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後編

「クロ、おいで」


リシェルがそう呼ぶと、俺は自然と彼女の膝の上に跳び乗った。もう、これは習慣のようなもの。彼女の膝は温かく、すっぽりと体が収まる場所だった。


今日は少し肌寒い夜だった。訓練のあと、彼女の指先はほんの少し冷えていて、それがまた妙に心地よかった。


「今日も……たくさん一緒にいてくれてありがとうね」


リシェルは俺の頭を撫でながら、小さく微笑んだ。


「クロって……不思議な猫。なんだか、誰よりも私のこと、わかってくれてる気がするの」


(そりゃそうだ。俺だからな)


そう言えたらどんなに楽かと、今日も思う。けれど、それはまだ叶わない。

彼女の前では、俺は“クロ”という猫のままだ。


「……明日も、変わらず、こうしていられるかな」


ふと、リシェルが囁くように言った。


「私、クロに会えてよかった。……君にだけは、優しくなれるから」


その言葉に、胸が痛んだ。


(もう、限界かもしれない)


このまま彼女のそばに居続けたい。けれど、それは叶わない夢だ。

俺は王太子で、いずれこの呪いは解ける。そして、彼女には本当の俺を見せなければならない。


それが、怖かった。


「クロ……おやすみ」


彼女の唇が、額にそっと触れる。


優しく、やわらかく、あたたかく。

それは、間違いなく――愛情のこもったキスだった。


その瞬間、身体の中に、光が満ちるような感覚が走った。

リシェルが眠りについたことを確認し、腕の中からそっと抜け出した。そのまま、彼女の寝室の窓から外に身を翻す。


外に出た瞬間、骨が、筋肉が、形を変える。視界が高くなり、耳が、人の形に戻っていく。


(……戻った)


変化は一瞬だった。気づけば、俺は人の姿を取り戻していた。

眠っている彼女は何も知らない。


(言わなきゃ……けど今じゃない)



王太子としての日々が、また始まる。

けれど、俺の心には確かに残っていた。

あのやさしさも、あの笑顔も、あのぬくもりも。


そして――あの小さな、おやすみのキスも。


王宮に戻った俺は、何もなかったかのように日常に復帰した。


だが――中身は、まるで違う。


「殿下、今日はいつにも増して集中されてますね」


「……ああ。ちょっと、考え事をしていただけだ」


政務も、謁見も、舞踏会も。すべてこなしている。けれど、心はどこか上の空だった。

ふと気づけば、手首にはあの空色のリボンを結んでいる。


(あの日、リシェルがくれたリボン……)


彼女の指先が不器用に結んでくれた結び目。何度もほどけかけては、俺自身の手で結び直している。


大切なものだ。

猫だった俺を、彼女が“家族のように”迎えてくれた証だから。



王宮の誰にも、この気持ちは話していない。

ただ、時折ふと漏れるらしい。


「……最近、王太子殿下、何かおありなんですか? 穏やかというか、柔らかい雰囲気をまとっていらして」


そんなことを言われるたび、胸がちくりとする。


(柔らかくなったのかもしれないな。……あの人に、溶かされたんだ)


それは、決して悪いことじゃなかった。



数日後、耳に入った情報に思わず身を乗り出した。


「近衛訓練に、ヴァルフォード家の令嬢が指導に来るそうです」


(リシェルが、ここに?)


心臓が跳ねた。


すぐに予定を調整し、訓練場への視察を申し出る。周囲には「戦力の確認」と告げたが、本当はただ――彼女に会いたかった。


(どんな顔して、会えばいい)


猫だった俺が、いま、王太子として彼女の前に立つ。

彼女は“クロ”がいなくなったことに、気づいているだろうか。


そう思いながら、訓練場へと足を踏み入れた。



そこにいた彼女は、いつもと変わらぬ冷ややかな瞳で、部下たちを指導していた。

背筋は伸び、声も凛としている。誰が見ても非の打ちどころのない完璧な姿だった。


――けれど。


(……分かる)


俺には分かった。彼女の目が、どこか曇っていることに。

他の誰も気づいていない。でも、俺だけには分かる。


(クロが、いなくなったから……だろ)


どこか探しているように視線が彷徨う様子に、胸が苦しくなる。


――もう限界だった。


(リシェル……もう一度、君に会いたい)


(そして今度こそ、君のそばに“本当の俺”としていたい)


