4.
前回間違って同じ話を載せてしまいました。
改めて、ep4です。
休日の午後、うんざりしながらも約束の時間の少し前に、約束の場所へとたどり着いた。
まだ相手は来ていないようだ。少し辺りを目だけで探し、人ごみをすり抜けて、ショッピングビルの壁に背中をあずける。
奇妙な気配は消えることなく無数に辺りを漂っている。人々は気づくことなく、その気配の中を歩いていく。姿の見えない、気配すら感じないものは、人々の体すらも通り抜けてしまう。
神楽はそういったものが見えるおかげで、奇妙な物体と接することができてしまう。今のように気配として感じているときはぶつかることもないのだが、自然と、触れないように若干蛇行しているように歩いてしまう癖がある。誰かと一緒にいるときは非常に不自然ではあるが、いくら気配しか感じないとはいえ、そういうモノが体の中を通り過ぎるという現象は、やはり気持ちのいいものではない。
ぼんやりと神楽は考えていた。これらの物体が何を意味しているのか。これから一体何が起ころうというのか。
嫌な予感が胸中を占拠していく……。
「かーぐらーっ」
少し高めのかわいらしい声が、神楽の思考を中断させた。
交差点の向こうから小走りに駆け寄ってきたのは、ゆるくウエーブのかかった、栗色の髪をした女性である。年齢は神楽と同じくらいであろうか。春らしい、ふわふわとした印象のある服装で、なかなかの美人である。ただ、その大きな瞳と仕草で、若干年齢よりは若い、というか幼い印象がある。
「ごめんね、待った?」
「いんや、大丈夫」
ほんの少し神楽を見上げるようにしながら、その女性が申し訳なさそうに神楽に謝る。神楽の方はというと、沈みかけていた思考の波間から急に呼び出されたもので、まだ少しぼんやりしているようだ。
「珍しいな、恵が時間に遅れるなんて」
交差点から見える電光掲示板の時刻を見ながら、神楽。
この女性の名前は、今城恵。裏社会とはまったく関係のない明るい世界で、普通に学生生活を送っている。以前神楽がふらっと立ち寄った居酒屋でアルバイトをしていて、彼女の方から声をかけてきたのだ。神楽のことを男だと思っていたらしい。見かけによらず大胆である。神楽が女であることを知っても、恵の態度に変わりはなかった。むしろより一層、神楽と親しくなったのだ。
「駅の裏で何か事故があったらしいの。それでちょっと野次馬に行く手を阻まれたのよ」
何か思い出したのか少しむっとしたような顔で、恵が答える。
「事故?」
「うん、何だかよく分からなかったけど、急に何人も男の人が倒れたとかなんとか言ってたのを聞いたよ?」
「何なんだろうな……」
考え込むように、神楽が誰にともなくつぶやく。不思議そうな顔をして、神楽を見ていた恵だったが、沈黙は訪れなかった。
「それより、四丁目のところに新しい喫茶店ができたのよ、そこ行こうよ」
言って神楽の腕を掴んで歩き出す。
先ほどから感じている、あの妙な気配の中を通り抜けながら、二人は他愛もない会話を交わしつつ、恵のいう新しい喫茶店へと向かった。
恵も、そのほかの通行人と同じく、妙な気配を感じることも、ましてや見ることなどできない。無邪気な笑顔で神楽と話している恵を見ているうちに、今までの妙な感覚は、頭の奥底に姿を潜めたようである。
カランカラン……
ドアの装飾品が静かな音を立てて開く。ほぼ同時に店員の落ち着いた声が迎えてくれた。
店の奥まった場所に案内され、落ち着いてから店内を見渡し、恵が神楽に向かって話しかける。
「結構いい雰囲気だね。メニューも多いし……どれにしよっかな」
神楽も一緒にメニューを覗き込む。確かに、メニュー数は多い。これは決めるのに時間がかかりそうだ。神楽ではなく、恵が。
