その守護対象、敵につき
__視線を感じる。ユーフィリナがありったけの勇気を振り絞ってそちらを見やると、彼の視線はもう外れていた。
また、だ。最近このやり取りを何度も交わしている。
ユーフィリナは人に加護を与える天使である。生まれたての赤ん坊の額にキスをして、祝福を与える。それはもう等しく平等に全ての人に。
だが、誰にでも失敗というものはあるもので、ユーフィリナは見習いから昇格した初めての仕事でやらかしてしまった。昇格の感動のあまり一人の赤ん坊に、うっかり祝福を与えすぎてしまったのである。
上級天使からこってり絞られたユーフィリナは猛反省した。その子がきちんと人の世で生きられているのかこっそり何度も見にくるくらいに。
その仔、茶色い髪に同色の瞳を持った彼の名をアルフレッドと言う。幼い仔には天使の姿が見えてしまう。だから初めはユーフィリナもこっそりひっそり、びくびくしながら覗きに来たものだ。
彼は人の世でいういわゆる平民で、今は兵に志願し、貧しい農村を出て王都に登っていた。
普段、祝福の仕事だけをしていたユーフィリナにとって、アルフレッドの成長を見守りながら人間の世界を覗きみるのは非常に興味深いことだった。
__加護を与え間違ったのが、貴族という人間でなくて本当によかったわ。
ユーフィリナが覗いた貴族という人間は、その社会の実権を握っていると言ってもよかった。加護によって運は上昇する。それによって人間社会の均衡を崩すことがなくて本当に良かった。
そうして長年見守るうちに、最近誠に不本意にも天使失格だ、と思うくらいアルフレッドに肩入れしている自分に気がついてしまった。
__だって戦争があんなに厳しいものだなんて知らなかったんですもの。
加護はどういう形にせよ、人間の生きる力を高める効力があると聞いている。
うっかり加護の分量を間違えて良かったと彼女が思うくらい、最近の彼の命はいつ消えてもおかしくなかった。
戦において身体能力の高かったアルフレッドの配属された部隊は、その最前線に近かった。しかも歩兵である。血で血を洗うその情景に、ユーフィリナは目を覆いたくなった。その戦争は長く続いた。
いつしか彼女は、死なないでと必死に祈っていた。
その頃からだった。彼がまるでユーフィリナを見ているかのような視線をよこすようになったのは。
彼女だって、視線が合えば逃げただろう。だが、彼はユーフィリナが見ていない時を狙っているかのように視線をよこすので、その瞳は決して合わなかった。
2年後、戦争で手柄を上げた彼は騎士に取り立てられていた。人で言えば立派な出世である。だが、ユーフィリナは素直に喜べなかった。騎士が戦いを生業としていると知ってしまったからである。彼女は彼が死にそうになるのを見るのはもう嫌だった。
「どうすれば良かったのかしら」
かつては守護天使という存在が人の仔一人一人についていたらしいが、人が増えすぎた今は生まれた時に加護を与える仕組みに変わったと聞いている。
ユーフィリナはまるでアルフレッドの守護天使のようだった。
__こんな関係間違ってる。
でも、もともと情深い彼女が20年近く見守った青年を今更放り出せるわけもなかった。
悶々と悩んで夜が明ける。最近は祝福の仕事の他はほとんどアルフレッドの側にいるようになる有様だ。
朝、アルフレッドはまだ外が薄暗いうちから、誰よりも早く起きて素振りをする。
「あまり無茶なことはしては駄目よ、身体を壊してしまうわ」
ユーフィリナは思わず彼の後ろから声をかける。
聞こえるはずがない、否、聞こえてはいけない声だった。
だが、彼は素振りを止めると、彼女に背を向けたまま話しかけて来た。
「天使様__ですね。そのまま聞いていただけませんか?」
ユーフィリナはとっさに羽ばたいて逃げようとした。でも__
「どうか逃げないでください。ずっとお礼が言いたかったのです」
彼の真摯な言葉に動きを止める。
「お礼?」
訝しげな声だったと思う。
「俺が、いや俺たちがあの戦で生き残れたのは、あなたのおかげです」
「私は何も特別なことはしていないわ」
「そんなことはありません。あなたは祈ってくれた。戦場に厭わず舞い降りて下さる天使様がどれだけおられるか、俺は知りません。ですが天使様にとってあのような場所は苦痛なのではないのですか?」
ユーフィリナは考えた。確かにあんな場所、アルフレッドがいなかったら頼まれても行かなかっただろう。
