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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

太陽を見下ろす

作者: いけがみ


和晴(かずはる)さん、なんで教えてくれはらへんかったんすか!」

 後輩である上口が遅刻を詫びないのはいつものことだが、「お疲れ様です」の一言もなく、いきなり背後から肩を叩かれたのは初めてだった。

 喉元を通り過ぎようとしていた氷水が逆流し、寸でのところで堪え、行きつけの定食屋のテーブルを汚さずには済んだ。そこまでは良かったが、行き場のなくなった水はあわれ鼻に入るしかない。喉を通ればなんでもない水が、鼻腔では刺激物に早変わりだ。ツーンと目頭まで突き抜けるなんとも表現できないこの感覚。首を深く折って、結露したグラスを強く握ってやり過ごすしかなかった。

(ふく)さんが帰ってきてはるなんて!」

 鼻の中で右往左往していた水が、今度こそ俺の口からブッと吹き出た。スーツの股ぐらに大きな染みができる。けれどそんなことに構うのは一秒で事足りる。

「…ふっ、ふくう?」

 俺が身を乗り出すと、向かいに着席したばかりの上口は顔をしかめた。

「和晴さん、汚い。よだれ出とる」

「そんなん、どうでもええわ。お前、今、福ゆうたな。どの福や?」

「福さんゆうたら、あの福さんです」

『あの』じゃ分からんと言いたいが、福と言えばあの服しかいないのは俺だって分かりすぎるほどわかっていた。福は、上口とこの定食屋で飲み食いする時の話題の六割強を占める。ただし、俺が入手した福情報を上口に教えてやって、二人で盛り上がるという図式の上にのみ成り立っていた。なぜなら福と俺は大学の同期生かつ部活仲間の親友であり、対して上口は単なる福ファンの後輩の一人だからだ。

 ただのファンのくせに、いつの間に連絡先を入手してやりとりしていたのか。

 この男は大学時代、明らかに福目的で俺たちの部活に入った。隙あらば福に近づき、話しかけ、チャンスあらば触ろうとする傍迷惑なファンで、業を煮やした部長がキレて自主退部に追いやった。だから正確には部活の元後輩だ。その程度の吹けば飛ぶような関係だったはずが、俺に抜け駆けした挙句、巨大隕石並みの情報を掴んでいるなんて。

「嘘お、和晴さんのくせに知りはらへんのですかあ」

 俺が沈黙を続ける意味を正しく読み取った上口が、おそるおそる確認してくる。

 項垂れながら頷くと、上口はえーっと大声を出した。先んじてやった、してやった、という意地の悪さは欠片も感じられない。感情が子どもレベル、単純明快なのが上口の憎めないところだ。ベタベタしてくる上口を、福も突き放さなかった。子どもにじゃれつかれている程度に思っていたのだろう。

 親友の俺。

 子どもの上口。

 福が二人を天秤にかけ、「五年ぶりに帰ってくるのを伝える」が子どもに傾いたのがあまりに解せない。

 しかも「帰ってくる」ではなくて「帰ってきている」なのだ。つまり、福は今すでにこの近くにいる。息をして、歩いて、誰かと話をしている。

 俺は福とは昨夜もメッセージをやりとりしたが、転勤のての字も、引越しのひの字も出なかった。一体全体どうして俺には教えてくれなかったのか。機嫌のよさそうな文面だったが、機械越しで顔は見えない。本当は嫌々やりとりをしていたんじゃないか。想像は邪推を呼び、腹が妙な熱を帯びてくるのを自分で抑えられない。

「和晴さん、落ち着いて水でも飲んでください。ほんまは、僕にも連絡せえへんつもりやったみたいやし。事情があるんですよ。声も変やったし…」

「声? 電話かけたんか?」

 上口は、電話のどこが不味かったかと不思議に思っているだろう。首を傾げて困ったように頷いた。

「なんで電話なんかするんや。俺は一回もかけたことないんやで」

「僕からしたんやなくて、福さんからかかってきたんです。和晴さんはなんで電話せえへんのですか? 番号知ってるんでしょ?」

 無論、知っている。

 声を聞いたら会いに行ってしまいそうだから、しないだけだ。会いに行く俺は、それまでの俺と違ってしまいそうだから、しないだけだ。福も俺に電話をしてきたことはない。日常の他愛ないやりとりに、電話は大仰だと思っているのだろう。それなのに、福は上口に電話した。

