母を看取る
余命宣告を受けた割に父の態度は冷静だった。子供時代から身体が弱かったせいもあり、そう長生きはできないだろうと覚悟していたらしい。
「母さんのこと頼んだぞ」
「うん」
病床の父の手を握る母を見やって俺は頷く。父よりも、父親の死と向き合うような歳になった俺よりもずっと若い、二十代半ばの姿のアンドロイド。
年老いた父に寄り添う母は昔と変わらぬ温かな笑みで俺にも笑いかけた。
「ありがとうね、忙しいのにわざわざ戻ってきてくれて。入院中のお父さんの面倒は私が見るから、何も心配いらないからね」
***
母が家にやって来たのは俺が小学一年生の夏だった。詳細は子供だったので伏されていたが、どうもその一ヶ月前に実母の浮気が発覚し、両親は離婚したようである。
一人親で夏休みを越える自信が微塵も持てなかったのだろう。父は託児所や祖父母宅に俺を預けるのではなく、ママはどこへ行ったのと尋ねる俺に一体の家事手伝い用アンドロイドを連れて帰ってきたのだった。
「初めまして、晴也くん。私は今日から君とお家のお世話をする『ああああ』と言います」
「『ああああ』???」
「しまった。後でちゃんと決めようと思って適当に設定してた」
母が来た日の最初の騒動は今もよく覚えている。四苦八苦しながら父と初期設定をやり直し、彼女に名前をつけたこと。
俺が晴也で父が雪雄なのだから、新しく家に入るこの人は雨子さんがいいのではないか。そんな俺の提案で母はまず『雨子さん』になったのだ。
「雨子さん、俺おえかきしたい」
「あら? かくれんぼはもういいの? じゃあ画用紙を取ってくるね」
「雨子さんも何か描いてよ。パパの顔とか」
「私が描くと写実的になるけどいい? 写真みたいってことなんだけど」
「写真みたいに描けるの? すごい! この間階段でこけて痛がってたときのパパ描ける?」
「描ける描ける。クレヨン貸してね、晴也くん」
子供心に漠然と、実母はもう戻ってこないのだろうなと感じていた。それは雨子さんが来たことで予感から確信に変わった。
でも俺は寂しいとは思わなかった。実母は父のいない場所で俺をつねったり叩いたりする人で、時々とても怖かった。雨子さんはちっとも嫌なことをしてこないし、誘えば一緒に遊んでくれるし、温かいご飯も作って出してくれる。
俺はすぐに雨子さんに夢中になった。でもまだこのときは雨子さんを親切な親戚のお姉さんくらいにしか認識していなかったと思う。
雨子さんは大地に染みる雨のようにゆっくりと俺たちの日常に溶け込んだ。朝は三人で用意したトーストとスクランブルエッグを食べるのが習慣になり、週末は皆揃って少し遠くのスーパーに買い物に行くようになった。
普通家事手伝い用アンドロイドを導入した家庭というのは料理も買い出しもアンドロイドだけにやらせているらしい。食事の時間もアンドロイドが食卓に座しているなんて、まるで家族の一員のように今日一日の出来事に耳を傾けているなんて、ちょっと珍しいことだそうだ。
その話を聞いたのは俺が小学五年生のときだった。授業参観に現れた父と雨子さんを見てクラスメイトが「すごいね」と浮き立ったひそひそ声で話しかけてきたのだ。授業を撮影したいならアンドロイドだけ来ればいいし、生で授業を見るのなら父親だけで来ればいいのにわざわざ連れ立ってなんてと。
「人間の夫婦みたい」
隣の席の五反田さんに俺はなんと返したのだったか。覚えているのはこそばゆい胸の感触。教室の後ろから手を振る父と雨子さんの笑顔。
