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目の端のもの

 田崎は、酷い事をされないことに胸をおろしてカラオケボックスから出て言った。その時、何かが目の隅で動いたように感じ、そちらに目を向けたが何も居なかった。

 気のせい?と考えたが、反面うわさの花子さんの事が頭に浮かんだ。今の生活でさえ、落ちる処まで落ちたと思っていたが、まだ落ちる余地があったのだろうかと、惨めを通り越して居直りたくなってきた。


 家に戻りそっと母の様子を覗きみると、静かに寝息を立てていた。彼女はほっとため息を付くと、シャワーを浴びた。ちゃぶ台を部屋の隅においやり、小物を入れてあるカラーボックスの上に置かれたガラスの皿に目をやった。そこには、幾つも小さな石ころが乗せられていた。地味なもの、透明感のあるもの、筋が入ったもの、どれも子供の頃に、綺麗な石だなと思ってなんとなく拾ってきたものだ。数年前までは、時折路傍にある小さな石ころに目を奪われる事があった。しかし最近では、そんな心の余裕もない。やるべき事が多すぎて、自分の興味を優先してできることなどなに一つないのだ。もし、自分の為の行いをひとつすれば、家事のどれか、母の面倒のどれかをひとつ忘れそうなのだ。


 押し入れから布団を出して敷くと扇風機のスイッチを入れて横になった。木造モルタルのアパートの2階、安普請ゆえか、風通しがよく、網戸にすれば、どこからとなく、風も入ってくる。冬はとても寒いが、夏はそこそこ過ごしやすい部屋であった。

 もっともエアコンは母の部屋にしかないので、風のない熱帯夜は、ほとんど寝付けなかった。


 目をつむっても、何かがこの部屋に居るような気配がした。時折、軽い何かが自分の腹の上を歩くような感触があった。しかし、いじめっこ3人組に遭うだけでも大変な心労だったので、彼女はたちまち寝入ってしまった。


 朝は、朝食を作り、母を起こす。毎日のことだが、目が回るような忙しさには、もう慣れっこになっていた。


「お父さんから電話あった?」食卓で母が訊いた。しかし父は既に亡くなって居た。その時も生命保険も、戸建ての家も、父が経営していた会社の負債の支払いに消えて、何一つ残っていない、むしろまだ残っている負債がある程だ。


「ううん」と彼女は首を振った、以前は「もう死んだでしょ」と怒って言い返したが。今ではその気力もない。


「全く連絡も寄越さないでどこに行っているんだか」と母はぼやいた。


「そうだね。心配だね」彼女は、小声で頷いた。


会話は少ない。朝のニュースだけが、長い沈黙をかき消してくれる。


食事が終わり、食器を洗って片付けると、彼女は学校に行く準備を始めた。夏期休暇中の登校日だった。


 そんな彼女の行動を母親の目がぼんやりと追った。「いつもありがとう」と母親は、まるで機械の様に言葉を口から出す。気持ちの乗っていないありがとう、聞き飽きた言葉だ。そして、いよいよ扉に手を掛けると、背中に母の声が届いた。「いってらっしゃい」


 家から解放される時間は、家から出て学校に行って帰るまで・・・


 学校までは、一時間かけて歩いてゆく。この学校そのものが、やや辺鄙な処に建っているが、アパートはさらに辺鄙な処にある。自転車もあるが、悪戯でパンクさせられて以来使っていない。朝から暑い。古着屋で買い求めた制服がべたつく。


 歩いていると、目の端に誰かがついて来ているような感じがした。しかし、振り向いても誰もいない、その振り向いた瞬間にも、誰かが視界の外で彼女の前に出たような気配がしたが、周りには誰もいなかった。そのとき、べたついて気持ち悪い背中を誰かに押されたような感触がした。気色の悪さに、再び振り向いたが、やはり誰もいない。


 学校に着いても、視野の外に誰かがいた。教室で前を見ていると、足下で何かが蠢いているのだが、確認しようとして目を向けても何もいない。気味悪いという気持ちより、気が散っていらだちがつのっていた。


