前編
王太子というのは、思っているよりも忙しい。
朝は政務、昼は来賓との謁見、夜は晩餐や社交の場へと顔を出さねばならない。けれどその日、俺は「呪いを受ける」という前代未聞の予定を追加された。
「……何をした?」
「呪いさ。愛を知らぬ者に、人の姿は不要ってね」
老女のくぐもった声が耳に残る。目を開ければ、視界は妙に低く、鼻先には床板。四つ足で立つと、ぐらりと世界が揺れた。
「……にゃ、あ?」
口から出るのは、なんとも間抜けな鳴き声だった。
(……嘘、だろ)
だが夢ではなかった。鏡に映るのは、柔らかい黒毛と琥珀色の目を持つ、小さな黒猫。
――どうやら俺は、本当に猫にされてしまったらしい。
なぜ俺が呪われたのか、いまだに分からない。けれど、それは確かに始まりだった。
⸻
魔女を追って王宮を抜け出した。しかし、魔女を見失い街を彷徨っていた俺は、ついに力尽きて、とある屋敷の門前に倒れ込んだ。
「……こんなところに猫?」
声がした。
目を開ければ、そこに立っていたのはひとりの令嬢。淡い銀髪に赤い瞳、凛とした美貌を持ちながら、どこか冷たさを感じさせる顔立ち。
彼女の名前は、リシェル・ヴァルフォード。
軍部を束ねる将軍を父に持ち、自身も剣術に通じると噂の令嬢。普段ほとんど笑わず感情表現がないことから、貴族の間では“氷の剣姫”などという仰々しい二つ名で呼ばれている。
そして何を隠そう――俺の婚約候補の一人でもある。
顔を合わせたのは数回程度。言葉を交わした記憶すら、ほとんどない。
(なんでこんなとこに……って、まずいな)
王太子の俺が、こんな姿で見つかるわけにはいかない。逃げようとした矢先、彼女はしゃがみ込み、そっと手を伸ばした。
「……汚れてるし、怪我もしてるのか。うちに連れて帰ろう」
(ちょ、待て、やめ――)
そのまま俺は、彼女の腕の中に抱き上げられていた。
———
「お風呂、我慢して。汚れてるでしょ」
「にゃあああああ!」
湯船に浸された俺は、全身で抗議の声をあげた。だがリシェルは微笑みもせず、黙々と猫用に用意した桶で俺を洗い続ける。
(屈辱だ……!)
泡とともに流れていくのは、王太子としての尊厳。
けれどなぜか、リシェルの手はとても優しくて、彼女の髪から香る微かな石鹸の匂いが、妙に心地よかった。
その夜。ふかふかの毛布に包まれて、リシェルの隣で眠ることになった俺は――
(ああ……負けたかもしれない)
彼女が掛けてくれた毛布の温度に、少しだけ甘く溶かされそうになっていた。
⸻
「名前、どうしようかな……黒いし、クロでいいかな」
(単純すぎる……!)
不満を訴えても、出てくるのは「にゃーん」だけ。こうして俺は“クロ”としてリシェルの家に居候することとなった。
それにしても、驚いた。
氷の剣姫と恐れられる令嬢が、こんなに猫に甘いなんて。
「クロ、今日もかわいいね」
剣の訓練から戻ったリシェルは、まず真っ先に俺の頭を撫でてくれる。掌は温かく、指先は丁寧で、まるで宝物でも触るかのようだった。
そのたびに、俺の中で知らなかった感情が芽吹いていく。
(この人、本当はすごく優しいのか……?)
⸻
ある日、俺が彼女の膝の上でうとうとしていたときのことだ。
「ふふ、……クロって、本当にいい子」
リシェルがふと、ほほ笑んだ。
それは、それまでの彼女とはまるで違う表情だった。
誰にも見せたことのない、あたたかな笑顔。
――この顔、見たことなかった。社交の場でも、いつだって彼女は仮面のように冷たかったのに。
その日、俺は生まれて初めて、
「誰かをもっと知りたい」と心から思った。
⸻
「はい、これ」
手渡されたのは、小さなリボンだった。淡い空色に、細い金の糸で縁取りがしてある。
「首輪じゃ味気ないから。……代わり、ね」
(プレゼント、ってことか?)
「似合ってるよ、クロ」
彼女はそう言って、俺の首元にそっとリボンを結ぶ。
その瞬間、胸の奥が、ふわっとあたたかくなった。
(ああ、だめだ。……このままでいたくなる)
王太子としての責任も、立場も、今だけは忘れて。
彼女のそばにいたくて仕方がなかった。
⸻
夜、俺が丸くなって眠ろうとしたとき、彼女がぽつりと呟いた。
「……クロがいると、少しだけ、寂しくないの」
それがどんなに大きな言葉か、俺には痛いほど分かった。
彼女はずっと孤独だったのだ。剣に生きるために、笑うことも、甘えることも許されず。
けれど今――彼女は、俺に心を開いてくれている。
(リシェル……君は本当は、こんなにも優しいんだね)
俺は彼女の腕に頭を乗せ、そっと目を閉じた。
このぬくもりに、ずっと包まれていたい。そう思いながら。
「ん……クロ、どいて。眠れないでしょ」
(いや、今日はここで寝る)
リシェルが眉をひそめる。けれど、それは“本気の拒絶”ではないともう分かっている。彼女の指先は、毛並みを撫でながらも止まらない。
「……しょうがないな。じゃあ、少しだけ。今日も一緒に寝ていいよ」
(よし、勝利)
気づけば、当たり前のように彼女のベッドで眠っていた。最初は片隅だったのが、今では彼女の腕の中。
ふわふわの髪に顔をうずめ、優しい鼓動を聞きながら眠る時間が、日常になっていた。
⸻
そんなある日、リシェルの訓練を見学していると、ふと彼女の肩が小さく震えた。
(……疲れてるのか?)
普段と変わらぬ鋭い動き。けれど俺の目にはわかった。彼女はどこか無理をしていた。
訓練を終えた彼女が部屋に戻ると、俺はすぐに彼女の膝へと飛び乗った。何も言わずに、ただ黙って頭をすり寄せる。
「……クロ?」
小さく呼ばれる声は、少し驚いたようで、そしてどこか嬉しそうだった。彼女の手がそっと俺の背を撫でる。
「……クロがいてくれて、本当によかった」
(こっちのセリフだよ)
言葉にはできないけれど、彼女のぬくもりが、胸にしみた。
この気持ちは、たぶんもう“同情”じゃない。“興味”でもない。
(俺は、この人が――好きだ)
猫の姿のまま、王太子としての誇りも、義務も、今は関係ない。ただ、彼女に触れられることが幸せだった。
⸻
その夜。
彼女がぽつりとつぶやいた。
「クロ……君は、どう思ってるのかな。私のこと、冷たいって、思ってる?」
(いや、全然)
「……誰にも、好かれなくてもいいって、ずっと思ってた。父に“感情を見せるな”って言われて育ったから」
言葉を重ねるごとに、彼女の声は少しずつ小さくなる。
「でも、君には……つい、話しかけちゃうんだよね。変だよね。君は猫なのに」
(変じゃないよ)
彼女は苦笑した。けれどその表情は、どこか救われたようで、少しだけ安心したように見えた。
俺は小さく鳴いて、彼女の手に顔を擦り寄せた。
「……ありがとう、クロ。……おやすみ」
リシェルの手のひらに包まれながら、俺はそっと目を閉じた。
(もし戻れたら……今度は人間として、君の隣にいたい)
そう、強く、強く思った。