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4話 悪魔の契約

 身体が痛い。

 意識がぼんやりとしている。

 あれからどれくらいの時間が経ったのか分からない。


 リリカは瞼を開き、周囲を見回した。

 辺りは真っ暗で、目の前から縦に細く、青白い光が差し込んでいる。


 どうやらここは何かの倉庫のような場所で、時間帯はたぶん夜……だと思う。


「縄……動けませんね……」


 腰の辺りで柱に縛り付けられ、ご丁寧に手脚まで拘束されている。

 身体を捻って脱出を試みるが、この状態から抜け出すことはかなり難しい。


 リリカはぼんやりと目の前の光を眺める。

 半開きになった戸から漏れ出る月明かり……僅かに覗くその満月を見上げ、リリカはぶわっと涙を溢れさせた。


「嫌だ~!! 死にたくないですよ~っ!! まだ死にたくないです~っ!! パパ! ママ~! 神父様~っ!! 助けて~っ!!」


「おい! うるせえぞ!!」


「ひっ、ごめんなさい……っ!」


 勢いよく叩かれた扉を涙目で見つめ、リリカはボロボロと涙をこぼす。


「なんで私がこんなことに……ん?」


 目の前に、月明かりを受けて輝く"何か"が転がっている。

 身を捩り何とか足でそれを引き寄せる。


 ネジだ。


 外の男が叩いた衝撃で扉から外れて落ちてきたのだ。


「神様!! リリカを助けてくれるのですねっ!!」


「黙らねえと殺すぞ!!」


「はい! 黙ります!!」


 リリカはなんとか釘を手元まで持ってきて、それを指で摘まむことに成功する。


「さて……ここからどうしましょう……」


 順当に考えれば、ネジをのこぎりのように擦り付けて手の拘束を外し、そこから身体を捻って胴の拘束を外し、次に足を……という順序になりそうだが……。

 もっと時間のかからない方法はないだろうか。


「は……! もしやリリカは天才かもしれません!!」


「黙れっつてんだろ!! ぶっ殺されてえのか!!」


「ごめんなさい!!」


 リリカは後ろ手に釘を使って服の背面下部に穴を開け、そこを基点に手の稼働が許す範囲で布地を引き裂いた。身体を捻って服の皺を出来る限り前方へと寄せ、身体をもぞもぞしながら背中側を裂いていく。


「はぁ……はぁ……。結構難儀しましたが何とかなりそうです……」


 最後の一捻りで背部の布地を完全に破ききり、前方の布地を咥えて上へ上へとに引っ張っていく。背面が開いているので布地は全て前方へと引っ張られ、最後には腕だけ着た状態になった。


 胴回りに数センチの余裕が生まれ、そこから腕を引き抜き、そのまま胴の拘束から抜ける。

 あとはどうとでもなる。

 全ての拘束を外したリリカは立ち上がり、ようやく背後を見ることが出来た。


「なんですかここ……滅茶苦茶デカいですよ……!」


 どこかの商会が保有する集積場だろうか。

 リリカは倉庫内を奥へ奥へと進んでいく。


「正面にはあの男が居ますからね……出来れば裏口があればいいのですが……って、んん? なんでしょう、これ……」


 目の前に、黒い布を被せられた大きな物体が鎮座している。

 大きさは教会のテーブルと同じくらいか、それより少しだけ大きい。

 中身は布に隠されているにもかかわらず、重厚感のある荘厳な雰囲気が辺り一帯を支配している。


 なぜこんなものに目を惹かれたのか分からないが、リリカはこの謎の物体を前に生唾を飲んだ。


 どうしても気になる……。


 振り返り、倉庫に誰もいないことを確認する。

 めくってみたらドラキュラ入りの棺桶だったりして……なんてくだらないことを考えながら、その物体を覆う黒い布を捲り取った。


 その瞬間、あまりの衝撃にリリカは大きく息を吸い、思わず叫びそうになる。


「ピ、ピピピピピ……んんっ!!!」


 咄嗟に口を押さえ、それからあまりの動揺で身体を小刻みに震えさせる。


 それはピカピカに磨かれた、こんな倉庫にはあまりにも場違い過ぎるグランドピアノだった。


 アップライトのピアノですらリリカは触れたことがないのに、目の前に夢にまで見たグランドピアノがあるのだ。

 妖艶な雰囲気を放つ黒光りするボディにリリカは頬を緩ませ、心臓の鼓動が加速する。


 弾きたい……。


 駄目だってことは分かってる。

 そんなの当たり前じゃないか、こんなの弾くの自殺行為すぎる。

 たぶん、というか確実に男にバレて殺される。


 だけど、だけど、だけどだけどだけどだけど…………!!


 リリカはじゅるりと涎をすする。

 ピアノへと伸びる正直な右手を、理性の左手が全力で食い止める。


 ダメだダメだダメだダメだ。

 だって、これを弾いたら絶対に殺される。


「いひひ……うへへぇ……っ!」


 ダメだった。

 リリカは鍵盤蓋に手を掛け、それを持ち上げた。


「おひょ~!!!」


 真っ白な鍵盤の列がお行儀良くならび、黒鍵が蠱惑的にこちらを誘っている。

 完全に演奏待ちの状態だ。


 もちろん、これはリリカの主観的な感想だが……。


「はぁ……っ! はぁ……っ!!」


 鍵盤に手を添え、あとは力を込めるだけで打鍵出来る状態。

 音を出せば絶対に気付かれる。

 だけど、リリカはずっとピアノが弾きたくて弾きたくて弾きたくて、我慢して我慢して我慢して……。


 このチャンスを逃せば、きっとこんな機会やって来ない。


 そう思った瞬間、リリカの指は勢いよく鍵盤上を駆け巡った。

 夢にまで見た打鍵感、自ら音を奏でることへの歓喜、本物のグランドピアノの響き……!!


 ベートーヴェン

 ピアノソナタ第29番『ハンマークラヴィーア』


 作曲当時は演奏不可能とさえされた難曲だ。

 要求される要素があまりにも膨大かつ高度であり、これを演奏出来る演奏者の数は現代でも非常に限られる。


 そしてこの曲の異常性は、当時のピアノでは出せない音が楽譜に記載されていたという事実……。

 作曲者や演奏者のみが過酷なのではなく、この楽曲はピアノという存在そのものに対してさえ残酷に向き合った。


 あまりにも高度で幅広い技術要求はベートーヴェンが妥協のない完璧な仕事をした証明であり、これを弾ききることはピアニストの誉れと言っても過言では無い。


 それほどまでに、このハンマークラヴィーアは、ピアノソナタの中では最高峰の楽曲として名高い存在なのだ。


 リリカは狂気に満ちた瞳で、極限染みた指の動きでハンマークラヴィーアを紡いでいく。


 ()()()()()()()()


 それはリリカ自身の人生の投影だ。

 指が激しく舞い、音が強烈に響き渡り、旋律が夜を支配する。

 

 扉が開き男が入ってくる。

 構わない。


 こちらへと叫びながら近付いてくる。

 構わない。


 肩を掴み演奏を止めようとしてくる。

 構わない。


 今はただ、この音に酔いしれていたい。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そう思った瞬間、誰かが耳元で囁いた。


『本当に、命を賭けて私を弾いてくれる……?』


 それが誰の声かは分からなかった。

 だけど、リリカは勢いよく打鍵し、答えた。


「はい! リリカは、演奏するためだけに生まれてきましたから!!」

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