 焦りと嫉妬がジリジリと腹を焼く。俺はこんなに小さな人間だったか。

 駄目だ。

 首を振って嫌な想像を追い払う。

 上口の助言に従って、冷たい水をぐいっと飲み干した。テーブルに備えつけてある水差しからもういっぱい汲んで、それも飲んでしまう。こんな緊急事態にアルコールを摂取する気には慣れない。食事をする気にもなれない。

「ともかく、話を元に戻そう。その前に、上口、注文しとけ」

 腕を組んで顎で指図し、不機嫌な様を隠さない俺をチラチラ窺いながら、上口は生中と秋刀魚と唐揚げを頼んだ。上口のやつ、こんな非常事態によく食べる気になるもんだ。

「で、電話はいつかかってきたんや?」

「さっきです。仕事終わって、ここに来ようと歩いてたら着信があって」

 上口の話をまとめるとこうだ。電話帳の中で宝物のようにして保存してある福の電話番号から突然着信があった。慌てて受けると、上口かと確認された。福の声は、電話の向こうのざわめきが煩くて耳を澄ましても聞き取りづらく、福も急いでいるようで焦ったような喋り方をして、さらに言葉遣いは標準語。最初は別人かと疑ったほどらしい。久しぶり、と慌ただしい挨拶の後、実はこちらに帰ってきているんだと歯切れ悪く告げてきた。上口の会社と取引があるから、そのうち会うかもしれない。上口は驚き半分、嬉しさ半分、今から俺と飲むので是非と誘うと、福はすぐさま断って、電話も切ってしまった。

 要するに、戻ってきたはいいが会う気は全くない。仕事で顔を合わしたらよろしくということらしい。

 上口が疑問を抱いたように、俺も不思議で仕方なかった。

 あの福なのだ。

 上口のようなファンが大量発生するのも仕方ない、と誰もが口を揃えて褒め称えるいい男なのだ。

 一言で表すならば、福は王子だ。

 見惚れるばかりの美しい顔。あの顔はどう表現すればいいのだろう。造作がどうのというレベルを遥かに超えて、もはや芸術だ。どんな表情でも絵になる。俺が絵描きならば、一秒だって福から目を離すことはできない。

 美しい顔を引き立たせるのは、さらさら流れる黒髪だ。艶めいていて細くて、風に舞っては太陽光を反射し、道行く俺たちの目を射る。部活仲間であり親友でもある俺は、実は福の髪に触る権限を持っていた。いや、それは誇大表現か。実際は、部室で二人でいる時だけ頭を触らせてもらっていた。髪をすくっては指の間を滑らせる。耳や首筋や額に、うっかりした振りをして触れると本当にドキドキした。それに普段は明るくてよく喋る福が、俺に髪を触らせている時だけは、陽だまりで眠る猫のようにじっとしているのも格別だった。

 そう、王子のような外見をしていながらも、福は明るくてよく喋り、フットワークも軽く、友人知人がべらぼうに多い。

 頭だって勿論いい。一度会ったことのある人間は忘れないという記憶力の持ち主だ。一度話をしただけの間柄でも、親しみを込めて自分から話しかける。「○○くん、久しぶりやな」なんて名前を呼ばれて微笑みかけられたら、感動の余りちびってしまう奴だっていたかもしれない。

