7.
間隔が相手しまって申し訳ありませんでした。
すっかり新しい年が明けてしまいました。本年もゆっくり更新していきますので、ゆったりと見守って下されば幸いです。
「……見つかったら厄介だねえ……」
のんびりとした口調でそう言ったのはスネークの方だ。
「分かってんならとっとと行こうぜ……捕まるのはごめんだし」
自らの銃をコートの内ポケットにしまい込み、抜き取ってその場に落したままだった銃弾をきっちり回収しながら、神楽が応える。
誰かが暴れた証拠ならば、警察が必死に捜査すれば出てきただろうが、幸運なことに、捜査に現れたのはあの樋口だった。無残に破壊されたドアや窓、そして窓の鉄格子、通常では考えられない大きさの物が通過したような痕跡のある廊下や階段を一通り目にして、大きな疑惑を抱いた警察官もかなりいたが、樋口が何か適当なことを言ったのだろう、本格的な捜査は行われなかったようだ。運悪くそのホテルに滞在していた怪しい輩が、簡単な事情聴取を受けた程度で事は終わった。
勿論、樋口には何となく見当がついていたことであったが、この夜の一騒動に関しては、神楽も細かい詮索はされなかった。神楽は(今回はスネークも)感謝はしていたものの、また不本意ながら、樋口に借りをつくってしまったようだ。
帰り道は楽だった。屋上の出入り口はスネークが破壊していたし、廊下も階段も、邪魔者はいない。ただ、二人に見えていたのは、あのバケモノがこすっていったらしい壁や床、天井の黒いわだかまり。徐々に消えていったが、あまり気持ちのいいものではなかった。
神楽とスネークは、その夜は特に何を話すわけでもなく、次に会う約束をとりつけて解散した。神楽は自宅へ戻ったが、スネークの方は別のホテルに向かった。警察たちは間もなく撤収したようだったが、やはり同じホテルに滞在するのは気が引けたのだろう。逆に同じホテルに泊まったほうが都合がいいような気もするが、そこはスネークの気持ちの問題だ。……あんなバケモノを目にしながら、同じホテルに泊まるのは嫌だ。
時間は、午前一時を少し過ぎた頃。先ほどの騒動とはまるで関係なく、静かに時間が過ぎていく。急に疲れを感じ始めた身体を何とか自宅へと運び、神楽はいつものように一日を終えた。
長い一日だった。ドクターのメールに起こされ、恵と会い、同じような異形のバケモノと二度も遭遇し、男の死を目にした。……他にもいろいろとあったが、神楽が思いつくような結論は一つだった。あの虚ろな男たちがつぶやいていたことも、大いにヒントになった。
……『陰界』の氾濫。神楽の言う『陰界』とは、『この世ならざる者』が住まう世界のことだ。世間では一般に『死後の世界』などとも呼ばれているようだが。人々の思いや感情などを基盤として生まれ出ずる、本来ならば形を持たないものが存在する場所。この世に生を受けた者はどんな者でも何らかのかたちでかかわっている世界ではあるのだが、誰もその存在を知らない。
その世界では、数年、あるいは数十年・数百年に一度という極めて不規則な周期で氾濫が起こる。人びとの思いや感情が溢れてしまうのだ。この世のさまざまな影響を受け、存在が大きくなったり小さくなったりする、不規則な世界に存在するものが、その世界には多すぎるほどに成長し、この世に影響を与える。それは、この世界の不安定さを意味している。経済的には景気の低迷から戦争、あるいは個人の悩みの深さなど、ありとあらゆる『負』の感情が大きくなったときにそれは起こる。原因を追究すればきりがないし、究明できたとしても、対処すべき方法は見つからないだろう。だからこそ、神楽のような人間が生きていけるのだ。むしろ、神楽のような存在がなければ、今頃この世界はどうなっているか……。
恵と逢う以前の神楽は、実は神楽自身ほとんど覚えていない。自分の名前すらもうろ覚えであったし、両親というものの存在すらなかった。というか、覚えていない。
ひたすらアンダーグラウンドから出ないように生活範囲を狭め、アンダーグラウンドを彷徨い歩くうちに、戦闘手段というものを覚え、自分自身に存在する特別な力に目覚めていった。そんな日常生活の中、傷を負ってたどり着いた先が、リトルムーンだったのだ。そこの店主・栗山が彼女を見つけ、これまでの世話を焼いてきたといってもいい。実際、神楽に名を与えたのはその栗山なのだ。神楽にとっては、栗山が育ての親であるといっても過言ではない。
リトルムーンの店主というのは、彼の現在の仕事だ。アンダーグラウンドで暗躍していた頃の彼を知る者はほとんどいない。今ではしがないバーのオーナーであるが、その裏ではかなりの情報が流通している。だから、栗山が一線を退いても、神楽のように情報を集めにやってくる賞金稼ぎたちの数も少なくない。……あの人の良さそうな栗山の現役時代を知るものは、もうほとんどが引退し、平和な暮らしを送っているというのだが、栗山本人はあまり語らないので、その真相は不明である。