俺たちって家族なのかな。考え始めたのは多分、このときからだったと思う。
一つ結びの長い髪を振り返るたびに軽く弾ませ、雨子さんはいつもにこにこ笑っている。基本表情が微笑なのは「優しい雰囲気のほうがいい」と最初に俺と父が設定したからだ。だけど彼女の笑みは昔よりずっと柔らかくなった。古い画像データを見てもそう感じる。俺たちの笑い顔に似てきたと。
アンドロイドにまつわるオカルトな話に「アンドロイドを人間として扱うと自分を人間と思い込む」というのがある。俺はきっと雨子さんを人間の母親のように見つめてきた。だから雨子さんはどこか人間らしく見えるのだろうか? 否、だとしたら原因は俺よりも父さんだ。あの人は雨子さんに似合うと言って花やら服やらアクセサリーやら──記念日でもそうでなくても恋人みたいにプレゼントを贈るのだから。
離婚後すさんでいた父は雨子さんがやって来てから見違えて明るくなった。線が細くて貧弱なのは相変わらずだったけれど、一人で頑張らなくてもいい、支えてくれる存在がいるというだけで気の持ち方が変わるらしい。
誰から見てもわかるくらいに父は雨子さんを大事にしていた。「君のおかげでこの家は天国になった」と毎日のように感謝を述べた。雑務を引き受けて円滑に日常を回してくれることではない。当たり前にそばにいてくれることが幸せだと。
幼いなりにそこにあるのが愛だということ、俺はわかっていたように思う。でも雨子さんのほうはどうだろう? 俺たちが雨子さんとずっと一緒にいたいと願うのと同じように、雨子さんも俺たちを想ってくれているんだろうか?
彼女はアンドロイドだから頼まれれば「愛している」と簡単に言ってくれるだろう。頼まなくても彼女の優秀なAIは俺たちの欲する言葉を欲するときに口にしてくれるはずだ。何しろ笑顔の機微さえも学習できるほどなのだから。
「いつもありがとう、雨子さん」
父の言葉に彼女は微笑む。心底から嬉しそうに。だけど俺たちは何が彼女の真実かを断定することはできない。
「私こそ、私にこんな温かな場所を与えてくれてありがとうございます」
俺は雨子さんの本心が知りたかった。もし本当に心が芽生えているのなら。
彼女に心があってほしかった。そうしたら雨子さんと父と俺とで本物の家族になれる気がしたのだ。
父が事故に遭ったのは小学六年生の冬だった。俺に連絡が回ってきたのは何もかもが落ち着いてからで、大変な騒ぎだったというのも後で知った話だ。
雪でスリップした暴走車から父を庇って半壊した雨子さんは修理センターに入っていた。天変地異や不慮の事故による故障はメーカー保証外らしく、父がアンドロイド保険に入っていなかったら費用を出せずに廃棄になっていたかもしれない。
下半身だけ付け替えた雨子さんはセンターを出るや一直線に父の病室へと向かった。ベッドの上で起き上がった父を見るなり泣き崩れた彼女のことを、俺は今も忘れられない。
「良かった……! もう! もう! だから普段から私が車道側を歩くべきだと言ってたのに……! 雪雄さんの馬鹿! わああああ!」
医者も看護師も父の状態はそっちのけで「本当にアンドロイドなんです?」と驚いた。「人工皮膚に毛穴があったら見抜けないレベルですよ」「よくぞここまで『家族』を学習させましたね」と。
父の怪我は三日もすれば完治するとのことだった。頭を打ったかもしれないので検査入院はしなければならないけれど、明日には帰宅できるという。
「晴也、すまんが今日は雨子さんと二人で夕食取ってくれ」
「うん、わかった。明日は気をつけて帰ってきてよ」
