コーンフロスティ山月記
空腹だ。心窩部に空洞ができたのではないかと錯覚するほどに空腹だ。
秋の早朝の風は酷く冷たくて、私は薄い安物のシャツワンピの中の身体をガタガタと震わせていた。
それもこれも貧乏のせいだ。都会の一人暮らしというのは、とかく金がかかるものなのだ。特に私のような大したバイトもできない浪人生なんて、予備校に通って家賃を払うだけで精一杯だ。
私は、既に痛みに変化してきている空腹感を和らげるように胃に手を当てた。駅のホームで一人、哀れな浪人生の女が背中を丸めてひもじさに耐えている。なんとも情けない姿だ。
いつもは混雑している筈の駅が、土曜日のせいだろうか、全く人の気配がしない。おかげで余計に寒く感じられる。下宿しているボロアパートよりも予備校の自習室の方が快適だし、あわよくば食べ物にありつける可能性があるやもしれぬと思って出てきたものの、この予想外の寒さとひもじさで既に私は、「失敗した…。やっぱり家で布団かぶって寝てればよかった…。」と後悔することしきりであった。
とは言うものの、折角駅まできたのだ。ここまで移動してきたカロリーを無駄にはしたくない。きっと電車の中は暖かい筈だ。そんな私を勇気づけるように、電光掲示板の表示が変わりスピーカーから電車の接近を告げる音声が流れた。駅に電車がやってくる、こんな当然の現象に私の心は小躍りした。いや、もうヨサコイソーランくらいは踊っていたかもしれない。私は妙に浮かれたステップで、炎に引き込まれる蛾のようにフワフワとホームの端に向かって歩き出した。
右足の爪先が、白線を踏んだ瞬間だ。私の眼球が、あたかもコンセントを引っこ抜かれたかのように、視界がブツンと暗くなった。頭蓋がフワッと無重力を感じてから一転、私の身体は一気に猛烈な引力を発揮する地球さまに向かって落下を始める。…落下?そう落下。ホームから転落しているのだ。
え、ヤダ。どうしよう、賠償金!死んじゃうし、困っちゃう!!
思考が亜光速で駆け巡る。
た、す、け、て、ええええええ!!!!
見えぬ目を閉じ、声になったか成らなかったか判らぬ絶叫を発した私は、どうした訳か、死んでいなかった。
冷たい地面に激突する直前、猛スピードで突進してくる巨大な金属製の死神が、いよいよ私を跳ね飛ばそうという、その一瞬前、私の体は何者かに釣り上げられたのだ。
ちょうど、棒高跳びの背面跳びのように臍を天に向けたポーズで、動画を逆再生するかのような反重力の不可思議な動きで、私はホームの真ん中程に設置されている木製のベンチにやんわりと背中から着地した。
「朝はしっかり食べなきゃダメだよー!!」
底抜けに明るい、何故かひどく懐かしい声が、頭上から降ってきた。
食えるもんなら食っとるわい!!こちとら正真正銘の貧乏人なんだ!!腹を立てた私は、グワッと両目を開いた。
目の前にいたのは、トラだった。
本物のトラではない。ケロッグコーンフロスティのパッケージのトラ、トニーザタイガーだ。
いや、本物ではないと言っても、トニーザタイガーは偽物のトラではないのだが…。実在のトラではないと言うべきなのか。しかし、いまここに実在している…。実写ではない?でも今ここにいるし…。
私が瑣末な言語表現に拘泥して混乱しているのを知ってか知らずか、トニーは大ぶりな白いボウルにコーンフロスティ山盛りによそい、牛乳をたっぷりかけて、大きなカレースプーンとともに私に手渡した。
おおお!!食べ物だ!!!
昨日の昼から白湯より他には何一つとして胃に入れていなかった私は、もうこの世の全ての謎も疑問も不平不満も、この一杯のコーンフロスティの前に一切合切、跡形も無く吹き飛んでしまった。
銀色に輝く匙をシリアルとミルクの大海に突き入れる、天地開闢にも似たこの瞬間、ザクザクっという音が振動として右手に伝わってきた刹那、私は完全に無心になった。
私は全身全霊を持って、コーンフロスティを食べていた。口腔内に有機物が入ること、咀嚼出来ること、喉を炭水化物が通過すること、胃に質量を持った物体が落ちていくこと、血中ブドウ糖濃度が急上昇することの、この、魂が震えるような歓び!!!
「グーぅレイトぉぉぉ!!!!」
私は、我知らず叫んでいた。叫ばずにはいられなかったのだ。
全身に力が漲って来るのが、はっきりと判る。
「これで、キミもタイガーだ!!!」
トニーの声に大きく頷いた。そう、私もタイガー…って、あれ、わたし、本当に、虎になってる…?!