神楽が目を覚まし、確認した時間は午前八時。睡眠時間は十分に確保したつもりであったが、まだ眠い。かといって二度寝をすると神楽の場合、次に覚醒するのは十二時を回るので眠るわけにはいかなかった。
「あー……面倒臭え……」
ベッドから抜け出すまで三十分はかかっただろうか。半分以上眠ったまま活動を開始する。
今日の待ち合わせ時間は十時半。スネークと会うのならば夜まで待っても良かったのだが、やはり夜になると陰界の力が増す。つまり、あの異形のバケモノが出現する確立が高くなるのだ。昨夜のように邪魔はされたくない。
「おはよ」
ぼそりとつぶやく先にいたのは、黒く小さな獣。音を立てずにソファからリビングの床へと降り立った黒猫に向かって、覇気なく挨拶する。
黒猫は、挨拶代わりに神楽の足元に擦り寄ってくる。
「俺が寝てる間に変わったことは?」
『…………』
「……そっか、ご苦労さん」
何の疑問も抱かずに、黒猫と会話する。黒猫が何と言ったのかは不明だが、どうやら特に変わったことはなかったらしい。
神楽は、冷蔵庫からミルクを取り出すと、皿にあけた。
「牙」
『にゃう……』
素っ気なく呼ばれた黒猫が、ちらりと神楽を見上げて応える。黄金色の澄んだ瞳が疑問符を浮かべている。
「今日もちょっと出かけてくるから……気をつけてな」
『…………』
牙が何か話している。
この猫は、神楽に最も近しい存在のひとつだ。神楽は知らなかったが、神楽とこの猫は同じ場所で生まれた。同じ血が流れている。
牙の話を聞いているうちに、神楽の意識は完全に覚醒していた。昨夜神楽があの異形のバケモノと遭遇していた時間、牙も異常な気配を察していたらしい。神楽を心配するように見上げていたが、牙の意識はやがて朝食へと移動した。神楽も、時間を気にしながら軽い朝食をとった。
スネークとの約束の時間が迫っている。
昨日の騒動があったおかげで、いつもとは違う格好だ。だが似たような黒いコートで、神楽はエレベーターのボタンを押した。
眼鏡が壊れていたのを今朝思い出したが、生憎とスペアの眼鏡も壊れている。いい加減修理に出したいのだが、つい忘れていた。だから仕方なく、部屋にあったサングラスをかけたのだが……妙に似合っている。色が違えば、どこかの映画の主人公のようだ。
「よお」
「うぃっす」
お互いにやる気のない挨拶を交わす。
場所は、神楽がよく通っているファミりーレストランだ。ただ神楽が来るのはたいてい夜中、深夜なので、神楽にとってはあまり落ち着く雰囲気ではない。しかも神楽の格好も、午前中のファミレスにはおよそ似つかわしくない。
一方スネークはというと、相変わらず悪徳金融の取り立て屋のようだ。昨夜とは若干違うが、派手なシャツに派手なネクタイのスーツ姿。やはり帽子をかぶっていたが、あまり似合っていない。
午前中のファミレスには縁のないような二人が、合流した。
「で? 俺から買いたい情報ってのは?」
メニューをオーダーしてから切り出したのは、スネークの方だ。彼は朝食をとっていないらしく、オムライスのセットを注文していた。昼前からよく食えるな……と、思いながらも、神楽は口にはしなかった。代わりに煙草に火をつける。
「今この街に集まってきている連中について関連する事柄」
まるで書いてあるものを読んでいるように、神楽。得たい情報は多いが、相手は商売で情報を売っている。軽々しく口にできることではない。取り敢えず、最も基本的な情報を得たい。
「うーん……最近物騒だもんねえ……」
一応悩むふりをし、興味のなさを装っているが、スネークの目の色が変わったのがわかる。間違いなく、彼は何らかの情報を得ているはずだ。
「そう……物騒なんだよ。昨夜のあのバケモノも見ただろ」
「見て見ぬフリは得意なんだけどなあ……」
スネークは、どうやら情報提供をしぶっているようだ。当然といえば当然かもしれない。昨夜のあの騒ぎの中、見たこともないバケモノを目撃し、共に戦ったのだ。今更関係ないとは言えないが、本音を言うとかかわりたくない、そう思うのが常識だろう。
情報を提供すれば、自分もそれに責任を負わなければならない。それが情報屋のプライドというものだ。
しばらく、沈黙が空間を支配した。神楽の注文したコーヒーが運ばれ、スネークが注文したオムライスが運ばれてくるまで、二人は言葉を交わすことはなかった。
スネークは、情報提供をするべきか否か迷っている。神楽は、期待はあるものの、情報を得られなかった場合、どう対応していくか考えていた。時間はかかるだろうが、情報を得られないことはないだろう。
「……勝算は?」
「さあね……。あんたが協力してくれるなら、多少結果は変わるだろうけど」
「その答え方はずるいなあ……」