回答に詰まったユーフィリナを見て、アルフレッドは微笑んだようだった。
「もうひとつ俺の、夢の話を聞いていただけませんか?」
「夢?」
はい、と頷いて彼は続ける。
「俺は小さな頃から不思議な夢を見るんです。その夢には、金髪に緑の瞳の美しい女性が出て来て、寝ている俺を心配そうに俺を覗き込んだり、『ごめんなさい』と時たま謝ったりするんです」
__天使様。彼は呼びかけた。
「後ろを振り返る許可をいただけませんか?」
「……あなたには、私が見えていたのね」
__好きにすればいいわ。と告げると
「ありがとうございます」
彼はゆっくりと振り返った。
「やはり、あなただ。あなたはずっと俺を見守っていてくれたんですね」
「私は私の不始末の結果を見に来ていただけよ」
これ以上崇拝されては敵わないと、突き放し、うっかり加護の分量をまちがえてしまった話をする。しかし、彼は引かなかった。
「天使様でも間違えることがあるのですね」
面白そうに笑う。彼の笑顔を初めて正面から見たユーフィリナは、うっかり見惚れてしまった。
__これは不味いわ。
「どうしました?」
首をかしげる彼に邪気は見当たらない。だが、彼の瞳は真っ直ぐすぎて、ユーフィリナの奥にある自分でもわからない感情まで見透かされてしまいそうだった。
思わず目をそらした彼女に、彼は告げた。
「あなたには理解できないかもしれません。ですが、あえて言います。俺はずっと浅ましくも夢の中のあなたに恋い焦がれていました」
「戦場である日、祈るあなたの姿が見えるようになってから、幼い頃から夢の中に出て来た女性はあなたなのではと思うたびにこの胸が痛んで、あなたを苦しめる俺が嫌になった」
「今は俺の気持ちが理解できなくても構いません。ただ、この言葉を覚えていていただけませんか?」
彼はユーフィリナを覗き込み、視線を合わせてくる。あまりのその瞳の熱さに、ユーフィリナは自分が溶けてしまうのではないかと思った。
「もし、この言葉が原因であなたが去って行ってしまったとしても、あなたは、何も気にする必要はありません。俺は、伝えたことを後悔していませんから」
天使にとって恋は厳禁である。そして、普通なら理解できないはずの感情だ。ユーフィリナにとってもそうでならなければならなかった。
でも__今、彼女が目の前から去っていってしまったら、彼はどう感じるだろうか。彼女は考える、彼は後悔しないと言ったけれど、きっとショックを受けるだろう。それを嫌だと感じる自分にユーフィリナは驚いていた。それはあまりにも人間らしい感情だった。
「……私には難しいことはわからないわ。でも、私は今日あなたと言葉を交わして、それでお別れなんて寂しいわ」
これが彼女の告げられる精一杯だった。
「戦場であなたの無事を祈った私は天使失格なのかもしれないわ。だってあなたが生きるということは、敵国の兵士が死ぬということですもの」
複雑で、それこそ面倒臭い人間みたいな感情が、ユーフィリナには生まれつつある。
「あなたは私を天使と呼ぶけれど、もう私はそんなに尊いものではないのかもしれないわ、それでも私を好きというの?」
「はい。あなたはまぎれもなく天使ですよ。俺にとっては。あなたこそ、俺が清廉なものだと誤解しています。この感情はそんな純粋なものではないのです」
「俺はあなたが、この腕の中に堕ちてきてしまえばいいのにと思います。堕ちて、焦がれて俺なしでは生きられなくなってしまえばいいのに、その羽で飛べなくなってしまえばいいのに。俺はまるで__悪魔のようでしょう?」
少しだけ哀しく、けれど熱っぽく語る彼に、ユーフィリナは目眩がした。
だって、もう彼女はそのほとんどの時間を地上で彼のそばで過ごしている。
彼に絡め取られて、まるで蜘蛛の巣に貼り付けられた蝶のように、捕食されるのを待っている。そんな想像がありありとできてしまう。
「アルフレッド、あなたは本当に天使の敵だわ。」
目を瞬く彼にそっと告げる。
「私ね。ユーフィリナっていうの」
それは禁忌。人と天使は必要以上に関わってはいけない。でも、告げてはならぬ名前をあえて彼女は告げる。だって、もう彼に堕とされて、空は飛べそうにないから。
「ユーフィリナ」
アルフレッドが嬉しそうに、噛みしめるように名前を言の葉に乗せる。
ユーフィリナの胸は熱く潤み__
__そして、彼女は恋を知った。