俺は一歩、彼女へと歩みを進めた。

訓練場の片隅。

リシェルは誰にも気づかれぬように静かに呼吸を整えていた。


「……“クロ”、どこにいったの」


誰にも聞こえないほどの小さな声で、彼女はそう呟いた。


それが――俺の背を、そっと押した。


「リシェル・ヴァルフォード」


その名を口にすると、彼女はぴくりと肩を揺らし、振り返った。


目が合った。

凍てついたような紅い瞳と、俺の視線が絡み合う。


「……王太子、殿下」


その声は硬く、儀礼的だった。だが、瞳の奥に宿る光が揺れていた。


「話がある。少し、時間をもらえないか」


彼女は、ためらうようにしてから――こくん、と頷いた。



場所を移し、無人の訓練場の片隅。

二人きりになった空間で、俺は静かに口を開いた。


「俺のことを、“クロ”と呼んでいた君に、話したいことがある」


彼女の表情が凍る。


「……それは、どういう――」


「俺が、“クロ”だった」


その一言で、彼女は動きを止めた。


瞳が大きく見開かれる。けれど、すぐに視線を伏せ、唇を噛んだ。


「……冗談は、おやめください」


「本当だよ。君の部屋で眠った。君と一緒に風呂に入った。訓練のあと、膝で寝かせてくれた」


「……っ」


「俺にリボンをくれた。空色で、縁に金糸の刺繍が入ってる。君は言った。“首輪じゃ味気ないから、代わり”だと」


「……!」


ようやく、彼女が顔を上げる。

瞳の中に、涙がたまっていた。


「……本当に、あなたがクロだったの?」


「ああ、俺だよ。あの時のリボンもここにある」

「……そんな。私、あんなに話してたのに……気づけなかった」


「気づけるわけない。俺が猫だったんだから」


リシェルは、少しだけ目を伏せた。


「……私、クロにはずいぶん、素の顔を見せてました」


「全部、見てた。君の優しさも、寂しさも……全部。あの夜の“おやすみのキス”……あれが、呪いを解く鍵だったんだ」


沈黙が流れる。

それは、猫だった日々のぬくもりを思い出すには、十分すぎるほどだった。


「あなたが“クロ”だったことを聞いて、驚いたけど……それ以上に、胸が、苦しかったです」


「苦しい?」


「……いなくなったことが、思っていた以上に、私にとって大きかったんだって、今わかりました」


彼女の声が、かすかに震える。


「でも、正直なところ……今はまだ、少しだけ戸惑ってます」


「……うん」


「あなたのことを、私は“クロ”として大事にしてた。でも、今目の前にいるあなたは“王太子”で……人としての“あなた”を、私はまだ、知らない」


「だから――知ってほしい。君に、俺という人間を」


リシェルが、はっと目を見開く。

俺はその手を、そっと取った。


「猫のときは、何も言葉にできなかった。けど、今は言える。リシェル……俺は、君に恋をしてる」



リシェルは、少し目を伏せて――ゆっくりと顔を上げた。


「……殿下」


「“殿下”じゃない。俺のこと、名前で呼んでくれない?」


「…………シリル、様」


その声はかすかに震えていたけれど、確かに俺の心を打った。


「ありがとう、リシェル」


「……慣れないですけど。ちゃんと、覚えます。あなたを、名前で呼ぶことも……人として、好きになることも」


俺は、彼女の手をそっと握りしめた。


「この先、時間をかけてでいい。君が“王太子”の俺を好きになるまで、そばにいさせて」


リシェルはしばらく黙って、それから――静かに、けれど確かに、頷いた。


「……じゃあ、最初からやり直しましょうか。クロじゃなくて、あなたと」


その一言に、俺の胸はじんわりと温かくなる。


今度こそ――君の隣に、人として立てる。





数日後の王宮。


リシェルが訪れると、シリルは机の上の書類を片付けながら、にやりと笑った。


「今日は“王太子”の顔じゃなくて、“ただのシリル”として会いたいなって思ってたところ」


「ふふ、それならちょうど良かったです。“ただのリシェル”として来ましたから」


お茶を飲みながら、ふたりは穏やかに言葉を交わす。


「……まだ慣れないです。あなたのことを“クロ”じゃなくて“シリル様”って見るの」


「慣れてくれなくてもいいよ。君にとって特別な“クロ”の記憶があるなら、それはそれでうれしいから」


「……ずるいです。そういうこと言うから、少しずつ、また惹かれていくんですよ」


「惹かれてくれてるなら、それだけで十分」


いつか、彼女が“好き”と告げてくれる日を、焦らず、少しずつ待とう。

その日が来たら、今度こそ――心からキスを交わせるように。


(リシェル、もう逃がさない。君を想う気持ちは、ずっと変わらないから)


窓の向こうで、やわらかい春の風がそっとふたりの髪を揺らした。



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