5.
わざと声に出して、神楽は気持ちを落ち着ける。
ビルの陰、異形のバケモノからは死角になる場所に身を潜め、神楽は着ていた黒いコートの内ポケットを探る。硬いものが触れる。
「ずいぶんとお早い出番だったな」
ついこの間、というか今日の夜明け前に、武器商人のスモーカーから買った銃だ。音を立てないように取り出し、充填されていた銃弾を、すべて取り出す。
神楽は静かに構え、目を閉じて意識を銃身に集中させる。銃を握った掌が熱を帯びてくる。ぴりぴりとした風が、神楽の周囲に集い、流れる。……もし誰かがその姿を見ることができたならば、神楽が霆をまとったように見えるだろう。
閉じていた瞳を静かに開く。瞳の赤い色が輝きを増し、瞳孔が縦に伸びる。
神楽の気配を感じたのか、異形のモノは音にならない音を発し、神楽が身を潜めているビルの陰に、その頭の方向を定める。
神楽が物陰から歩み出る。左手に銃を携え、神楽がまっすぐに異形のモノと対峙する。
瞬間、風を切り、音を立てずに異形のモノが迫り来る!
「せっかく実体化してくれたのに、悪ぃな」
異形のモノの巨大な目玉にしっかりと狙いを定め、引き金に指をかける。
ゴバアッ!
「!」
引き金を引くその瞬間、異形の目玉が裂けた! 銃弾が当たったダメージではなく、自らその目玉を縦に割り、中から無数の触手が神楽に向かって攻撃してくる! 巨大な口を開いたような異形。粘膜の糸を引き、神楽のいる空間に向かってその触手を伸ばす。
「ちっ」
舌打ちと同時に強く地を蹴り、後ろのビルの壁を蹴って、異形のモノの上空へ舞い上がる。……人間の成せる業ではない。神楽のまとう黒いコートが風になびいて、まるで黒い翼をもった獣のように、赤い瞳で相手を見据えながら、もう一度、空中で銃を構える。
(行け!)
強く意識を集中し、一気に解き放つ!
大きく膨れ上がった青白い弾丸は、神楽の手と銃口を離れ、白い痕跡を残して異形のモノの胴体に突き刺さった。重く鈍い音が耳に届くのを空中で感じながら、すとんっ、と軽い音を立てて神楽が着地する。
刹那。
「しまっ……!」
ガゴオオンッ
振り回した異形の尾が、神楽を強打した。とっさに両の腕で庇いはしたものの、体ごと弾き飛ばされ廃ビルの壁に激突する!
脆くなっていた廃ビルの壁は崩れ落ち、舞い上がった粉塵が神楽の姿を覆い隠す。
未だ崩れ落ちる破片が音を立てている中で、神楽はゆっくりと立ち上がった。胴体に深い傷を負った異形のモノは、苦しいのか、制御の利かなくなった巨大な玩具のようにのたうっている。
静かに、再び作り出した青い銃弾を、二つに割れた目玉の付け根に、目玉と胴体とを切り離すように、打ち込んだ。……今度は確実に、息の根を止める。
胴体と二つに割れた目玉は、互いとの接点を打ち砕かれ、それぞれに地に沈む。そして、その輪郭はしだいに不鮮明になり、黒いわだかまりとなり、風に流され、消えた。気配すら残さず、完全な無と化す。それが存在した証は何一つ残さず、春の風がビルの隙間をぬって走り去る。
残った痕跡は、神楽が衝突し瓦礫となった廃ビルだけだ。
静寂が訪れた。静寂の中に、息ひとつ乱さず神楽が佇んでいる。
「あーあ」
気の抜けたような声で、神楽がぼやく。
「また眼鏡割っちまったよ……」
所定の位置から外れ、グラスコードに情けなくぶら下がった、縁なしの眼鏡の左のレンズ。見事にヒビが入っている。……あれだけの衝撃を受けてヒビで済んだのだから、ある意味奇跡であろう。
黒いコートには白っぽい埃がまとわりつき、地の色がほとんど分からなくなってしまっている。おまけに砕けた壁の破片でところどころに穴が開いている。
「ついでに痛えし……」
痛いのはついでらしい。異形の尾をまともに喰らった時、直接尾に当たった右腕が見事に切れている。コートの袖も血に染まり、指先からは血が滴り落ち、それが、乾いた地面に赤黒い染みをつくっている。
中途半端に切れたコートの袖を引きちぎり、傷口に押し当てて強く圧迫し、一応止血を試みたが、どうやら相当深く傷ついてしまっているらしい。止まりそうもない。
「ヤバいかな……」
じわじわと湧き上がってくる痛みをこらえ、強く圧迫したまま歩き出す。神楽の足跡に、赤く流れ出るものが点々と染みをつくっていく。
後日、破壊されたビルが警察の目につくことになるが、『老朽化した壁が誰かの悪戯で破壊された』などというありきたりな説明で片付けられた。