 福とはそういう男なのだ。

 上口の話す福は、違和感がありすぎる。

「何があったんかは、聞かんかったんか?」

「そういう話ができる雰囲気とちゃうかったんです…」

 秋刀魚を箸で弄りながら、上口はがっくりと肩を落とす。

「福さん、ホンマに何があったんやろ…」

「あかん! じっとしてられん! 緊急事態や!」

 俺はスーツからスマホを取り出し、着信を確認する。福の名前はどこにも表示されていない。じっとしていられず、スマホだけ持って、店の外に飛び出した。





 きんと冷えた秋の夜である。半月もすれば、息が白くなるだろう。

 飲み屋街から一本奥に入ったところにあるこの定食屋の前を通る人はまばらだったが、用心のためにガラ空きの24時間営業パーキングに足を運んで、もう一度スマホを開いた。もどかしい思いで福の電話番号を押す。

 呼び出し音、呼び出し音、呼び出し音。

 永遠に続きそうだった機械音が、不意に途切れた。

『…はい』

 間違えたのだと思った。

 福はこんなに低くて暗い声じゃなかった。慌ててスマホ画面を見る。福の名前と電話番号が表示され、通話時間3秒と出ている。この番号が既に別人のものになっている可能性に思い至って、血の気が引きかけたところで、電話の向こうの誰かが俺の名前をひとりごとのように呟いた。

『…和晴』

「ふ、福う!」

 スマホを両手で握り締める。この小さな機械がどこでもドアだったらどんなによかったか知れない。

『…上口くんから、聞いたのか』

 はああという細長いため息が聞こえた。福の唇を通った空気を、俺の耳に直接送り込まれた錯覚がして、背中がぞくりとおののき、返事が一瞬遅れた。

「聞いたに決まってるやろ。昨日のラインでは普通やったのに、なんでなんや! 俺には帰ってきたって言いたなかったんか」

 福のこんなにもよそよそしい口調を聞いたことがなかった。落ち着いて話せない。暗闇を闇雲に走るように、福を問い詰める。

 福はしばらく黙っていた。何を考えているのか、俺の電話なんて面倒くさいと思っているのか。なんでもいいから答えてほしい。

『戻りたくなかった。誰にも会いたくなかった』

 ようやく福の声が聞こえた。暗くて重たい口調は、暗くて重たい言葉を倍以上に暗く重くする。

「福、お前、そんなこと言う奴ちゃうかったやん。向こうで何があったんや」

『何もないよ。僕が変わっただけ』

「ラインではずっと変わらへんやん」

『それは…』

「まあええわ。詳しいことは会うてからや。今どこにおるんや」

『会わないよ』

 かつての福を思わせるはっきりとした声音が、聞きたくない言葉を紡いだ。

「うん、わかった。一回だけ会おか」

『会わへんゆうたん、聞こえんかったん!」

 悲鳴だった。

 福が声を荒げるところなど一度だって見たことがない。けれど取り澄ました標準語が消えて、懐かしい方言が流れてきたことに俺は安堵した。福は福だ。きっと緊急事態に陥っているだけだ。

「やから、一回会おう。一回が終わったら、会わへんでもええから。福、今どこにおるんや?」

 できるだけゆっくり穏やかに話すことを心がける。スマホの向こうはまただんまりになったが、切る気配はない。大丈夫だ。

『…うち』

 福が答えてくれたことにホッとする。

「どこに住んでんのや?」

『知らへん』

 不貞腐れた子どものような言い草だった。いつだってニコニコして、迷える仔羊を導く側だった福に、こんな喋り方ができるなんて知らなかった。知ることができて、嬉しいと思ってしまう。

「近くに、何がある?」

 渋る福から、少しずつ情報を引っ張り出す。何マンションの何号室まで聞き出して、あと半刻で行くからと電話を切った。

 本当に会いたくない人間に、自宅を教えるだろうか。

 本当に会いたくない人間を、家に上げるだろうか。

 よくてファミレス。座って喋る気になれない相手なら、駅や広場で立ち話だ。だから大丈夫だ。

 福は「僕は変わった」と言った。何かとてつもなく大きなことが起こったのだ。そして一時的に手負いの獣のようになっている。傷が癒えたら、元に戻る。

 定食屋に戻ると、皿を空にした上口が不安そうな目を向けてくる。今から会ってくると告げると、安堵したように頬を緩めた。上口ならば、一緒に行きたいと思っていても口にしないが、言わせないのは俺自身の独占欲かも知れない。後で連絡すると言って別れ、俺は走った。






