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『Mephisto-waltz』~異世界音楽ファンタジー~  作者: 高橋
四章 魔術師と詩人編
27/31

23話 全てをピアノに捧げたからこそ

 フレデリック・フランソワ・ショパン――

 人呼んで……ピアノの詩人。


 歴史上の人物で「ピアノ」と言えば誰のことを思い浮かべるだろう?


 恐らく多くの人はショパンのことを思い浮かべるはずだ。

 少しピアノを習ったことのある人ならチェルニーかもしれないし、その他の中世・近世の作曲家たちの多くもピアノの名手だった。


 しかし、フレデリック・ショパンはその中でも格別にピアノとの結びつきの強い音楽家だ。


 ベートーヴェンの時代を経て、「ロマン派」と呼ばれる一派が音楽の時代を担うようになった近世のヨーロッパ。

 そこがショパンの生きた世界(じだい)だ。


 演奏に音楽以外の表現を結びつけた新しい形式が広まり、楽劇や交響詩、表題音楽などが群雄闊歩する魑魅魍魎の世界の中で、ショパンはあくまでも「ピアノの音」にのみ拘り続けた。


 というのも、彼が作曲した楽曲の数は200曲以上。

 そのうちの約九割以上がピアノ用の楽曲なのだ。


 クロは繊細に指をしならせ、細やかに音の粒を弾けさせる。


 「英雄ポロネーズ」は弾き手によって色が変わることで有名な楽曲だ。

 気品に満ちた美しい顔立ちの英雄、力強く凱旋する戦帰りの英雄、これから遠征に赴く気迫に満ちた英雄……演奏するピアニストによって様々な顔の英雄が現れる、聴き手にも弾き手にも面白い、とても楽しめる楽曲だ。


 そしてクロの演奏は、どこか繊細で、憂いを帯びた英雄の姿を想起させる。


 きめ細やかだけれど、どこか危うげで割れてしまいそうな脆い雰囲気。

 割れたガラス片を散らしたような、煌びやかで、だけど触れるには危険すぎる音色。


 誰も寄せ付けない、憂いの影を纏った英雄の後ろ姿が観客たちの心を攫っていく。

 それはこの世のどこにもない寂しい理想郷(ノスタルジー)だ。


 クロの演奏は文字通り異常だった。


 彼女が音を奏でた瞬間、そこにいた誰もが切なさに胸を押さえ付け、思わず涙が零れそうになる。

 彼女は自らの音楽によって、聴衆たちに恋をさせてしまったのだ。


 美しく儚い英雄の、存在しない後ろ姿が、聴衆の心の中に秋風のように去来する。

 誰も彼をとらえることは出来ない。

 風のように、心に実った恋心を連れて、気付いた時には消えて無くなっている。

 後に残るのは、心の中にぽっかりと空いた切ない空白だけ。


 クロの英雄ポロネーズは悲しい曲だった。


 英雄は、いない。


 これは演奏であって人ではない。

 その事実がこれほどまでに残酷に心を奪い、蝕み、胸を焼く。

 ピアノの表現を極めたショパンに、クロという天才の演奏が重なり、幻想が空間を支配する。


「凄い……」


 聴衆の誰かが呟いた。


「英雄ポロネーズはショパンが名付けたタイトルじゃない。彼の弟子の誰かが、この曲に「英雄」を感じて、勝手にそう名付けたんだ……。だから、最初から英雄なんてどこにもいない。それでも俺たちは……この曲の中に英雄の姿を見てしまう……」


 人々の理想だけが加速して、空想の世界へと誘われる。

 そこに現実の英雄は存在しない。

 あるのは虚ろな幻影だけだ。


 しかし、英雄という概念そのものがこの楽曲と似ているのかもしれない。

 はじめから英雄として生まれてくる人間などは存在しない。

 人々の想いを受けて、奉り上げられることによって、後天的に英雄は誕生する。


 この楽譜に英雄はいない。

 演奏によって作られるのだ。


 幻影だからこそ弾き手によって色が変わる。

 特定の誰かではなく、存在しない名も無い英雄だからこそ、それぞれが別の回答を出す余地が存在している。


 クロの出した解は、寂しい理想郷だ。


 遠いからこそ、美しい。

 触れられないからこそ求めたくなる。

 恋は実るまでの過程が一番楽しいとはよく聞く言葉だが、彼女の演奏の美しさは、決して実らないからこその恋のときめきに近いのかもしれない。


 彼女の演奏は、今までのリリカやララやセシリアの演奏とは、根本からレベルが違う。

 表現力が圧倒的なのだ。


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 リリカの演奏の奥に、仁王立ちする王者の幻影が現れ、厳かに聖剣を引き抜く。

 その情景を前にクロは思わず息を飲んだ。


「まさか……」


 クロが聴衆のほうに視線を移すと、彼らもまたリリカの背後に同じ幻影を見ているようだった。

 目の(リリカ・)前の敵(クラヴィーア)の表現力は、クロと同じ領域に達している。


 炎を纏った剣が音符を斬り裂き、荒々しく一歩踏み出す。


 リリカの選曲はフランツ・リストの「マゼッパ」。

 実在するウクライナの英雄「イヴァン・マゼーパ」を題材とした交響詩であり、リストはこの題材を四度に渡って採用している。


 15歳、26歳、29歳で三つの練習曲を作成し、40歳でこの交響詩を書き上げた。

 それだけリストにとって、この英雄の姿は鮮烈に心の奥底に焼き付いたものだった。


 クロの虚構の英雄に対して、リリカの実在性を持った英雄が相対する。


「この戦い……とんでもねえことになるぞ……」


 リリカはギラギラと目を輝かせ、それに対してクロは口端を上げた。


 ショパンとリストは同時代の音楽家だ。

 そしてライバル同士の関係でもあった。


 「ピアノの詩人」と「ピアノの魔術師」


 小さく脆い手を持ち、貴族のサロンを中心に演奏を披露していたショパンに対し、リストの手は凄まじく強靱で、どんな速さでも、どんな強さでも弾くことが出来た。

 そして、彼は民衆を相手にした演奏会を活動の中心としていた。


 彼が生涯に作曲したピアノの曲の総数は……なんと7()0()0()()()


『私はピアノのパガニーニになるのだ!! さもなければキチガイになる!!』


 リストは悪魔に魂を売って超絶技巧を得たとまで言われた史上最強のヴァイオリニスト、パガニーニに憧れ、自らも超絶技巧を極めた。

 あらゆる交響曲、あらゆるオペラをピアノ用に編曲し、その全てを自らの血肉へと変え、彼は文字通り悪魔的な演奏技術を得るに到った。


 リストはこの世の全てをピアノで表現する、悪魔のピアニストだ。


 クロの英雄のしなやかな剣捌きに、リリカの英雄の凄まじい威力の剣撃。

 あまりにも対称的な二つの音色に、ある者は息を飲み、ある者は怯えだす。


 聴衆の一人が震える声音でこう言った。


「この戦いは……リストとショパンの代理戦争だ……!」

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