3.
「ったく……、なんだったんだよ……」
昼間でも薄暗く感じる狭い路地を歩きながら、神楽が半眼になって呻いている。
とりあえずドクターの用事、ドクターの代わりに入院患者の処置やら何やらをこなしてから、食事をとろうと病院を出たのである。
今日約束しているのは一時半、街の中心になっている大きな交差点にある、一番目立っているショッピングビルの前である。約束の時間までにはまだ間があるし、朝、ドクターのメールに起こされてから、食事らしい食事をとっていない。ドクターの病院で食べることもできたのだが、今日は冨士子さんがいないのだ。ドクターの作る食事はお世辞にも美味いとはいえないし、かといって自分で作るのも面倒臭い。となれば残った選択肢は一つ。外食しかない。そのつもりで通りを歩いているのだが、どうにも気になることがある。
一昨日ドクターの病院に担ぎ込まれたというあの男のことだ。見ない顔だった。それだけのことなのだが、だからこそ気になる。あの病院を利用するような人間は、だいたい神楽の知っている顔だ。担ぎ込んできた連中すら記憶にないというのも気になる。昨夜立ち寄ったあの店にいた見知らぬ連中の誰かだとすれば、自分が知らないのも当然だが、それでも、あの病院のことを知っているとは思えないし、それに何より気になるのは、男が眠り続けている原因だ。
(あれは単に眠ってるだけじゃない……嫌な臭いがした)
神楽のいう臭いというのは、単に鼻や耳などの感覚器官で感じ取るものではない。勘が感じる臭いのことだ。神楽の勘はよく当たる。それも嫌なことに限っては外れたためしがないほどに。
(あれは絶対『あれ』の類なんだよな……)
嫌な予感を背中で感じつつ、その足は賑やかな通りにまでたどり着いていた。
角を曲がってすぐのところに、派手な看板のファーストフード店がある。
今はちょうど昼食時、休日の今日は特に利用する客が多い。若い恋人たちや数人の仲良しグループで賑わうその店に、今ひとつこの店には似合わない人影が見えた。見覚えのある後ろ姿。真っ直ぐにその人物の後ろに並ぶ。
「よお、カオリちゃん」
気軽に声をかける。しかしその名前に似合うな人物ではない。
「だからそれで呼ぶなっつってんだろ!」
神楽の声に半ば反射的に怒鳴りつつ、振り返る。周囲にいた客が何人か驚いてその人物に注目する。その視線に気づいて、気まずそうに向き直り、注文のための列に並び直した。
「何の用だ」
無愛想さを装って、低く、神楽に問う。渋くてなかなかにいい声をしている。四十歳前後の男である。
「何の用はないだろ、メシ食いに来たんだよ」
さらっと受け流して神楽が答える。ファーストフード店に来ているのだから当然であるが、彼の言葉が意味するのはもっと別なことだろう。それを知った上で茶化しているのである。
「いやそうじゃなくてだな……」
「ははっ、分かってるよ。ほら、おっさんの番だよ」
「あ、ああ……」
満面の営業スマイルで営業口調の店員に少し気圧されながら、その男はLサイズのセットを注文した。トレイを受け取り客席へと向かう。神楽もそのあとにメニューを注文して、その男の姿を探す。
彼は早くも窓際の二人用、喫煙席に陣取って、ハンバーガーにかじりついている。
「おっさん一人なのか?」
すでにそのテーブルに自分のトレイを置きながら、神楽が問う。
「お前なあ、おっさんじゃなくて、樋口さん、だろ」
口をもごもごさせながら、おっさんこと樋口薫が抗議の声を上げる。『かおる』ではなく『かおり』と読むので、昔はよく名前だけ見て女性だと思われていたらしい。今でも名前だけみれば女性に多く使われているのだが、外見は名前を見事に裏切っている。神楽には『カオリちゃん』か『おっさん』で親しまれている。
「だからいいじゃん、何て呼んだって」
コーラを一口飲んでから、神楽。再び抗議の声を上げようとした樋口の言葉をさえぎるように、神楽が少し身を乗り出す。
「ところでさ、最近妙な連中増えてるけど、何か知らない?」
わずかに声のトーンを落として、樋口に問いかける。
「うん? ああ、何かそんなこと言ってたのを聞いたような聞かなかったような……」
「しっかりしてくれよ、栗山のおっさんも物騒になってきた、なんて言ってたし」
突然出された名前に驚いたような表情で、ウーロン茶であろうドリンクを飲む手を止める。
「栗山のおっさんって、リトルムーンの店長か?」
リトルムーン。神楽がスモーカーと会っていた店のことだ。あの頼りない照明のことを思い出すと、ぴったりな名前ではないか。
「本当に何もないのかよ?」
「そんな重要なことだったら、俺だって覚えてるし、こんなとこでのんびり昼飯なんて食ってないさ」