 福の住むところは、昨年から大々的に宣伝されていた新しいマンションだった。

 立地がよく、ゆえに値も張る。買ったのか賃貸か知らないが、仕事は順調ということだ。そしてこれだけのところに住むということは、ある程度長くこちらに留まることが前提ではないだろうか。好きなように想像して気分を高め、重厚なオートロックの玄関で、福の部屋番号を押して呼び出す。早いな、と福はインターフォン越しに少し笑った。玄関が左右に開く。

少し先にあるエレベーターのボタンを強く押した。待つ時間が惜しい。けれど高層階にある福の部屋には、階段を駆けのぼるよりエレベーターで向かう方が早いのがわかりきっている。もどかしかった。

ようやく辿りついた福の玄関ドアはわずかに開いていた。

 その隙間から、五年ぶりの福が片目で俺を出迎えてくれている。

「福!」

 感極まった俺の叫びが廊下に響き渡り、それを恥ずかしいとか近所迷惑だとか考えられないほど、頭が福でいっぱいだ。

 あれから五年経っているなんて信じられない。福の目は相変わらず芸術そのもの。長い睫毛と薄い目蓋が、綺麗な眼球を守っているが、その睫毛と目蓋を守るものはない。そのもどかしさを言葉で表現できない。つるんとした白い頬も昔のままだが、わずかに痩けて見える。見間違いではないだろう。福ならどんな表情も美しいと思っていたが、どんよりと暗い透明のペンキを塗りたくられたようなこんな顔は似合わない。させたくない。

「…和晴」

 福は、目を伏せてポツリと呟いた。

 手負いの獣ではなく、怯えた子どもに近いと思った。

 福の背後は薄暗い。照明をつけていないのだ。福の精神状態があまりよろしくないことがおのずと伝わってくる。

 けれど希望はある。ドアのチェーンは外されているのだ。福が扉を開いて招き入れてくれるのを待つだけだ。

「福、ホンマに久しぶりやな」

「うん」

「上口、めっちゃテンション高かったで。あいつもお前が好きでしゃあないから。…なあ福、もっと近くで顔見せてえや」

 福の綺麗な眉間にぎゅっと皺が刻まれた。俺の存在が福を思い悩ませていると思うと悲しい。俺は今の福にとって要らない人間かもしれない可能性を考えると絶望する。

 同時に、俯いて固まってしまった福に強烈な愛しさを覚えた。五年も離れていたなんて信じられない。こんなことになるなら遠さをものともせず、転勤先に遊びに行けばよかった。福が好きで仕方ないと叫べばよかった。

 福がじっとしているのは、俺が福の頭を撫でている時だけだった。思い出すと我慢できなくなり、わずかに開いた隙間から手を差し入れて、福の小さな丸い頭に手のひらを乗せていた。

 手に触れたのが、懐かしいさらさらの髪の感触でないことに少し驚く。帽子だ。黒いニット帽が福の頭を覆い隠している。

「和晴、嫌や、やめて」

 パッと福は身を引いて、薄闇の中で瞳を揺らした。

「ごめん、勝手に触ってしもた」

「ちゃうねん、びっくりしたんや。僕かて、もうええ年のおっさんや。もう和晴に撫でられることないて思てたし…」

「びっくりしただけならよかった。安心した」

 福は視線をうろうろさ迷わせ、落ち着きなくその場で足踏みした。ニット帽を深くかぶり直して、泣きそうな目を俺にぶつけてくる。

「僕、昔とちゃうんや」

「そうなんか。俺から見たら、どっこも変わって変。ただ、何か悩みがあるんやろ? 一人で考えるのが辛いんやったら、俺も一緒に考えさせてくれへんか? 福がそんな顔してるの、めっちゃ悲しい」

