24話 幻想即興曲
『君達は私の演奏から解釈やスタイル、フレージングを学び取るだろうが、私のタッチは真似しないように』
フランツ・リストはピアノの狂人であった。
ヴァイオリンの狂人・パガニーニを追い、ひたすら近道を全力疾走で駆け抜けた。
それが彼の生き方だった。
『私には上手くいったが、君たちには私の模倣は勧めない。なぜなら、私と君たちは違うからだ』
リストには並外れた才能があった。
しなやかで素早く、なおかつ精密に動く強靱な"手"を持っていた。
彼の手はどんな無茶でも実現した。
だから、彼のやり方を真似すれば常人は壊れてしまう。
対してショパンは結核を患った虚弱体質のピアニストで、音楽家の中でも手の小さい部類に振り分けられる。
しかし彼は、自らの弱点を武器の領域にまで昇華させた。
指の柔らかい関節はよく開き、鍵盤上を10度まで支配した。
決して強くない力は繊細さを際立たせ、儚く美しいピアニシモを得意とし、ショパン特有の世界観を作り出した。
クロはそんなショパンの生き様に深く感銘を受け、ピアニストとしての道を歩んできた。
彼女の身体は生まれつき小さく弱く、必要以上に繊細だった。
胃が小さいため食事の量が少なく、満足に栄養が取れないため活動力も低い。
血圧が低く、一日のほとんどをぼんやりと過ごす日も多い。
スポーツも勉強も芸術も苦手だった。
どんくさくて、同年代の子供達は誰もがクロを馬鹿にした。
親や大人達からは憐れみの目を向けられるか、さもなければ何度もキツく叱られた。
クロには何の才能もない。
身体が小さく弱いということは、人生の全てにおいて弱いということだ。
生まれたその瞬間から「弱い」という十字架を背負わされ、どうしようもなく落ち込んで泣いた。
だけど、今のクロはこのライディアナ王国最強のピアニストだ。
(ショパンが私に勇気をくれた……!)
クロの打鍵は熱を帯び、泣きそうなほどに繊細な音色が聴衆の心に深々と突き刺さる。
それは細く細くひたすらに細く……薄く、薄く、薄く……極限まで研ぎ澄まされたレイピアの刃だ。
叩けばすぐに折れてしまう。
斬ることさえままならない。
だけど、細く薄い刀身は他のどの刃よりも深く突き刺さる。
薄くて細くて弱いけれど……クロは、それが武器になるとショパンから学んだのだ。
弱さを受け入れる勇気が強さに繋がる。
それをクロはこの世界で誰よりも深く知っている。
「私は……負けない! 負けられない!! 負けたくないッ!!!」
刹那、彼女の指はこの決闘の全てのしがらみを打ち捨て、絶叫するように次の音色を奏でた。
フレデリック・ショパン
「幻想即興曲」
悲愴的な音色が響き、そして、有無を言わさぬ素早さで音符の連打が駆け巡る。
ショパンの最も有名な楽曲で、彼の残した「遺作」だ。
クロの行為に聴衆たちがざわついた。
この戦いは作戦変更なしの、一曲のみの決闘だ。
つまりこれは明確なルール違反……。
彼女の行為はこの場の誰にも理解し難い行いであった。
しかし、クロ本人には全てを投げ捨ててでも、この曲を弾く意味があった。
今まで、全ての戦いを一撃必殺で終わらせてきた。
だけど今回は違う。
譜面台越しに、クロは思わず目の端に涙を浮かべながら、彼女の顔を見据えた。
彼女はきっと、自分の終生のライバルなのだ。
「聴いて! 私の……本気を!!」
弾き始める前の小馬鹿にしたような態度はもうどこにもない。
クロは自らの全てを曝け出して、鋭く研ぎ続けたレイピアのような音色をリリカの喉元へと突き付ける。
これを拒まれたら、もう自分は死ぬしかない。
そう思うほど、熱烈な旋律を奏で……
フランツ・リスト
「愛の夢」
その音色に、クロは嬉しさに涙を零した。
彼女は自分の意図に応えてくれた。
国王の命令や因縁なんてもう関係無い。
二人は決闘を越えたところで、自らの信念の上で戦うことを選んだのだ。
クロの選曲は「幻想即興曲」。
ショパンは完全ではない楽曲を発表することを嫌い、自分が死んだ時には未発表の楽曲は全て焼却するように友人に言い残していた。その遺言に反して、彼の友人が勝手に発表したのがこの幻想即興曲だ。
ショパンはこの曲に納得していなかったかもしれない。
だけど、この楽曲は多くの人々に好意的に受け取られた。
「リリカ・クラヴィーア……私は、あなたと戦うために生まれてきた……」
クロは決闘のルールを破って演奏することを選んだ。
ショパンの友人のように、自らが良いと思った選択のために。
リリカは繊細に指をしならせ、優しく暖かい、頬を伝う涙のような旋律を奏でる。
リリカの選曲はリストの「愛の夢」だ。
リストとショパンは終生のライバルだったが、虚弱体質のショパンはリストより37年も早く死んでしまった。
二人は出会った当初こそ仲のいい間柄だったが、次第に周囲の環境の違いからか、険悪な仲へと変わってしまった。
リストはショパンの演奏を痛烈に批判し、ショパンもそれに意趣返しとして公然とリストを批判した。
二人は結局仲違いしたままショパンの寿命を迎える形で死別してしまったが、リストは後年になってショパンの功績を称え、その音楽性を非常に高く評価している。
「愛の夢」はショパンの死後に作曲された楽曲だ。
そして、この楽曲はリストのアクロバットな超絶技巧の楽曲というよりも、むしろショパン的な儚さを感じさせる、優しく美しい音楽だ。
地上の喜びを捨て、喜んで死んだ殉教者を讃える第一楽章。
愛の喜びの眼前で死に、愛の喜びによって再び目覚める第二楽章。
墓前で悲しむ前に、誤解の無いように接し、愛せるうちに愛せと歌った第三楽章。
「愛の夢」の愛とは、恋愛の愛ではなく、人間愛の愛であった。
そしてこの主題を読み解いた上で「愛の夢」の音色を聴くと、自然とかつてのライバルであり友であったショパンのことが想起されるのは、とても思い過ごしとは思えない。
遺作を奏でるクロに対して、その意志を継いだ楽曲を奏でるリリカ。
二人の天才が天国で和解し、願わくば、かつてのように共に音楽を楽しんでいることを願いつつ……。
二人はそれぞれの楽曲を優しく弾き終え、それから顔を見合わせて笑った。
クロは涙を拭い、リリカは鍵盤に指を添え、彼女に続きを促す。
それぞれの想いは十分に伝わった。
だから、その上で最後の一曲を弾きたい。
クロは目の端を赤く腫らして、嬉しそうに微笑み、盤上に指を踊らせた。
フレデリック・ショパン
「練習曲集第十二番 『革命のエチュード』」
対してリリカも、それに呼応するように指をしならせる。
フランツ・リスト
「パガニーニによる大練習曲第六番『主題と変奏』」
あまりにも対称的で、だけど少しだけ似ているところもある。
互いに相容れない存在だけれど、その技量を認めてもいたライバル同士。
『ショパンは魔術的な天才だった。誰も彼に匹敵する者はいない』
『リストが僕のエチュードを弾いているんです。そのせいで僕はいま何も考えられない。彼の演奏技術を盗みたいくらいです』
ライバルがいるということは、こんなにも豊かに、人生を彩ってくれる。




