第6話 月鬼
シロの背後に墨で塗り潰したように黒く、見上げるほど大きな化け物がいた。人間よりも遥かに大きく、頭の両側から長く鋭い角が生えている。不気味に光る紅い瞳が二人を静かに見つめていた。
まるでおとぎ話に出てくる鬼のような姿だった。
化け物の後方には、いつの間に昇っていたのだろう。化け物の瞳と同じ色の、不気味な紅い月が照らしていた。
「……シロ。こっちおいで」
仁が手を伸ばすが、シロはじっとこちらを見ているだけで近づいてこない。
「ほら、危ないから。シロ」
感情が抜け落ちたような、黒々とした瞳。
「なぁ、シロ! こっちに来いってば!」
ガアアアアアアっ!!!!!
鼓膜が破れそうなほどの強力な咆哮が仁たちを襲った。びりびりと体が痺れを覚える。化け物は恐怖に青ざめる仁を睨み付け、狙いを定めたように飛び出した。
巨体に似合わない、素早い動き。
逃げなければいけないのに、麻痺したように体が動かなかった。震える手に、緋鞠の温かい手がそっと重ねられる。
「大丈夫」
化け物が太い大きな腕を振りかぶった。長く、ナイフのように鋭利な爪が月明かりにきらめく。緋鞠が仁を引き寄せてしゃがんだ。爪が頭上を通りすぎ、化け物の動きが止まった僅かな隙──。
──バンッ!!
緋鞠は化け物の顎を蹴り上げた。まるでボールのように化け物が後方に吹っ飛んでいくのを、仁は唖然として見ていた。
轟音と土煙。
廃材に突っ込んだ化け物の腕が、ぴくぴくと痙攣したように震えている。
「銀狼、先に行ってて!」
「がうっ!」
緋鞠が声をかけるのと同時に、銀狼が化け物に向かって駆け出した。緋鞠はサコッシュから短冊を出すと、仁に向かって放つ。
「結界構築」
ヴォォン!
短冊が青白い光となって、仁を包み込んだ。
「これでちょっとは大丈夫。危ないから、ここから動かないでね」
「待って! さっきのやつは何? シロは?」
「あれが昼間に話した月鬼。紅い月が昇る夜にだけ地上に現れて、霊力を狙って人や妖怪を狙うの。シロちゃんは死んでからも霊体として、魂がここに残っていたみたい。だから、ここに月鬼が現れたんだと思う」
「じゃあ、あの化け物はシロを狙ってるの!?」
「……あの様子だと、シロちゃんの霊力の一部は喰われてる」
ショックを受けている仁の肩に、緋鞠はそっと手を置いた。
シロは月鬼が現れる直前に、仁の前に姿を現した。そして、仁にまとわりつく黒い影は、仁を初めて見たときよりもさらに濃くなっている。
その影は、月鬼が霊力に干渉した印だった。
普通、霊力が強くない人間は月鬼に狙われにくい。
しかし、月鬼がシロの霊力を喰らったことで、最も縁が強く結ばれている仁に影響が表れたのだろう。
「酷なことを言うかもしれないけど……」
はっきりと、言わなければ。
シロはおそらく助からない。月鬼に霊力を喰われたせいで、魂さえも消えて残らないだろう、と──。
(……本当に方法はない?)
迷った瞬間、強い殺気が体を貫いた。
仁を引き寄せ、とっさに飛び退く。月鬼が凄まじい勢いで、緋鞠の横を通りすぎた。迷っている暇などない。
「仁くんはここにいて! 絶対に近づいちゃだめよ!!」
「ちょっ、緋鞠!」
緋鞠は近くに落ちている鉄パイプを拾い上げ、短冊の一枚をパイプに貼った。
『斬』
パイプに斬る能力を付与する。
短冊は“霊符”と呼ばれる札だった。
緋鞠には月鬼を倒す力はまだない。けれども、封印することくらいは出来る。その際に、仁とシロの縁も切る。そうすれば仁に影響は出ない。
……だけど、そうしたら。仁とシロは二度と会えなくなる。夢の中や思い出の中でさえ、仁はシロのことを思い出せなくなってしまう。
月鬼が腕を振り上げた瞬間、緋鞠は懐にすべり込んだ。懐を斬れば、さすがの月鬼も動けなくなるはずだ。
「なっ……!?」
月鬼の影の中からシロが飛び出した。月鬼が喰らった霊力の一部を使ってシロを再現したのだ。
シロはただの影だ。本物じゃない。何を迷う必要があるのか。
緋鞠はぎゅっと鉄パイプを握る手に力を込める。
縁を、斬る──!
迷いを断ち切るように、鉄パイプを振り上げた。
「やめてくれぇぇ!!」
仁の叫び声に、腕が止まる。月鬼の拳がすぐ脇から来たことにさえ、気づけなかった。とっさに霊符を盾にしたが、間に合わない。
ガッ──!