「一緒に考えたら、もっと悲しいなるで」

 それでもええんやったら入って、と汚いものを吐き捨てるような口調が続いた。

 福は一歩引き、ドアを少し開いた。俺の片足が玄関に入るのを見届けると、福は逃げるように部屋の奥に駆けていった。俺の背後でドアが音もなく閉まる。周囲は闇だ。新しくてピカピカしているはずの玄関と廊下は洞穴のようで、黒い帽子をかぶって黒い服を身につけた福は、闇に紛れて消えかけている。

 福の首筋と手と足首だけがわずかに白く光って、道案内役になってくれている。見失ってはいけない。





 雨戸や遮光カーテンが閉まっていないのが幸いだった。

 わずかな外の明かりと、福の白い軌跡に導かれて、俺は広い空間に出た。壁の一面が全て窓になっていて、外側には広々としたバルコニーが淡く浮かび上がっている。

 贅沢に空間を使ったリビングの、やっぱり大きなソファの上で、福は小さく膝を抱えて、目だけで俺を見ていた。

「ええとこに住んでるやん」

 福は答えない。置物然としている。

「なあ、明かりつけへんの? 黒いカッコしてたら、どこにいるんか分からへん」

 福は膝に顔を埋めて、黒いニット帽を更に深くかぶった。正真正銘、黒い塊だ。

「隣、座るで」

 一声かけてから福の横に腰かけた。ソファが驚くほど深く沈み込む。柔らかくて手触りのいい素材でできていて、包むように全身を支えてくれた。

「ええソファやなあ」

 俺は大きく息を吐いた。

「福がじっとしてるのって、俺がお前の頭触ってる時だけやったなあ。やから、福が動かへんのに、俺が触ってないのは変な感じがする」

「変とちゃうよ。触る理由がなくなったんや」

 のろのろと福が顔を上げた。頭を傾けて、じっと俺を見る目が潤んでいる。白目が黒っぽく見えるのは、目が赤くなっているからかもしれない。

「どういうことや」

「笑わんといてな」

 今度こそ福は泣きそうに顔を歪めた。

 綺麗な形の唇を噛み締め、色んなものを堪えているのが痛いほど伝わってくる。眉間の皺が深い。目尻にも、学生時代に見たことのない皺が刻まれていて、ああ、時間がたったのだなと実感した。もちろん、年が福の美しさを損なうことはない。美は形を変えてあり続けるのだ福を見て思う。

「あかん! やっぱり嫌や!」

 ふたたび福は膝を抱えて縮まった。そっと背中に手をやると、小さく震えているのが感じられる。福を安心させたくて、体をねじって福に向けて、両腕でゆるく抱き締めてみた。福相手にこんなことをして許されるのかわからないが、どうしても慰めたかった。ポンポンと福の背中を叩きながら、大丈夫や、とニット帽からはみ出た耳朶に囁く。

「…あんな、和晴。僕の帽子、取ってみて」

 くぐもった声が俺を呼んだ。帽子を取るとどうなるのか知らないが、言われるままに、福の頭を覆っている帽子を引っ張ってみる。

「ここ三年くらいや。みんな、僕の頭ばっか見よるんや。でも誰も何も言わへんねん。ホンマに参ってまうわ!」

「…隠すようなもんちゃうで」

 俺は慎重に言葉を選んだ。

「隠すわ! やって僕、まだ二八やで。二八でこんな頭、誰もしてへんやろ!」

 福の叫びはリビングを満たし、一瞬で消え去った。



 福の頭からは、髪の毛がなくなっていた。

 窓からの青白い月光を受けて、つるりと玉のように淡く輝いている。

 ニキビ跡すらないすべすべした額と同じ皮膚が、頭の天辺まで続いている。よく見ると、てっぺんには細くて短い和毛がふわふわ揺れていて、耳の辺りや後頭部に下ると、黒くてサラサラの髪が以前のように生えていた。