そんな単純な説明で済まされたこの騒動であったのだが、これから起ころうとしている『何か』に気づいているものは、現時点では存在していなかった。唯一、事の中心になるであろう神楽を除いては。
「まったく……一体誰とケンカしたんだ? 神楽」
溜め息をついて呆れながらも怪我の治療をしているのは、あの不健康な診療所のドクターである。
「仕方ねーだろ、向こうから仕掛けてきたんだからよ」
こちらも、溜め息をつきながら右腕を差し出している。
あの後、神楽は負傷した右腕を抱えて人目を避け、ようやくのことでここにたどり着いたのだが、それを迎えたのは優しい天使のような看護婦さんではなく、驚きと怒りを三対二くらいに混じり合わせた複雑な表情をした初老の男性、つまりドクターであった。
「まったくよ、神楽ちゃん。どういうケンカしてたのよ?」
ドクターに消毒液やらガーゼやらを手渡しながら言ってきたのは、ここの看護婦である。ドクターと同じように国家資格をもっていないので、モグリであるが、補助をするその手つきは慣れたものである。
「コートはヨレヨレだし埃で白くなってるし、おまけにすごい出血だったし」
「冨士子さんまでお説教かよ……あの怪我で十五分も歩いて来たんだからさぁ、ちょっとくらい褒めてくれてもいいんじゃない?」
相当な出血だったのだろう、かなりげっそりとした顔で、神楽が抗議の声を上げる。半分は説教に対する『げっそり』なのかもしれないが。
ここにたどり着くなり、ドクターと冨士子のお説教だ。それでも治療してくれているのだから、文句ばかり言うわけにはいかないが、さすがにうんざりしているようだ。
「ホイ、終わったぞ」
ぽんっ、と、包帯を巻いたばかりの右腕をたたく。
「いででででっ……てめえ本トに医者かよ……? ちったあ怪我人をいたわれってんだ」
たたかれた右腕をさすりつつ、神楽が半眼になって睨みながら文句を言う。気のせいか、若干涙目になっている。
「文句を言う前に少し自分の体を大事にしたらどうだ?」
下がりかけた眼鏡を直そうともせず、テーブルの所定の位置に椅子を戻し座り直す。神楽もテーブルに向かって座り直すと、タイミング良く、冨士子のコーヒーが目の前に置かれた。
「頂きます……」
眼鏡を外そうと左手を顔までもっていったが、いつもあるはずの眼鏡がない。……そういえば、先刻の一騒動でヒビが入ってしまったので、外して鞄に入れてあるんだった……。やり場のない左手はそのままコーヒーカップへと移動する。
香ばしいコーヒーの匂いが嗅覚を刺激する。
しばしの沈黙が訪れた。コーヒーをすする音だけが、やたらと室内に響く。
「ワシらにも、言えんのか?」
沈黙を破って言葉を紡いだのはドクターだった。神楽が言葉を返すまで、またしばらく、音のない時間があった。
「またアレか」
神楽の言葉より早く、ドクターが再び質問する。今度は、答えを期待しているものではなく、確認するような言い方で。
「……ああ」
それ以上、ドクターからは何も話さなかった。
「ドック」
今度は神楽が問う。
「あの男、目覚ましたか?」
数日前に運び込まれ、以来眠り続けている男のことだ。神楽は、その男を見たときからずっと気になっていたのだ。その男が纏う、異質な『何か』。
「それがな……」
「どうした?」
「あなたが来る少し前に、死んだわ」
答えたのは冨士子だった。ドクターと目を合わせ、確認するように頷いてから、三十分ほど前の出来事を、冨士子が話し始めた。
様子を見に、冨士子とドクターがベッドサイドに行ったとき、これまで眠り続けていたはずの男が、目を見開き、体を強張らせていたのだ。不規則な呼吸、呻き声……どこを診てもどう対処していいのか、対処法が分からないうちに、急に痙攣を起こし、そのまま完全に停止した。苦悶に歪んだ表情のまま、心肺機能はその役割を放棄し、意識を回復することもないまま、その男は逝った。異常ともいえる、その不可解な謎を残したままで。
「三十分くらい前……だって?」
「ええ、詳しく言うなら、あなたがここへ来る十五分ほど前よ」
これは偶然だろうか。その時間、神楽の記憶では、あの異形のバケモノが消滅した時間だったはず。
もはや無関係とはいえない……、神楽は確信した。
「その男……今どこ?」
静かに、コーヒーカップを戻しながら、神楽が問う。その男、正確に言えば、その男の死体。
