拡散へ
朝食の準備をしていると、白い腕が後ろからそっと延びてきて、フライパンに指先をちょんと当てて、あわてて引っ込める。後ろには誰もいない。
食事をしていると、若い女性の声が微かに聞こえる。「おいしそう」と。背中にはだれもいない事は分っている。振り向きもしないで、耐える。
食器を洗っていると、足下を何がが駆け抜ける。足首に何かが当たった感覚が残る。下を見ても何もいない。ただ、耳元で、うふふふとからかうような声が聞こえた。
「誰かいるような気がするのよね」母が唐突に言った。「お父さんが帰ってきたのかしら」
「そうかもね、お盆だもの」しかし、人並みにお盆を迎えることはできない、墓参りに行くにしても、交通費が勿体無い。何時もどおりに仏壇に、ご飯と水を供える程度だ。
花は、何年も飾っていない
午前は、スーパーのレジ打ち。ツテでお惣菜の残りを分けて貰って、家に持ち帰る。
午後からは、ファーストフード店だった。
夕方に「バイト行ってくる」と家を出ると、それもそっと付いてくるのが分る。くそっと思っていきなり振り返ると、残像のように顔の半分が見えた気がした。
「あぶないあぶない」と声がする。「おかえしだよ」
突然、足首に何かが絡みついた。あまりに急なので、よろめきながら地面に思わず膝を突いて倒れ込んだ。掌や膝頭に擦り傷ができた。ちいさなな声が、「ざまあみろ」と嘲った。
夜の時間帯のバイトでは、居酒屋の店主が、掌の傷を見て、薄いゴム手袋を渡してくれた。相変わらず洗いものをしていると、膝がずきずきと痛んだ。傷にばい菌でも入ったのだろうか、腫れたのかなと片足で立って。傷のある足を持ち上げてみれば、見事に腫上がっていた。
とつぜん、その腫れた傷にすっと一本の切れ込みが入り、さらに小さい切れ込みがふたつ入った。最初の切れ込みがぱっくり口をあけた、血は出ないが、その切れ口には、歯がしっかり並び、小さいきれこみの二つが口をあけると、そこに小さい目玉があった。
「けけけけ・・・」膝にできた口が笑った。「ねえ、私って綺麗?」
息が詰まって悲鳴が出そうででない。恐ろしさと伴に背筋を寒気が駆け上り歯の根が合わない。思わず目を背けて上げた足を下ろした。そこでようやく、空気を吸った。
一呼吸おいておそるおそる膝を見ると、そこにあるのは傷がついた何時も自分の膝だった。
「どうしたの」背中からいきなり声がかがり、ぎょっとして振り向くと、店主が不安そうな表情をしていた。
「いえ、ちょっとここに来る時に転んで怪我しちゃって」と慌てて返事をした。
「傷バンあるから、使うといいよ」と店主は、救急箱を棚から取り出した。
「いいです、たいした傷じゃないから」
「だめだめ」と店主は、消毒薬と、傷バンを取り出して。シンクの脇に置いた。「お客さんが増えてきて、グラスが足りなくなってきたから、手当をして早く洗ってね」
「わかりました」と彼女が、消毒薬を手にすると、安心したように店主は客席に向って行った。客席から、賑やかな声がなだれのように洗い場に飛び込んできた。
消毒薬を塗ると、僅かにしみた。また口と目が現れた。「ひえぇぇ染みるぅ」と言いながらケタケタ笑う小さな膝の上の顔。
これは一体何なんだろう。何時ものような冷たく、自分を俯瞰するような感情が恐怖を押さえ込む。あのうわさ通りに霊が取り憑いたのか、それとも母の様に幻覚や幻聴に悩ませられるようになったのだろうか。容赦なく彼女は、小さい顔に傷バンを貼付けた。
目の隅でうろつくそれは、明らかに近づき、自分にべったりと貼り付いている気がした。帰り道で、それの存在はずっと肩の上や頭の上にあるように思えた。囁くような声も、頻繁に起きる。