しばらくメニューとにらめっこしたあと、神楽はコーヒーを、恵はフルーツワッフルと紅茶を注文し、神楽は煙草を取り出して火をつける。
「神楽」
「何?」
「煙草の数、増えたんじゃない?」
「そうか?」
「何かあったの?」
自覚のない答えに、恵は少し心配そうな顔をしながら、深刻そうに問う。神楽は一瞬面食らったが、すぐに穏やかな表情で答えた。
「別に、何もないよ。ちょっと考えごとが多くてね」
「そうなの? ならいいけど……考えごとしてるときに煙草吸うのは癖だもんね」
「そういう恵は? 最近どうなの」
恵に話をふって、バイトの話やら最近気になるブランドの話やら、何気ない会話が続く。普通の女の子同士の話ではありえないリズムでの会話。一応神楽の性別も女なのだが、恵と一緒にいると(いや、いなくても)、男にしか見えない。おまけにあの話し方と一人称。
昔から、神楽は自分のことを『俺』と呼ぶのが癖である。
神楽のような生き方をしていると、女らしくなどはなれないし、ならない方が何かと便利なのである。誰かと契約しようとしても、『女』であるだけで信用を得られない場合もある。
表面上いくら男女差別を撤廃したとしても、長い歴史の中で築かれてきたその風習とも呼べるようなものは、この国の人間の遺伝子に組み込まれてでもいるのか、なかなか消せるものではない。殊に体を張った仕事においては、体力の面から見ても、やはり男性のほうが優位であるし、その事実は変えられるものではない。性別を偽ることなど、性転換手術でもしない限りは隠し通すのにも無理がある。しかし実際にはやはり人間、見た目に騙されることも多い。神楽の場合もそうである。
神楽の場合は、かなりの美人ではあるが、一目で女と分かる外見ではない。身長が高いことも手伝って、男性に見られることが多いのだ。
以前にも何度か、恵と一緒にいてちょっとしたトラブルを引き起こしたことがある。
恵の彼氏に、恵が浮気をしていると思い込まれ、別れる別れないの大騒ぎになったのだ。神楽も強く否定したり、誤解を解くような努力をしなかったのだが、それが、余計に恵の彼氏に刺激を与える結果となったのだ。
「あははは、そういえばそんなことあったよね」
ワッフルを切り分ける手を止めないまま、恵が笑い飛ばす。あの時は必死になって誤解を解こうと奮闘していて、とても笑える状況ではなかったはずだが、そんなことはきれいさっぱり忘れているようだ。
「で、ケースケさんとはうまくいってんの?」
ケースケさんというのが、その彼である。神楽や恵より五つか六つ年上なので、一応『さん』付けで呼んでいるのだ。確か美容師だったはずだが。
「うん、喧嘩はしょっちゅうだけどね。たださ」
「どした?」
「ケースケって平日休みでしょ? あたしは平日学校だしさ、あんまり会えないんだよね」
「夜とかは? ……って、恵がバイトあるのか」
コーヒーを口に運びながら、神楽。溜め息をつきながら、恵も紅茶に手を伸ばす。
「でもね、今週は祭日でしょ? だから一日中一緒にいれるの」
ついさっきの溜め息とはうって変わって嬉しそうに恵が言う。神楽は、こういうときの恵の表情が好きだ。本当に幸せそうに笑っている。いつも年上の、というかオヤジ連中を相手にしている神楽にとっては、いつまでたっても新鮮な印象を与えてくれる。
恵と一緒にいる自分が、あまりに不釣合いに思えて、思わず苦笑する。
「何?」
「いや、別に。良かったじゃん」
「うんっ」
幸せそうに微笑う恵に、笑顔で応えながら、ふと思いを巡らせる。……自分は何と暗い場所に棲んでいる生き物なのであろうか。こんな自分と、この明るい場所にいるべき人間が、一緒にいても許されるのか……?