スネークは本気で頭を抱えているようだ。神楽の言っていることは半分は冗談だが、半分は本気である。スネークの参戦によっては、戦況が大きく左右される。それは本当のことだ。だが、相手が何者なのか特定できない以上、神楽にも結果は分からない。『陰界』が絡んでいることは確かなのだが、それもピンからキリまでさまざまだ。
時はすでに戦うことを余儀なくされている状況にある。
「で、どうすんの? 提供してくれるの?」
またしばらく続いた沈黙を破って、神楽がスネークの応えを促す。
「んー……。報酬は?」
オムライスを一口、大きく頬張りながら、決心がついたのだろう。ここでの商談を成立させれば、間違いなく神楽が抱えている事件に巻き込まれる。
「俺の安全を第一に考えくれるってんなら、格安にしとくよ」
半ば諦めてもいるのか。どっちにしろ、味方が増えたようだ。
「できる限りの努力はさせてもらうよ。あんたに死なれちゃ困るからな」
「うわぁ……縁起悪っ」
本気で呻いて頭を抱えながらも、オムライスを食べる手を止めない。かなり器用だ……神楽は感心する。
「で? その内容は?」
声に出すことなく報酬金額を互いに決定してから、神楽が促す。スネークにとっては若干不満な金額だったようだが、あとは提供された情報次第、そして事がすべて終わってから、ということで合意した。
「そんな期待してもらっても大した情報じゃないよ?」
「今更かよ……」
いきなり謙遜気味なスネークに半ば呆れる。もっとも、それほど大きな期待はしていなかったのだが……。自分で一から調べるよりは早いだろう。神楽は先を促した。
最近、見知らぬ連中がこの街に入っている。リトルムーンを含めて、アンダーグラウンドに通じる店には、そういう輩が増えているらしい。そして彼らには、共通する部分がある。直接本人たちに目的を聞いても、うわ言のように何やらぶつぶつとつぶやいている、ということだ。
「……ああ、その辺については俺も確認済みだよ」
つい昨晩のことだ。リトルムーンであった出来事を思い出しながら、今度は神楽が情報を提供する。
男たちが唱えるように繰り返していた言葉もすべて、自分が見たこと、聞いたことを話した。二人が出くわしたあのバケモノも、恐らくその男たちを支配していた存在だろうと考えていることも。
この突飛な話題を、スネークは黙って聞いていた。神楽がこのような話をすると、大抵の者は『馬鹿げている』とほとんど耳を貸さないのだが(特にドクターは)、スネークは真摯に受け止めているようだ。
神楽にとっては意外だった。てっきり、途中で笑い出すか、話を中断させるかするだろうと思っていたのだ。しかし、昨夜のことを思い出すと、そこまで意外ではないのかもしれない。スネークの持っていた武器(?)を思うと、スネークもこんなオカルトじみた話が相当好きなのではなかろうか……。
「意外だった? 俺ってば霊感強いみたいだしさ、たまに見えたりするんだよね。そんで試しに本で読んだ『札』とか作ってみたわけよ」
神楽の表情を呼んだのか、考えていたことを突然肯定されて驚く神楽。
「で……その『札』が今回は役に立ったんだよな」
「それが効いたってことは、やっぱり亡霊とか悪霊とか、そういう類の連中なのか?」
スネークが問う。本物を目の当たりにしていたが、正体は神楽にも分からない。亡霊とも悪霊とも言えるが、それは人間個人から生まれるもの、という考えが一般的なものだ。あれ程の異形に姿を変えることができるということは、実体化する力も加えて非常に大きなエネルギーの塊のよう、とも言える。
そんなバケモノをいとも簡単に消滅させるほどの力を持つ『札』を自分で作ってしまうあたり、かなりのオカルトマニアなのか。それとも彼の隠された能力なのか。
「何か念じたりとか……特別なことやったりしたか?」
「ん? 『札』には特に……あ。」
「あ?」
「い、いや……製作工程にちょっと」
「ちょっと何だよ?」
「……霊験あらたかな神社から拝借した御神木の実をすりつぶしたのを、文字に使った……かな」
「ふーん……神聖な木か……」
この辺りで、霊験あらたかな神社といえば、ひとつしかない。ただし、バケモノたちの格好の根城になっているだろう。何故ならば、そこは人っ子ひとりいない、廃墟と化しているからだ。
「よくんな所見つけたな」
半ば呆れながら、神楽が別の煙草に火をつける。
「まあ、とにかく……」
今度は神楽が話し始めた。
ここらに集まってきている連中は、その意識はほとんど機能していない。昨夜神楽たちを襲ってきたのも、おっさんたちに憑依していたものと考えれば……、ここ最近増えてきている見知らぬ男たちってのは、ヤツらの依り代に過ぎないのだろう。
「でも、その本命はまだ分かんねーんだよな……」
「そこが問題だねえ」
二人して投げやり気味に、話題が終了の兆しを見せる。
お読みいただきありがとうございました。
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