 午前で皆が帰ったあとの寂しい教室、田崎がひとりぽつねんと、家で握ってきた昆布の佃煮が入っているおにぎりを昼食として囓っていると、いじめ3人衆がやってきた。


「やっぱり居た」嬉しそうに鈴木が隣の席の机に尻をのせた。とりまきも、彼女を包囲するように前と後ろの席の机の上に座った。


「どうだい、何かみえるようになったか?」鈴木が、彼女をのぞき込むように訊いた


「いえ、何も」田崎は、首を振った。そんな時にも、なにかが視界の外で飛び回っているのが見えたような気がした。蝙蝠?いや、教室の中にそんなものが居るはずもない。


「ふうん」鈴木は、つまらなさそうに顔を取り巻きに向けた、「幽霊も貧乏神の方が怖いみたいだな」そして笑い声をたてた。取り巻きも乾いた笑い声を追従させた。


「暑いし、ゲーセンにいこうぜ」と二人の取り巻きに声をかけて出て行った。教室の扉も閉めず、声だけが戻ってきた。「幽霊を見たら教えろよ」


 やっと行ったか・・・田崎は、ため息を付いて。3人が出て行った開けっぱなしの扉を見つめた。誰もいなくなった教室、僅かに残ったままのエアコンの冷気。それをかき乱すように、僅かな冷気が、頬や足下を掠める。目の端では、何かが漂っているのが分るが、それを確かめようとしてそちらに目を向けても何もいない。


 冷気が、田崎のうなじをそっと掠めた。その時、「ゲーセンにいこうよ」と小さな声が、田崎に聞こえた。振り向いても誰もいない。再び前を向くとその動作に合わせるように、長い髪を持った女性らしきものの顔が、視界の外で移動する。その流れるような黒髪の一部を一瞬捉えた気がした。


 何故か恐怖を感じない、むしろ恐怖の対象は、現実に存在するいじめっ子の連中であり、何も対処してくれない大人達だった。


 心にできた傷には、かさぶたが幾重にも積み重なり、まるで鎧のように堅い。田崎は、それを自分で不感症と呼んでいた。


 喜び、悲しみ、怒り、恐怖、妬み、愛しさ、希望、ありとあらゆる心の動きは、かさぶたを破って出てくることはないのだ。今の自分は死ねと言われれば、死ぬかもしれない、殺せと言われれば人の命をなんとも思わないかもしれない。


 絶望という川の流れに身を任せたまま、ただ漫然と生をつなげているだけなのだ。


 ためいきをつく、こうして幽霊らしい存在を感じていても、そこに幽霊が居る・・・と認識しても、まるで感情が動かない、私を脅かそうとしているなら、哀れな幽霊だ。私につきまとわらずに、もっと適切な人に取り憑けばいいのに。田崎は、ひややかなため息を再び漏らした。


 見て、こっちを見てとばかりに、視界の外で影のような何かが動きまくるが、興味も薄れてきた。


 きっと私はヒビだらけのガラスだ。きっと壊れるときはあっという間。そして自分はいつか母の様になる。田崎は、米粒でべたべたした掌をふと見つめた。


 教室の時計を見て、そろそろ出ようと席を立ち、洗面所で手を洗う。なにかが付いてくる。鏡を見てもそこに映るのは、美人でも可愛くもない自分の顔だけ、そもそも髪も顔も手入れらしいことは、父が亡くなって以来したことがない。そして鏡に映らなくても、目の端では何かがそこに居た。鏡に映らないようにいているのか、そもそも鏡に映らない存在なのか。じゃまくさい・・・と思いながら洗面所を出ると、廊下を手を拭きながら歩いた。誰もいない廊下。遠くでは、クラブ活動の生徒のかけ声が聞こえた。


「あそぼ」その遠くの声にまざって、女性の声がまた聞こえた。こんどは振り返りもしない、遊べるような時間なんかどこにもないよ。と心の中で、見えない相手に怒鳴りつけた。


 校門を出ると、まっすぐバイト先に向った。相変わらず、誰かの存在を感じる。付かず離れず、しかし姿は見せない。


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