彼女の明るい微笑みは、神楽に安らぎを与え、心に陽だまりをつくってくれると同時に、対照的な影をつくる。強く照らされればそれだけ、影は濃くなる。
神楽は、決して消えることのない闇を抱えていた。
生きるために、神楽が払ってきた犠牲。
光が影をつくることと同じで、神楽の心から闇が消えることはない。これまでも神楽は、ほとんど人と深くかかわることをしないように生きてきた。アンダーグラウンドから出ないように、明るい世界に住む人にかかわらぬように、自分の行動範囲を制限してきた。
いつから、光の中を歩けるようになったのだろう。恵と出会う前の神楽は、どこへ行ってしまったのだろうか……。
無邪気な笑顔で話しかけてくる恵と同じ空間で、同じ目線で過ごす同じ時間。神楽は、恵の話に頷きながら、安らぎと同時に、妙な違和感に支配されていた。
「……!」
不意に神楽が息を呑んだ。嫌な予感が一気に体の中を通り抜ける。コーヒーカップを傾けるその手を止めて、神楽は周囲に意識を集中させる。
「神楽?」
突然の神楽の真剣な瞳に驚いて、恵は話を中断する。
「……何か」
「?」
不思議そうな顔で、言葉にはせずに問いかける恵。……何かがいる。通りで彷徨っていたものとは異質な『何か』。
「悪い恵、ちょっと用事あったの思い出した」
「何だ、びっくりしたじゃない、急に真剣な顔になるんだもん。大事な用事だったの?」
周囲に意識を集中したまま、声の調子は変えないで、恵に言う。
このままでは恵を巻き込んでしまう。
何かが近づいてきている気配。はっきりとしないビジョン。どこに意識を集中させても『何か』が見えてこない。
神楽は心の中で舌打ちした。もっと早くに気付けていたのではないか? 自分の中の答えのない問いに沈んでいる場合ではないのは分かっていた。
「悪いけど俺ちょっと行くわ」
言ってすぐさま伝票を掴んで出口へ向かう。
「あ、神楽」
恵が慌てて腰を浮かせる。ハンドバッグから何かを取ろうとしているが、慌てているせいか、なかなか目当てのものが見つからないらしい。
「いいよ、奢り」
肩越しに振り返って、伝票をちらつかせながら神楽が言う。
「でも」
「ごめんな、今度またゆっくり会おうよ」
恵の言葉をさえぎって、神楽は足早にレジカウンターに向かい会計を済ませると、店の外に出た。
気配は、徐々にその存在を誇張し始めている。
(何なんだよ……)
はっきりとしない気配に苛立ちを感じながら、できるだけ人通りの少ない方へと移動する。
場所が悪い。
神楽たちがいた店は、街のほぼ中心に位置していた。人通りの少ない場所を選んで歩みを速めるが、未だ人気のない場所は見つからない。平日ならば人がいないような場所でも、今日は休日だ。そう簡単に人のいない場所を見つけることはできない。
唯一救いといえば、その気配が神楽を追ってきているということ。気配もまだ完全な実体を持っていない。しかし、いつ実体化するか分からないモノをいつまでも背中に感じているわけにはいかなかった。この気配が攻撃の意志を持っていることを本能的に感じていたからだ。このテの存在は、いくら実体化しても普通の人には見ることはできない。しかし、それが物体に及ぼす影響は避けられないのだ。何かにぶつかれば、その音は普通の人間の耳にも届くし、それが破壊されれば、もちろん見える。しかもその原因となったモノは見えないから、より一層騒ぎを助長する。
(くそっ……)
いつの間にか神楽は、その気配に追われるように、街中を全力疾走していた。できるだけ、人のいない所に。それだけが頭の中にあった。
気配はもういつ実体化してもおかしくないほどに、存在を誇示している。
ショッピングビル街を抜け、オフィス街を抜ける。道行く人が不審そうな視線を神楽に向けるが、そんなことを気にしている余裕はなかった。そのまま脇目もふらずに、今や廃墟となっているビルの裏手に走りこんで、物陰に身を潜める。
軽く肩で呼吸をしながら、周囲を窺う。呼吸を整え、追ってきている気配に気づかれないように、静かに自分の気配を殺す。
周囲に人の姿はない。こんなところに、休日の昼間に足を運ぶ人間もいないだろう。
(来たか……)
彼女を追ってきていた気配は、神楽を捜すように動きを止め、わだかまっている。……実態化しつつあるようだ。
徐々に実体化したそれは、茶色と黒が混じり合ったような色。何かが腐っているような異常な臭気。この臭気も、普通の人間には感じることはできないだろう……『瘴気』だ。
細長い胴体に無数の触手。一方には巨大なハサミのような二本の鍵爪、もう一方には巨大な球体が一つ。濁った黄色の球体の中に、細長く動く黒い模様が入っているように見えるが、おそらくはこの巨大ムカデの目玉であろう。
巨大なムカデのような姿をした異形のバケモノは、一つしかないその濁った目で、しきりに何かを探して辺りを彷徨っている。全長およそ十メートル。
(何だよアレ……)
神楽の中では、その異形の姿に対する恐ろしさよりも、気持ちの悪さの方が勝っているようだ。
「さて、どうしたもんかね」
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