 福はフーフー息を荒げて興奮していた。

 俺は、福の背中をあやしながら、福が福であるというだけで嬉しくて、その福が俺に気持ちを打ち明けてくれたことが嬉しくてたまらないとどうすれば伝わるのか、ひたすら考える。

「なあ、福、触ってもええ?」

「なんで? 何もないんやで! 意味ないやん!」

「こんな綺麗なもんが隠れとったんやな、って言葉は変かも知れんけど、感動してる」

 さすが福だ。

 傷もほくろもひとつもない奇跡的なまでに完璧な球。若いから張りがあって、つやつやして、まさに玉のようだ。

 そこに残った半透明の細くて短い毛は、たんぽぽの綿毛みたいだ。ふっと吹くと、フワンと揺らぐ。綿毛と違って飛んでゆかず、健気に元の位置に戻る。何度もしていると、頭の皮膚が少しずつ赤く染まっていった。

「変なことせんといて」

「可愛いんやもん」

 福はモゾモゾと逃げたそうにしている。俺は逃さないために、抱く腕に力を込める。福は諦めたように体の力を抜いて、俺にもたれかかってきた。

「和晴、僕の髪の毛好きやったやん」

 それは福のことが好きだったからだ。

 福が好きだと直球を投げられない小心者だから、髪が好きだと言い訳して触っていただけだ。髪でなくてもよかったが、頭に触れると、いつも喋ったり動き回ったりと忙しい福がじっとしてくれるのが本当に嬉しかった。受け入れられているようで、幸せだった。俺に触れられるのが気持ちいいと伝わってきた。その幸福感が高まって、おかしな方向に向きかける度に、軌道修正しようとして殊更「この触り心地は癖になる」だの「日本一の髪」だのと適当なことを真面目な顔で言っていた。

 福に触りたかった。

 近づきたかった。

 いつでも一緒にいたかった。

 卒業は辛かったが、それより何より、福が就職して研修後の配属先が津軽海峡を越えた見知らぬ土地と聞いた夜は、一人で泣いた。

 あれから五年だ。

「僕かて、和晴に頭撫でられるの気持ちよかった。でももうアラサーやで。そんなおっさんの頭を喜んで撫でへんやろ思たけど、…何でやろな、髪の毛がなくなったら和晴にはもう会えへんと思った」

 福のため息が、俺の胸深くに届く。

「髪の毛なくてもええなら、触ってええよ」

「ありがとう」

 許されたことが嬉しい。

「俺、福のこと好きや。お前に近づきたくてしゃあなかったんや。髪の毛が好きゆうたんも、どこでもええからお前に触りたかっただけで」

「そうなん? 髪の毛だけ好きなんやと思てた」

「そんなわけあるか! 全部好きやからな!」

 福の頭を両手でそっと包み込む。頬を押しつける。硬くも柔らかくもある、ぬくぬくとしたこの丸み。

 誰も触れたことのない処女地に踏み込むことを許されているという、この喜びはどうだ。

「福の頭、すべすべしてて、めっちゃ気持ちいい。大好きや」

 触覚で捉えられないほど細いてっぺんの髪や、下るほどに肌を隠そうとする黒くて柔らかな髪もいい。頭と同じ感触の額を撫でると、福は甘えるように俺の首に頬をすりつけた。

「全部、俺のもんにしたい」

 頭に唇を押しつける。指では感じ取れなかった和毛が、俺の唇をくすぐってくる。

 こんな幸せは初めてだ。

 俺の全身から福が好きだという気持ちが溢れる。

「福は見た目めっちゃええし、性格ええし、頭もええし、完璧やん。やから、これが弱点やて思うんなら弱点にしとけばええやん。一個くらい弱みがあってもバチ当たらへん。俺からしたら頭も可愛いから、今の福も完璧や。な?」

 福は俺を見上げて、照れたように笑った。

「うん」

「福、会うのこれっきりとちゃうよな?」

「うん」

「ずっと一緒にいよな」

 淡く発光して見える福の頭をかき抱きながら、俺は思いつく限りの約束をし続けた。



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