家に帰ると、薬を飲んで寝ている筈の母が起きていた。夕飯後に薬を飲ませることになっているが、疲れからか、彼女も母に指示するのを忘れる時がある。
「三階で、誰かが私の噂をしているの」母が、テーブルに伏して涙していた。「淫売とか、夫を殺したとか、金遣いが荒いとか酷いうわさばかり。死にたい、死にたい」
「根も葉もない噂なんかきにしちゃ駄目だから」と薬をお薬カレンダーから取り出した。このおんぼろアパートには3階はない、しかし母の頭の中では、ここはそれなりのマンションの一室のようだ。「薬を飲まないと、病気が治らないから・・・」
「そんなの飲んでも、癌は治らないわ」
「癌じゃないってば」思わず声が大きくなった。「いいから飲んで」
「さっき飲んだわよ。あんた沢山飲ませて私を殺す気かい?」
「飲んでいないの、ほらお薬カレンダーみてよ」と壁にはったお薬カレンダーを指した。
それでも母が、納得できていないのはよく分った。しかし、田崎の強い口調に負け、しぶしぶと薬を受け取った。薬を飲んでから、母に風呂に入るように促す。彼女は、母の背を見送り、ちゃぶ台の上に先ほどまで母がしていたように伏せてため息をついた。
「大変だな」耳元で声がした。
テーブルに片側の頬をつけたまま目を開けると、髪の長い女性が立っていた。初めて見る全容だ。母にしろ幽霊にしろ、もう背負うのはまっぴらだ。
「出て行け」小さい声で思わず言う。
「お前が、私を招いたんだろ。それはできない」幽霊は、首を横に振った。長い髪が顔を隠したまま左右に揺れた。声は、まるで耳に入るというより、底から湧いて出てた音が、全身を通して響くようだ。その振動に思わず意識を奪われそうになるほどに、強烈な声だ。
「じゃあ、大人しくしていて欲しい」彼女は、一度歯を食いしばってから、臓腑のそこから自らの意思を吐き出した。
「それもできない、あわよくば、お前を私と同じ世界に連れて行きたいという衝動が抑えられないもの」幽霊は、それが幽霊の本質とばかりに彼女に諭す様に返事を返した。「だから早く死んでくれないかな」そして長い髪を邪魔そうに掻き上げた。
「分ったよ、さっさと私の魂をあの世にでも持っていってくれよ。未練は、あのどうしようもない母だけだし、死ぬほどに疲れているんだ。」彼女は、幽霊の若くて綺麗な表情に思わず、こんな若くて綺麗な人手も、死ぬのかと思ってしまった。
「私としては、お前の恐怖におののく姿や、殺さないでくれと、懇願する姿が見たいのだけどねぇ」幽霊は、冷たい手の甲で彼女の頬をなぞった。「恐怖に陥り、パニックになればなるほど、お前の意思は、私の思い通りに動く様になるからね」
「それは無理。」彼女はじっと幽霊を見据えた。「現実以上に怖いものがあるか」そうだ、現実は、弱者に対して恐怖以外の何物でもない、貧乏というだけで、未来は封じられる。弱者は常に強者に捕食されるだけじゃないか。生きたまま今を食われ、未来を食われ、希望を食われ、それでも今を生き残るだけのために耐えるしかない。
「つまらねぇ奴だ。」幽霊は、すーっと消えかかった。彼女は、それをじっと見送るような格好になった。が、また幽霊はじわりと姿を色濃くした。
「じゃあ、こういうのはどうだい?」
「何?」
「お前のSNSグループに私を招待してくれ」
「お前、携帯持っているのかい?」
「不要だよ。私は今ネットの中にいるからね、しかし幽霊ってのは招かれないと憑依できないから、SNS経由で招いて欲しい。そうすれば、お前の前から消えてもいい」
「どうすればいい?」
「かって私を呼び出したAIに訊いてくれ、有紀さんをSNSのグループの仲間にしたいってね」
彼女は、その通りにすると、AIは一つのIDを表示した。それを使ってSNS上のグループに幽霊を招待をした。それは、いじめっこと自分をつなぐSNSだった。