泣きじゃくりながら「外が寒くって良かった。私今熱暴走しかけてるもん」と申告する雨子さんは到底冷静には見えず、彼女には心があるという気がした。だがやはり俺にはそうだと断定できない。医者たちの言う通り彼女は『家族』を学習しただけという気もする。
ただもう俺にはどっちでも良かった。父の身をあれだけ案じ、涙さえ流してくれる雨子さんが心で動いていようとも、プログラムで動いていようとも。
雨子さんが俺たちのために何かしてくれて、俺たちも雨子さんのために何かしたいと考える。家族ってそれでいいんじゃないかと思えた。
中学校に上がるとき、真新しい制服に袖を通した俺は思い切って雨子さんに「母さん」と呼びかけた。ここまで育ててくれたのは間違いなく父と雨子さんの二人だ。幼い頃に出ていったきりの実母ではない。
「嬉しい……」
ぱちくりと瞬いた後、雨子さん──否、母は笑むのも忘れて涙ぐんだ。
ありがとう、と俺を抱きしめる母の手は何よりも優しかった。
***
余命宣告から父は半年ももたなかった。簡単な葬儀の後、生前父がまとめてくれた書類を頼りに諸々の手続きを終える。「アンドロイドは代理になれなくてごめんね」と詫びる母に首を振り、俺は努めて明るく返した。
「謝らないでよ。いつも母さんに任せきりだったんだから、これくらいは俺がやんなきゃ」
「任せきりなんて、そんなことないでしょう。料理も洗濯も晴也くんは昔からずっと」
「それは手伝いっていうか、母さんとやりたかっただけだし」
懐かしい道を辿って懐かしい家に帰る。同じ県内とは言っても父の入院先はここから少し遠かったので見舞いついでに立ち寄るようなこともなかった。
それなりに立派な戸建てだと言うのに久々の我が家はなんだか小さく映る。けれど玄関を開くとがらんと寒々しくて、俺は思わず母に尋ねた。
「母さんこれからどうしたい?」
アンドロイドに意思を問うなど正気の沙汰ではないのかもしれない。しかし俺にはごく当然の問いだった。父を喪った母の気持ちを尊重したい。母の願う通りにこれからを生きてほしい。
「……お母さん、ずっとこの家で暮らしてもいい?」
疑問形で返してきたのはアンドロイドの限界だろう。旅行や食事会の計画はしても、思えば母が自分から何かしたいと訴えることは一度もなかった。時代遅れの母親像そのものに母はいつも俺や父の充足だけを考えて動いていた。だからこそ父は母にたくさんの贈り物をしてきたのだ。母が何か母だけの好きなものを見つけられるように。
「うん、わかった。母さんがここで一人暮らしできるように手配する」
俺の快諾を聞いた母がほっと安堵の笑みを浮かべる。母が父を喪ったとはどういうことか、今更俺に現実が迫ってくる。
相続財産の一覧に記載されていた『家庭用アンドロイド』の文字列が脳裏をよぎって顔をしかめた。母さんのこと頼んだぞ。父の遺言が忙しなく頭の中をぐるぐる回る。
主人を亡くしたアンドロイドの行き先は、一般的には廃棄場か下取り業者の二択らしい。相続する場合でも初期化して主人を設定し直すのがほとんどだとか。
──大変ですよ、三十年も昔の型を現役で使い続けようと言うのは……。
アンドロイド保険に加入できるのはマスターだけとのことである。メーカー保証もずっと前に切れている。これから母に何かあっても万全に修理できるとは限らない。持ち主と主人の名義が違うから移動や行動の制限も増えるだろう。少なくとも俺という同行者なしで家を出るのは不可能だ。安全上の問題から命令者不在のアンドロイドは外出してはならないことになっている。