「お前さんが見たがると思ってな……安置してあるよ。地下だ」
ドクターが答える。外見は三階建ての古い病院だが、地下室があるらしい。本来ならば、この病院では、患者が死んでもここでは安置することはない。しかし例外は、どのような場合にもあるものだ。死因が明らかに不可解な場合、解剖することだってあるのだ。ただ、ここの場合、法的に認められてはいない。単なるドクターの趣味……いや探究心というのが理由の大半を占めている。
今回はそれが役に立った。ドクターから連絡を受けてその男を見て以来、神楽のなかに生まれた疑問、疑惑。はっきりと口に出して言わなかったものの、神楽の抱いていた不信感はドクターにも伝わっていた。そしてそれは、過去の経験から見て、これから何か――尋常な考えでは想像も及ばないような何か――が起こるという前兆でもあった。
ひんやりとした病院の地下室。もう何年も放置されていたような蛍光灯が、おぼろげに廊下と室内を照らしている。壁や天井がコンクリートのままなのが、余計にひんやりとした印象を与えている。
そんな地下の廊下を、靴音を響かせながら進んでいく。いくつか扉があるなかの一つに、ドクターが手をかける。ドクターに続いて部屋に入ると、さらにひんやりとした空気が、無機質な室内に充満していた。
中央にあるベッドに、白い布で覆われた男の死体があった。
「異常だよな」
その男を見下ろしながら、神楽が呻くようにつぶやく。その声が、硬質な波を伴って室内に響く。
「まったくだよ……。死後硬直も手伝っていると思うが、まったく不気味だよ」
呆然と、ドクターも『まったく』を繰り返している。
苦悶の残る表情、強張った四肢……そこだけ時間が完全に止まったように、その男は横たわっていた。
身体に外傷はみられないようだが……。
「あれ……?」
ふと、男の身体を観察していた神楽が、何かに気がついたようだ。
「どうした」
ドクターも興味をもったのか、同じように男の瞳を覗き込んだ。大きく見開かれたまま、光を失っている両の目の瞳。瞳孔が縦に伸びている。まるで爬虫類のそれのように、やや黄色く濁った眼球に、縦に長く、停止していた。
人間のものではない。
「何だ……人間じゃないのか……」
呆然とした表情のまま、ドクターが驚いたような、戸惑ったような声で呻く。確かに、こんなものを見て冷静でいられるような人間は、まずいないだろう。いつも非日常的な状況を見てきたドクターにとっても、これは例外ではなかった。何せ普段相手にしているのは、紛れもなく人間である。どこにどんな怪我をしていようと、人間には変わりないのだから。それが、死んではじめて目を開いた患者が、人間ではないかもしれないのだ。突然の事実に茫然自失となっても無理はない。
「さてさて、何が起こるんだ?」
が、さすがはドクターである。茫然自失の状況からあっさり立ち直ると、やや軽い調子で神楽を見つめ、ニヤリとしながら聞いてきたのだ。
「まだ役者が出揃ってないんだけどね」
ドクターの問いにこちらも軽く答えると、どこからか煙草を取り出し、火をつける。
「ここは禁煙だ」
横目で神楽を見ながら、もっともらしいことを言う。確かに、ここには灰皿はない。神楽はまたどこからか、今度は携帯灰皿を取り出し、ちらつかせながら、さらに男の死体を観察している。
(『臭い』が消えた……)
この男が死んだのは、神楽があの異形のバケモノを消滅させたのとほぼ同時。この男がどこの誰かは分からずじまいだったが、これから起こる出来事と無関係でないのは確かだ。
神楽のなかでは、ひとつの考えがある程度具体化していた。……あの異形のバケモノが、何らかの形で男の意識を介し具現化した。それが、バケモノの方の存在を完全に否定することで、媒介となっていた男を死に追いやった、というのだ。
だがこんな仮説をドクターに話したところで、今度は神楽の正気を疑われるだろう。ドクターも神楽の特殊な力を完全に否定しているわけではないにしろ、理解しているわけでもない。こんなオカルトな話には、ほとんど興味をもっていないのか、あるいは怖がっているのか、このテの話には耳を傾けないのである。が、既存事実がある以上、不本意ではあるが神楽の話を認めてはいるようだ。
「何か分かったのか?」
「言ったってドックが聞かないような話だよ」