早速いじめっ子達は、SNS上で招待した奴は誰なんだとしつこく問いただし、何時も彼女に対して暴力を振るう河川敷に呼び出した。
幽霊もまた、自分にとって捕食者じゃないか、約束なんか信じた自分が馬鹿だった。
彼女は、冷ややかな心で覚悟を決めると、いじめっ子達の言う通りに、夕暮れ間近の高速道路の橋の下にやってきた。目の端には、何かがいつものようにつきまとっている。
「全然消えていないじゃないか」と独り言を言い、そこで暫く待ち続けた。しかし時間が過ぎても、待ち人は来ないままだった。仕方なく、彼女はすっかり日が暮れた河川敷を駅に向って歩いた。街灯が乏しい道は、幽霊の存在を際立たせた。しかし時折すれ違う、ジョギングランナーも、犬を連れて散歩する人も、彼女の斜め後ろをつきまとう存在には気がつかないままだった。
あの、怪談もののHPに書いてあったっけ・・・と彼女は、ふと思い出した。・・・幽霊は見える場所にいるのではない、それは頭の中に居る。そこで、五感を乗っ取り、対象を恐怖に陥れる。もし、それを避けるなら、好奇心で霊の場に入り込んだり、呼び寄せるべきではない。・・・ならば、見えているのは、私だけか。
それから、新学期が始まってもいじめっこは登校して来なくなった。目の端には、相変わらず何かが居る。しかし気配の雰囲気が変わっているような気がした。悟られないように目だけを動かすと、垣間見れる僅かな姿から察するに、それは男の様だった。そして、その陰の存在が醸し出す空気は、どこか温かみのあるものだった。
女性の幽霊は去り、別の幽霊を招き入れたのだろうか?彼女は、ふと小さく安っぽい仏壇の前で手を合わせる母を見た。仏壇の前に置かれた写真には、笑みを浮かべた父が居た。
「じゃあ行ってくるから」母は、仏壇に向って言って立ち上がった。女の霊が去ってから母の症状は日を追う毎に改善し、昨日は、自ら病院に行くと言い出したのだ。母の自立と伴に、彼女も日々の生活が楽になってきていた。
そんな母の様子を目で追いながら、いよいよどん底から、這い上がれるかもしれないという希望が見えた気がした。その時、母は彼女の脇を通り過ぎ様、耳元で呟いた。
「ゆうきだよ、これからもよろしくね」
彼女は、母の背を見たまま呆然と立ち尽くした。同時に、部屋のあちこちに怪しいものが蠢いてるのをはっきりと目にした。
思わず、悲鳴を上げた。その声に思わず母が足を止め振りむいた。一瞬、あの幽霊の女の顔に見えた気がした。
「そこかしこから、いろんなものを拾って家に持ち込むからさ、中には、よくないものもある。どうやら自分で家に霊を招いてしまったようだね。」と視線をカラーボックスの上にのっているものに移した。
母は、振り返ってにやりと笑って言った。「そうだな、お前にはこいつらを学校の連絡用SNSに招待してもらおうか、お母さんはこうして正常にしてあげるからさ」
田崎は、それは良いアイディアかもしれないと思った。どうせ、気にくわない大人達ばかりだ。どうなろうと知ったことではない。
「どうすればいい?」
「帰ったら教えるね」母は、優しい声で返事をすると、アパートを出て行った。
田崎もまた、自分で丁寧にアイロンを掛けた夏の制服の襟を通してリボンを結ぶと、鞄を持って出て行った。その後ろを異形のもの達が、ぞろそろと付いてゆく。膝の上に小さな膨らみができると、顔の形になって「わたし、きれい?」と呟いた。
「ブス!」彼女が膝に向って毒気づくと。顔は、舌を長く伸ばしてからひっこんだ。幽霊は、ここにいる。私は、世間にむけてこいつらを拡散してやるのだ。朝の白い直射日光がが彼女の白い制服を輝かせた。




