番外編 婚約発表
王宮の正門前は、ひときわ華やかに飾り立てられていた。
陽光にきらめく王家の紋章旗。
両脇を彩る色とりどりの花々と、衛兵たちのきびきびとした動き。
それらすべてが、この日が特別であることを告げていた。
貴族たちは礼装に身を包み、列をなして広場に集まっていた。
報道担当の筆が走り、王都の民も遠巻きに見守る。
――次代の王太子と、“氷の剣姫”と呼ばれた令嬢との婚約。
誰もが耳目を集めるのも当然だった。
「……まさか本当に、こんなふうに人前に立つ日が来るなんて」
「緊張してる?」
「してます。……けど、それ以上に、ちょっと嬉しいです」
リシェルは少し照れたように笑って、真っ直ぐ前を向いた。
その横顔は凛として美しく、でもどこか柔らかさを帯びていた。
白いドレスの上に、一筋のリボンが編み込まれている。
淡い空色――あの日、俺にくれたリボンと、同じ色だった。
(……気づかれないように、でもちゃんと伝えてくれる)
彼女なりの、静かな“合図”。
「俺も緊張してるよ。……猫だった頃、君の膝で寝てた相手と、こうして腕を組んでるんだから」
「……恥ずかしいので、その話は控えてください」
リシェルがそっと肘で小突いてくる。けれど、頬はほんのり赤い。
(かわいい……)
「でも、よかったな。こうして隣にいられて」
「はい。私も……とても、幸せです」
⸻
王と王妃の挨拶が終わり、ついに婚約者の紹介へと移る。
呼吸を整えながら、俺はリシェルの手を取る。
柔らかな感触。けれどその手には、剣を握る強さも宿っている。
(この手を、もう離さないと決めた)
壇上に立った瞬間――
広場全体から、どよめきが湧き上がった。
堂々たる王太子と、毅然とした令嬢。
でも、ふたりの距離感は不思議と柔らかく、親しさと信頼を感じさせた。
それが、見る者の胸に響いたのだろう。
声をひそめて話していた貴族たちが、次第に静かになっていく。
「本日をもって、正式に――王太子シリル・アルセイン殿下と、リシェル・ヴァルフォード令嬢の婚約を発表いたします」
儀礼官の澄んだ声が響き渡り、直後、場内から一斉に拍手が巻き起こる。
リシェルは、ふと俺の腕を見て、囁いた。
「……猫だった時より、人間のあなたの方が……やっぱり頼もしいです」
「そりゃあ、猫よりかっこよくなかったら困るだろ」
「ふふ。……じゃあ今日は、“王太子”として、ちゃんと振る舞ってくださいね?」
「……夜まで、ずっと?」
「はい。ずっと、です」
そんなやり取りが交わされているとは、誰も知らなかっただろう。
けれど壇上で見せる彼女の笑顔は、誇り高く、美しく、
そして何よりも――恋をした人間の顔だった。
拍手に包まれながら、晩餐会が始まった。
煌びやかなシャンデリアが輝く広間には、各国の要人たちも招かれており、会場の中心には大きなダンスフロアが用意されていた。
ほどなくして、楽団の演奏が始まる。
ワルツの優雅な旋律に、場の空気が自然と引き締まる。
「……さて、次は“お披露目の一幕”かな」
「……踊るんですか?」
「もちろん。主役は俺たちだから」
少し戸惑うように、リシェルが視線を落とす。
「正直、舞踏会にはあまり慣れていません。…剣のほうが得意なので」
「知ってる。でも安心して。今日は剣じゃなくて、俺がリードするから」
彼女の手をそっと取ると、リシェルは小さく息をのんだ。
フロアの中央へ。
注目を集めながら、俺たちは歩みを進める。
最初の一歩は、慎重に。
でも二歩目には、少し力を抜いて。
やがてリズムに身を任せるように、彼女は自然と俺に体を預けていた。
「……意外と、うまいんですね」
「王太子のたしなみだからな」
「ふふ。…でも、なんだか悔しいです」
「じゃあ今度、剣の稽古で勝たせてもらうよ」
「……無理です」
ふたりの足がすれ違うたびに、彼女のスカートが優雅に揺れる。
近づき、離れて、また近づく――そのたびに、心もほんの少しずつ重なっていくようだった。
「……リシェル」
「はい?」
「君と踊れてよかった。こうしてみんなの前で、君が俺の隣にいるって言えるのが、嬉しい」
「……それを聞いて、少しだけ、緊張がほどけました」
周囲の視線は熱い。でも、そのどれもがもう気にならない。
目の前にいる彼女が、やわらかく微笑んでくれているから。
最後のステップで、手を取ってくるりと回した瞬間――
ふわりと空色のリボンが舞い上がった。
拍手が、ひときわ大きく広がる。
そしてそのあと、ふたりはそっとバルコニーへ抜け出す――
バルコニーに出ると、風がやわらかく髪を揺らした。
「……風が気持ちいいですね」
「うん。リボン、きれいに揺れてる」
「……気づいてたんですね」
「もちろん。忘れるわけない。……俺にとって、大事な贈り物だから」
リシェルは少しだけ視線を逸らし、頬を染める。
「……じゃあ今度は、あなたに、何か贈ってもらえますか?」
「もちろん。なんでも、君の欲しいものを」
「……じゃあ、“一生、そばにいてください”」
その言葉に、一瞬だけ息が詰まる。
だけどすぐに笑って、彼女の手を取った。
「……それ、もう贈ってるつもりだったけどな」
夜風の中、そっと唇を重ねる。
それは、ただの婚約の儀式ではない。
“ふたりの恋が、本物になった”証だった。