くわえ煙草で素っ気なく答える。興味はあるようだが、恐らく話したところで理解されないだろうし、思いっ切り馬鹿にされかねない。そんなのは嫌だ。よっぽど聞きたいようなときになるまで話さないでおこう、と、神楽は決めていた。もちろん、まだ正しい答えがでていないのだから、話したところで無駄であろう。二度手間になるのも面倒だ。
「この部屋、さすがに寒いな」
「まあ、生きた人間はそうそう使わないからな」
若干白く見えそうな吐息まじりで、二人して両の腕をさすりながら、冨士子さんが新たに入れてくれているであろうコーヒーを期待しつつ、冷えびえとした部屋を出た。
ふと、神楽が足を止めた。
「どうした?」
「ん……いや」
言葉を濁し、くわえていた煙草を携帯灰皿に押し込んで、再びドクターの後ろについて歩き出した神楽の頭の中に、嫌な予感……確信に近い予感がじわじわと形をつくっていた。
ドクターと神楽が、冨士子の待つ部屋に戻ってくる頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。それほど長い時間いたわけではないような気がするが、あの男にはもう二度と感じることのない時の流れを感じていると思うと、何故かほっとする二人であった。
「で、何か分かったの?」
熱いコーヒーを入れ直しながら、富士子が問う。
「んん、微妙だよ。もう死んでるから話も聞けないしね」
香ばしいコーヒーの匂いにやや目を細めながら、神楽。右腕が少し痛む。
「そう。ところで神楽ちゃん」
「何?」
「今日って、誰かと約束があったんじゃないの? 大丈夫なの?」
ドクターから聞いたのであろうか、少し心配そうに尋ねる。神楽の交友関係などに細かく突っ込んで問いただしてくるわけではないが、ちょっとしたことをさらりと聞いてくれる、そういう気配りができる女性なのだ、冨士子という人は。
確かに今日の昼過ぎ、恵との約束があったことは事実。その恵を一人喫茶店に残し、あのバケモノと一戦交え、まっすぐにこの病院まで来てから、一度も連絡をとっていない。
恵のことだ、心配しているだろう。かといって、向こうから連絡してくることはほとんどない。神楽の仕事のことは知らないが、何か事情があって説明できないでいるのだろうと、恵は理解しているのだ。だから、恵の方から連絡を取ることが神楽の迷惑になり得ることを、何となく感じているらしい。
神楽も、恵に隠し事をしているようで、引け目を感じているのは確かだ。しかし、自分の仕事のことを無関係な人間に話してしまうわけにはいかない。秘密の漏洩とかそういう問題以前のことで、日の当たる場所に住んでいる人たちを、この闇に引きずり込みたくない。必然的に、自分の仕事の話題を避けてしまう。
「そうだった……サ店で別れたまんまだったよ」
神楽は、目線を冨士子から自分の携帯電話に移すと、メモリーから恵の番号を探しながら、席を立った。そのまま器用に椅子やテーブルを避け、病院の外に出た。ドクターはというと、いつもの自分の席に陣取り、眼鏡を湯気で曇らせながらコーヒーをすすっている。
数回のコールの後、可愛らしい声が聞こえてきた。少し心配そうな響きも含んでいるようだ。
『神楽なの? 大丈夫?』
液晶画面にはメモリーされた神楽の名前が出ていただろうに、本人かどうかを確認するような慌てた様子だ。
「うん、ごめんな。大丈夫だよ。……うん、理由はちょっと……今は言えないけど」
やや興奮気味の恵をなだめるように、優しく話す。突然いなくなった神楽のことを、本気で心配してくれていたようだ。
「ん……ごめんな、それじゃまた今度な」
言って通話ボタンを切る。
知らず、溜め息が漏れる。少しの間忘れていた右腕の痛みが、不意に思い出される。携帯電話をポケットにしまい込み、何気なく右腕に触れてみる。
神楽は、自分がドクターに言った言葉を思い出した。……役者はまだ出揃っていない。本当にそうだろうか。すでに準備万端、舞台裏に集合している役者たちに気づいていないだけなのではないだろうか。神楽の脳裏にわずかに、焦りの色がよぎった。
(ここで考えたってラチが明かないよな)
冷気を帯びた夜の空気を体中に取り込むように、大きな深呼吸をすると、再び神楽は病院へと戻った。
お読みいただきありがとうございました。
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