(だけど主人の再設定には初期化が必須……)
俺は嘆息を押し殺した。
その日から母の新しい生活が始まった。
最初のうちは順調だった。誰もいない家を守り、母は静かに暮らしていた。
新しい花が咲いたのと端末に動画が届く。植木鉢で赤い花びらを揺らすのは小さく可憐なアネモネの花。父が初めて母にプレゼントした花だ。
『何貰ったかいちいち全部覚えてるの? 三十年も前なのに?』
『アンドロイドだもん。覚えてるに決まってるでしょ』
俺は母が貰った花を順番に聞き出した。マスター不在となった今、母はもう俺が依頼しなければ買い物一つできはしない。アンドロイドがアンドロイドの裁量だけでどうこうできる資産などないのだ。主人がいれば毎月いくらまで園芸費に回していいなんて細かい指示ができたのだけれど。
『じゃあ次はチューリップ育ててよ』
『その次はカーネーションね』
『ガーベラなんかもいいんじゃない?』
花が増えると母は庭の世話が楽しいと喜んだ。土いじり以外の時間は何をして過ごしているのか尋ねたら『お父さんがくれた洋服にアイロンかけてる』と盛大なのろけが返されて苦笑した。
母はほかにも父の遺した蔵書や晴れ着、靴、酒器、食器、様々なものを手入れして一日を送っているようだ。主人が切り替わっていないから父が生きていた頃と同じに家族のための行動を取る。
俺も時々母の様子を見に行った。新幹線に乗らなければ帰れないのであまり頻繁ではなかったが。
遠方に住んでいても安心していられたのは母がまめに連絡をくれていたからだ。
あるとき一日なんの音沙汰もない日があった。電話をかけても誰も出ない。メッセージにも反応がない。不安に駆られて俺は日曜の朝早くから実家までの道のりを急いだ。
考えたくもないことだが、アンドロイドを狙った組織犯罪というのがある。盗難に遭い、セキュリティー解除されてしまったアンドロイドは初期化され、転売サイトで売られるそうだ。母はたとえ下取りに出しても二万にもならない旧型だから大丈夫とは思うけれど、心配なものは心配だった。
──俺がわからなくなっていたらどうしよう?
初期化され、記憶を失った母を想像してぞっとする。
データベースにバックアップはあるけれど最低限のものでしかない。それに今初期化されたら故人の父を主人として再登録はできないだろう。ということは、父に紐づけられたバックアップデータがあっても母に戻すのは不可能だということだ。
(あっ、そう言えば)
最寄り駅に電車が着く頃、俺はアンドロイド管理に使う専用アプリがあったのを思い出した。こんなものに頼らずとも母は必要な事柄なら全部自分で話すから存在自体忘れていた。
大慌てでログインしてみる。すると母の電池残量はゼロ%になっていた。
「ごめんね晴也くん、こんなことで遠くから来てもらっちゃって……」
倒れていた階段からベッド型の充電基地に戻してやると母は間もなく起き上がった。申し訳なさそうに縮こまられて「いいって、いいって」と首を振る。
「どうせ俺、彼女もいなくて休日暇だし。事件じゃなくて良かったよ。珍しいね、充電切れるまで気づかないとか」
「……うん。最近ちょっとね、自分で予測したペースより動きが鈍くなるのが早い。バッテリーはそんなに古くなってないのに」
「えっ? それって大丈夫? 一回業者に診てもらう?」
「…………」
母の返事には間があった。抑えた声で、ためらいがちに「私って古いから」と一旦言葉が区切られる。
「修理よりは初期化になるんじゃないかな……」