大きな肉球のついた毛むくじゃらの両手を唖然と見つめる私をおいて、トニーザタイガーは消えた。
ホームには虎になった私だけが取り残された。
そういえば電車も行ってしまった。
茫然とした私であったが、ホームと改札を繋ぐ階段から人の気配が感じられると流石にマズイと思い、なんとか身を隠せないかと辺りを見回した。然し乍らホームには木のベンチしかないし、私がコッソリしたところで虎の身体は巨大だし、全く隠れられそうにない。
気持ちは焦ったが、肉体には力が満ち満ちている。何気無くピョンと跳んでみたら、架線の上にヒラリと乗れてしまった。
おおお、これは憧れのネコバスじゃないか!!
私の胸は高鳴った。嬉しくて、楽しくて、とにかく本当にウキウキとした気分だ。こんな気持ちは上京1日目以来だ。私は架線の上を走った。今の私は風よりも風だ。
人々には私の姿が見えていないようだ。警察にも猟友会にも追い掛けられることなく、私は駅から駅へと飛ぶように都会の空を駆け巡った。
どれ程の時間が過ぎたのか、太陽がすっかり高くのぼり人々が上着を脱いだり袖を捲ったりしはじめた頃。
私は、ある駅の裏の薄暗い通りに、偶然にも懐かしい知人の顔を認めた。高校時代、同級生だったエンさんだ。本名は円だが、同級生は皆彼女をエンさんと呼んでいた。
エンさんは温厚な人柄でまあまあ成績優秀だったのだが、なにぶん外見が地味で、おまけにオタクで(しかも今時のアニメには全く詳しくなくて何故か80年代のアニメばかり見ているある意味本物のオタクで)、私同様に所謂スクールカーストの最下層だった。
エンさんは、相変わらず温和で地味な女子の見本のような外見だった。問題は、そのエンさんが「温和で地味な女子」の対極にあるとしか言いようのない、金髪ヤンキー男3人組に取り囲まれているということだった。
これは何処をどう見ても、エンさんの危機と言って差し支えないだろう。
高校時代、空気読めなくてボッチだった私といつも弁当を食べてくれた、体育の時間に2人組になってくれた、生理痛や偏頭痛で休みがちだった私にノートを見せてくれた、そんなエンさんに今こそ恩返しをする時がやって来たのだ!!!
架線のたわみを利用して、巨大なパチンコ玉のように、私はエンさんと不良どもの間に飛び込んだ。
「グーぅレイトぉぉぉおお!!!」
私は咆哮した。腹の底からの、全力の大音量だ。
全くなにも考えていなかった私だが、幸いエンさん並びに不良グループには巨大な虎の姿が見えたようだ。
エンさんは無音で腰を抜かし、不良グループは声にならない悲鳴と共に素晴しいほどの速さで消え失せた。
「ああ、危なかった。危なかった。」
私がホッと息をついて呟くと、エンさんが驚きの裏側まで突き抜けたかのような表情で、声を掛けてきた。
「その声は、我が友、リコではないか?!」
なんと答えたものかと、暫し考えたが、嘘をついてもどうしようもない。
「…如何にも、自分は浪人生のリコである。」
どう考えてもおかしな情景だ。だが、エンさんはこの奇妙な現状をごく自然に受け入れてくれたらしい。
「リコ、助けてくれてありがとう。…私みたいな田舎者には、都会は怖い事ばっかりで…。大学でも全然友達とか出来なくって、いつもリコに会いたいって思ってた。だから、本当にありがとう。リコに会えて嬉しい…。」
涙ぐんでいるエンさんを見て、彼女は私とは違った意味で限界ギリギリを生きていたんだなと、胸がギュウっと握り潰されるような痛みを感じた。
「エンさん、私の背中に乗ってよ。一緒に行こう。」
私は背中にエンさんを乗せて、再び都会の空を跳梁した。
エンさんは、「サムライトルーパーみたい!」などとはしゃいでいるが、私にはなんのことやら分からない。それでもエンさんの笑う気配を乗せて走るのは悪くなかった。
私は、線路の架線から街路樹に飛び移った。緑から黄色へと色が変わりかけたプラタナスの大きな葉の上をバッサバッサと駆け抜けた。
いつの間にやら、私たちは海を目指していた。何故かは解らない。ただ、なんとなく、こんな時には海だと思ったのだ。
街路樹から電線へ、電線からマンションへ、そして、線路の架線へ。私たちは季節外れの虎落笛を響かせながら駆けて駆けて駆けた。
胸いっぱいの潮風と青く輝く水平線が、私たちのものになったとき、いつの間にやら私はもう虎ではなくなっていた。
私とエンさんは、手をつないで海を見た。
エンさんは、私に5000円を貸してくれた。これで、生きていける。
海の色は、コーンフロスティの外箱の色だった。
参考文献 河上徹太郎編「日本文学全集34 梶井基次郎 嘉村礒多中島敦」昭和37年初版 昭和41年11刷