「あんたはいつだって呑気じゃないか」
一瞬むっとした表情を作ったが、抗議する間もなく神楽が次の言葉を発した。
「ドクターんとこにさ、知らない顔の男が担ぎ込まれて来たんだよ。連れてきた連中のこともドクターは知らないって言ってたし……、気になることがあるんだよね」
言って神楽もハンバーガーにかじりつく。一度落とした視線を目の前の男に戻すと、男の顔もそれなりに真剣になっている。
「またバケモノ騒ぎを起こそうってんじゃないだろうな……? あん時だって事件もみ消すのに俺がどんなに苦労したことか……」
彼、樋口は警察に所属する人間である。ただし、神楽のいう『不良』であるが。そしてこの男こそが、神楽と警察、賞金を受け渡したりするための接点なのだ。
アンダーグラウンドで何かの事件が起こり、表舞台に影響があった場合、大抵のことはその『不良』が大嘘をついて事件をもみ消すのである。表社会に影響を及ぼさないために、多少の無理も通してしまうのだ。
うんざりと心配が混じりあったような表情で、樋口がぼやく。大きく溜め息をつくと、ウーロン茶を一口飲み込んで、残りのハンバーガーを口に押し込み、さらにポテトに手を伸ばす。
「起こそう……って俺が起こしたんじゃねーよ、向こうが勝手に来やがったんだよ」
こちらは思いっきりうんざりした表情。どうやら以前に、事件をもみ消すために、樋口がかなりの迷惑を被ったようである。そのため神楽が貸しを作ってしまったかたちになっているのだが、それが神楽にはどうにも不本意なのである。
「それはともかく、今回もなんか引っかかっててさ」
「ともかくじゃないだろ……? でも最近は本当に何もないんじゃないか? 俺も確かめてみるが、あんまり気にしないほうがいいと思うぞ」
「ま、確かにね」
言ってしばし二人の間に沈黙が訪れる。目の前の食事を片付けて、二人して煙草に火をつける。
「ところでカオリちゃん、こんなとこで油売ってていいの? 仕事は?」
「今昼休みなの。休憩時間はしっかり休憩するのが俺の信条だ」
「いっつも暇持て余してるくせに」
半眼になってずばり的を射たことを言う神楽。
「お前はいっつも一言多いんだよ。だいたいなあ……」
と、樋口の説教が始まる。いつもこの台詞のあとは長々とした語りが続いてくるのだが、神楽もそれは熟知のこと。説教が始まろうとした途端に席を立つ。
樋口が納得のいかない顔をしているが、それは無視してトレイを片手に持って一言。
「今日はこれから約束あんだよ、またな」
そのまま樋口に背を向け、トレイを片して店を出る。後ろから樋口の視線が背中に刺さっているのを感じたが、やはり無視して街の中心となっている交差点へと向かう。
約束の時間には少し早いが、いつ終わるか分からない、樋口の説教のような愚痴には付き合いたくはない。
(気にすんなって言われてもね……)
不意に神楽は、数メートル先の何の変哲もない道端に意識を集中させた。何かが『居る』ような、不思議な、不自然な感覚が神楽を襲う。
(その原因がそこら中にあるんだから、気にしないでいる方が不自然だよな)
歩きながら、改めて周囲の空間に意識を集中する。嫌な感じがする。
黒い火の玉のようなわだかまりが、場所を選ばずに彷徨っている。無論通行人には見えていない。……もっとも、見えていたならば、この不自然な環境に騒ぎが起こらないはずがないのだが。
神楽は、かけていた眼鏡を少しずらし、レンズ越しにではなく、直接その目で黒いわだかまりに視線を固定する。
意識を集中させることで、少しずつ、そのわだかまりが別のものへと変化していく。浅黒い肌色をした奇妙な球体。大きさはゴルフボールくらいであろうか、そのいたるところに無数の触手が蠢いており、全体の直径は十五センチほど。……気色悪いことこの上ない。
何をするでもなく、ふよふよと漂っている。
神楽には、常人には見えないものが見える。彼女が眼鏡をかけているのは、視力が低いからではない。瞳の色を目立たなくするためだ。
神楽の瞳の色は赤い。カラーコンタクトのような派手な赤さではないが、やはり目立つ。普通の眼鏡では色を隠すことはできないが、かけていることで、あまり悟られることはない。グラスコードをつけているのも、視線が瞳に集中しないようにするためのカムフラージュのような効果があるからである。
眼鏡を元の位置に戻し、意識を放散させる。見えていた触手付の奇妙な丸い物体は、神楽の視界から姿を消し、再び気配だけの存在となる。
(何なんだよ……これ)
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