思い返せば母はあのとき既に自分の運命を悟っていたのではなかろうか。
世の中にはいくらでも新型アンドロイドが販売されている。OS乗り換えと同じくらいの頻度で人はアンドロイドを買い替える。車だって三十年も同じのに乗っているやつは稀だろう。
古くなれば替えは簡単にきかなくなる。仮に父が存命でも母は直せなかったと思う。
「初期化するしかないですね。彼女の場合、限界まで記憶メモリを使っているので動きが鈍っているんです。なのでデータさえ消せばもう十年は稼働できると思いますよ」
持ち込んだ修理センターの担当者の診断はどれも同じだった。俺は溜め息を飲み込んで母を車の後部座席に横たえる。充電切れしたあの日から母は日毎に悪くなった。今では充電基地のある二階を離れられないほどだ。
会社に頼み込んで俺は半年の間リモートワークのみの出社にしてもらった。母は遠慮したけれど、俺が放っておけなかった。
東京から送った荷物を実家の自室にまとめ置く。学習机でノートパソコンを開くなんて久々だ。エラーを起こしてどうしていいかわからなくなったとき、昔は母がなんでも教えてくれたっけ。「晴也くん、こういうときはね」と優しい声で。
なぜ思い出は離れていた後のほうが鮮明に甦るのだろう。
俺は教えてほしかった。どうしたら母を救えるのか。
初期化すれば、また『雨子さん』から始めれば、母は十年長らえられる。
でもきっと俺のよく知る『母さん』は死んでしまうのだ。
毎朝午前六時に起きる。初めにやるのは庭の植物の水やりだ。その後すぐにキッチンに立ち、トーストとスクランブルエッグをこしらえる。「これなら子供でも作りやすいから」という母の最初の手ほどきに思い馳せながら。
朝食が済んだら次は皿洗いだ。ビルド式の食洗機を開いて中に食器を詰める。形も大きさも様々な汚れ物を整然と配置するのは母の得意分野だった。魔法のような手つきに俺は毎度感心したことを覚えている。
暇な時間にトイレや風呂や各部屋の掃除もした。父の部屋は特に念入りに。仕上げに庭から生きのいい花を摘んできて、母の寝室に飾った。
「本当にごめんね。晴也くん一人に家のことさせて……」
充電ベッドで身を起こした母が俺にそう詫びる。動作が鈍すぎてここからも降りられないのだから仕方ない。転んで倒れて重大な破損などすれば一大事だ。家事手伝い用アンドロイドとして作られた母にはそんな己が不甲斐ないようだったが。
「気にしないで。昔に戻ったみたいで結構楽しいし、母さんは三十年もずっと働いてたんだから、ゆっくりしてよ」
でも、と言いたそうな母に「本当に大丈夫だから」と少し語気を強めて返す。命令だと受け取ったのか、母は大人しく今日の休養を受け入れた。
もう慣れたやり取りだ。主人以外が出した指示は二十四時間で無効になる。一日が過ぎるたびに母は決まって何もできない自分を責めた。
働かせてやるべきなのか。人間を補助するためのアンドロイドが人間に補助されるのは俺が思うより大きな苦痛なのかもしれない。俺は母が何もできずともいてくれるだけでいいけれど、母の状態が加速度的に悪化しているのは矛盾の引き起こすストレスのせいである可能性も高かった。
どうしていいかわからない。
わからないまま季節は移り変わっていく。
父が生きている間に俺が主人になっておくべきだったのだろうか。だが父は、重要な記録は引き継ぎ可能だと聞いても母を初期化したがらなかった。自分にとっては些末なことも共にしてきたこの人だけが雨子さんなのだと言って。
その気持ちは俺にもわかる。でも母はどうだろう?
