ、自分の歩幅で、次の自分の場所に向かって歩くだけ。


 飛行機の中、彼女を思い出していた。後ろの方で、先日のような悲しい顔ではないが、いつもの笑顔も無かった。

「僕は何を考えているんだ…?」

「どうしたいんだ…?」

「情けない…」

飛行機の窓から外の景色に少し目をやり、後は目を閉じた。


 空港から外に出ると、当然のことだが景色は一変した。空気は刺すような冷たさだ。

「さあ、ここからだ」自分に言い聞かせて、一歩踏み出した。

新しい現場は忙しい。断続的に続く打ち合わせ、電話の呼びだし。

一日を終え会社が用意してくれた部屋に帰る。

会社からは10分ほどで、近くて助かる。

1Kの部屋に、必要な家具、家電はすべて揃っている。

テーブルの上に、彼女からもらったキッチンタイマーを置いた。

一度も使ってない。料理をする余裕はどこにも無く、慌ただしく時間は過ぎた。

慌ただしく過ぎる時間と、冷たい風は今の僕には丁度いいのかもしれない。

ただ…目的もなくキッチンタイマーを鳴らすことがある。

カチ、カチ、カチ、…。


北海道に来てからの数週間は早かった。

そんな時、東京の後輩から電話があり仕事のことを聞いてきた。

話をしながら、電話の向こうの懐かしい空気を感じていた。

そして無意識に、その空気の中に彼女を探していた。


仕事帰り、少し遠回りをして本屋へ行った。

今日の目的は本じゃない、クリスマスカードだった。

「クリスマスカードを出そう」


MerryXmas

元気ですか?タイマー

助かってます。

今は雪が多いけど、今度

遊びに来ませんか?


電話番号とアドレスを書き添えた。


短い文だが、気持ちは伝えた。

クリスマスイブに間に合うように、急いで投函した。


クリスマスイブ当日。予定のない僕は街のイルミネーションを見ながら帰った。

外は寒いが、一人イルミネーションをゆっくり見るのは初めてだ。

ポケットの中のスマホが震えた。見慣れない番号。

「もしもし川村です。クリスマスカードありがとうございました。北海道、行きます。絶対行きます」

明るく、ためらいのない、真っ直ぐに言い切る声だった。

電話の声で、彼女の柔らかくて明るい笑顔が浮かんできた。

僕は笑っている自分に気がついた。

寒さも忘れて話していた。

「まだ揃ってない物、必要な物はありますか?」

弾んだ声で彼女が聞いてきた。


今度は僕が少し間があった。

もう二度と、後悔だけはしたくない。スマホを持つ手の震えを抑えて、言った。「うん…紙の本が好きな手」    


彼女はいつものように少し間があった、そして澄んだ明るい声で「はい!」


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