脇腹に強い衝撃を受けた緋鞠は、ガラクタの山まで吹っ飛ばされた。
「かはっ……!」
一瞬、息が止まった。脳が揺れて視界が定まらない。ガラクタが崩れないだけ、運が良かった。
「緋鞠!!」
仁の声が耳に届く。
──守らなきゃ……。
立ち上がろうと力を入れても、指一本も動かせない。負傷した腕から血が流れ、地面を染め上げいき、だんだんと視界が霞んでいく。
仁の声に緋鞠は一瞬、躊躇してしまった。
あのまま月鬼をシロごと、斬ればよかった?
……そしたらきっと、仁の心まで斬ってしまっていただろう。
彼は本来なら、月鬼と何にも接点を持たなくていいはずだった。
偶然、シロを失った。たまたまシロの霊力が、月鬼に喰われてしまった。
ただの偶然で、ただの不運で。
大切な思い出まで、失わせたくなかった。
──でも、どうして、シロはここに残っていたのだろう……?
月鬼がガラクタの山に埋まった緋鞠に向かってゆっくりと近づいてくる。
緋鞠の霊力──月鬼の餌が転がっているのだ。見逃すはずがない。銀狼も必死に月鬼に攻撃を仕掛けているが、相手にせずこちらに向かって来る。
意識が遠退いていく。
もう、一歩も動けそうになかった。
「あっちいけよ、化け物! これ以上、緋鞠は傷つけさせないからな」
鉄パイプを握った仁が、月鬼から守るように、緋鞠の前に立った。恐怖で身体ががたがたと震えているのに、必死に緋鞠を庇っている。
無理だ。
殺される。
逃げて。
せめて、あなただけでも。
そう言いたいのに、声が出ない。
一人では無理だ。ましてや、陰陽師でもないただの少年だ。銀狼にだって月鬼を倒すことは不可能なのだから。
逃げてって、一言だけでも言いたい。口を開いた瞬間、緋鞠の瞳に信じられないものが映った。
仁の傍らに、白い影が現れた。
緋鞠が斬るのを躊躇ったシロだった。
(……ああ、そうか。ずっと傍にいたんだ)
仁とシロは少しも離れていなかった。
それほどまでに、強い縁を結んでいたのだ。
シロは無意識に、仁に自身の霊力の一部を渡していたのだろう。だから死んでいたのに関わらず、居場所を追跡出来たのだ。
緋鞠は腕に力を入れ、ゆっくりと起き上がる。少し動けるぐらいには回復出来た。
仁の横に立つと、驚いた表情で緋鞠を見た。
「緋鞠! まだ動けないだろ」
「大丈夫……」
鉄パイプを受け取ると、銀狼の声が頭に響いた。
『俺が足止めするから逃げろ。無理をするな』
『大丈夫だよ。どうすればいいか、わかったから』
月鬼の背後からこちらを見つめる金の瞳と目があった。しっかりと頷くと、銀狼が月鬼への攻撃をやめる。
緋鞠は、仁に一枚の霊符を託す
「これを持ってて。絶対に離しちゃだめだからね」
「わ、わかった!」
仁が頷いたのを確認し、緋鞠は再び月鬼を見据えた。足に『軽』と『速』の霊符を使用し、たっと駆け出す。
初めから間違っていたのだ。シロと仁の縁が問題なのではない。
月鬼が近づかせまいと投げてきた鉄筋を、パイプで切り捨てた。次々と投げてくる木片や廃材の間を掻い潜り、振り下ろされた腕に飛び乗る。追い払おうと振り払う力を利用して、月鬼の頭上に飛んだ。
──月鬼の頭と紅い月が重なって見えた。
「やあああっ!!」
一切の迷いなく、月鬼の頭から腹までを一気に切り裂く。
額から腹まで開きのようにされた月鬼は、あたりを揺るがすほどの咆哮を上げた。
「銀狼!」
それまで後方で緋鞠を見守っていた銀狼は、だだっと駆け出した。緋鞠が引き裂いた月鬼の腹の中から、素早く青白い光を放つ小さな珠を咥え取る。その隙に、緋鞠はありったけの霊符をばら蒔いた。軽く指を合わせた印を結ぶ。
「唵」
霊符が踊るように空中に舞い、月鬼の動きを阻むように囲んだ。何かを感じ取ったのか、体が崩れるのも構わず両腕を上げて暴れる。
「──もう遅い!」
握り潰すように指を折り曲げ、腕を交差させる。月鬼の顔に、ビシッと亀裂が走った。
「封印!!」
月鬼が断末魔を上げながら、強く輝く光の中に吸い込まれていく。
霊符がその光を吸収しきると、ビー玉サイズの紅い珠となって地面にぽとりと落ちた。
「ふう……」
これでもう、大丈夫。
ほっとすると、体から力が抜けていった。
「緋鞠!」
どさりと、地面に倒れ伏す。
仁が緋鞠の身体を揺すって、必死に呼びかけてくれるが、もう限界だった。
緋鞠は意識を手放した。