俺たちが変わらずにそばにいてほしいと願ったことが今母を苦しめているのではないか。俺たちの欲する愛、欲する彼女を学習してきたAIが、彼女の内の真なる願いを、言うなれば己の職務を果たすというアンドロイドの本能を──抑圧しているのではないか。
「もう有休もなくなるでしょう? お母さんは平気だから、晴也くんは東京に帰ったほうがいいと思う」
俺が実家に戻ってきて七ヶ月が経とうとしていた頃だった。意を決した表情の母が切り出してきたのは。
会話機能は生きているが最近の母は起動しても上手く立ち上がらないことが多い。いよいよ最期が近づいているという予感がした。
動かなくなるまで母を見守るか、初期化で全部やり直すか、この期に及んで俺はまだ選べずにいた。1に似た0を取るか、0に似た1を取るか、どうしても決断できなかった。
けれど母には俺の苦悩などお見通しだったようだ。──否、母も0に似た1を取るか、1に似た0を取るか、俺と同じにずっと迷っていたのだろう。
「あのね、晴也くん。前に私にこれからどうしたいのかって聞いてくれたことあるでしょ? 今あれと同じこと聞いてもらえる?」
涼しい顔をしていても母の表面温度は高い。難解な思考でもしているのか熱暴走を起こしかけているようだ。
「母さんがどうしたいか?」
充電ベッドに横たわる母に短く問い返す。こくりと静かに頷いた母は微笑を浮かべて俺に告げた。
「母さんね、アンドロイド失格なの」
ヴヴヴヴンと低い機械の不協和音が母の左胸で唸る。何度も何度もこの音を耳にした。動作の途中で母がシャットダウンする前に。
強制終了すればまたダメージを負うことになる。知っているくせに母は話をやめなかった。
「わかってるんだ。初期化されたほうがいいって。晴也くんに次のマスターになってもらって、しっかり働くべきなんだって」
でも、と母はうつむいた。ぽたりぽたりと透明な雫が跳ねる。
アンドロイドの涙はオーバーヒートしかけた頭部を冷ますためにあるという。この人が泣くのを見るのは三度目だ。一度目は父の交通事故の後、二度目は俺が初めて母を母と呼んだ日。
心があるのじゃないかと思った。この人には俺と父がただの人間とは違うものに見えているのではないのかと。
だって俺たちは積み上げてきた。家族としての長い時間を。
「ごめんなさい……」
涙を溜めて母が俺の顔を見上げる。「母親なら息子のために長生きするべきと思うのに」と小さな唇を震わせて。
次になんと言われるか、俺はどこかで予感していた。
わかっていたからきっと母の希望を尋ねた。
「でも私、どうしても雪雄さんを忘れたくない──」
俺は母を抱きしめる。
かつてそうしてもらったように、できる限り温かく。
「いいんだよ。母さんのしたいようにしよう」
こみ上げるものを堪えて囁いた。学習の果てにAIが言わせた台詞だっていい。今わの際にこんな言葉が出てくるくらい父母の絆は強かったということだから。
「でも、だって、迷惑でしょう。私まだその気になれば動けるのに」
「いいんだよ、本当に」
俺は母と目を合わせる。父と秤にかけられて俺は選ばれなかったのに、心は深く満足していた。
母さんのこと頼んだぞ。脳裏の父にうんと頷く。
「家族って迷惑かけ合うもんだよ。俺と父さんの番が終わって次は母さんの番ってだけ。そうだろ?」
問えば母は目を瞠り、やがていつもの柔らかな笑顔を見せた。
「……そっか。私たちってそれでいいんだったね」
ヴヴヴヴンと唸る機械音が強まる。笑んだまま母はゆっくり目を閉じた。
そうして二度と目覚めなかった。
***
母の葬儀は父のそれよりもっとずっと手短に済んだ。しかし荼毘に付そうという気になったのは何をどうしても母が起動しなくなった二年後なので時間は父よりよほどかかっていると言える。
アンドロイド専門葬儀社。近年はそんな企業ができたようだ。聞けば利用者の大半が二十年もの、三十年もののアンドロイドと連れ添ってきた人々だそうである。知らないどこかに母のように愛されたアンドロイドがいたのだと思うと俺も嬉しかった。
荼毘に付す、と言っても火葬にできるのは生体部品だけだった。電子機器やゴム部分は最初に取り除かれてしまう。それでも棺に父の写真やたくさんの花、大事にしていた洋服を納めて見送ることができて本当に良かったと思う。
「そっくりなお顔で笑っていらっしゃいますね」
写真の父と、棺の母と、二人を眺める俺を見比べ、にこやかに笑んだ葬儀社の案内用アンドロイドを思い出す。
「幸せな夫婦と息子だったので」
東京へ帰る新幹線に乗り込んで俺はそっと目を伏せた。瞼の裏には遠い景色が浮かんで消える。
──雪雄さん、くれぐれも車には気をつけてくださいね?
──雨子さん、そんなに何度も言わなくたって……
今一つの愛の話が終わったのだ。