レモンティー
二周目。
最終日。
十月十日。
日曜日。
天候は晴れ。
僕たちは市内一の繁華街で待ち合わせをした。
十三時からの約束だったが、交通機関の関係でニ十分早く到着した。
僕は待ち合わせの公園に設置されているベンチに腰がけた。
この時期は朝と夜の気温差が激しく、昼は夏のように暑いのに、夜は冬のように寒くなる日が殆どだ。
いわずもがな、どちらも本来の季節の厳しさには到底届かないのだが、僕たちはほんの数ヶ月前の苦しみさえもハッキリとは思い出せない。
喉元過ぎればなんとやらだ。
街の人々は、長袖と半袖を着ている人に分かれる。
たぶん、薄着の人たちは日が暮れる前に帰るのだろうなんて、正解を与えられない自問に自答する。
こうして行き交う人々を観察してみるのもたまには悪くない。
毎日しろ、と言われれば、それは億劫になってしまう程度の娯楽的趣味である。
暖かな秋晴れの下、座っているベンチはちょうど木陰に隠れるように配置されていた。
このベンチが待ち合わせに使われるだろうということを想定してまでのことだったなら、僕はこのベンチを設置することに関わった全ての方々に感謝したい。
そんな気持ちにさせてくれるほど、このベンチは居心地が良かった。
鞄の中の文庫本を取り出す。
今回は時間つぶしのためではなく、物語を楽しむために読書をする。
柔らかな斜陽は、手元の文字を照らし、手元の文字は、この世界に隠された小さな宝物の鍵をくれる。
そんなふうにして世界は、それぞれを必要として回っているはずだ。
今の僕は太陽の光をいっぱいに浴びているおかげで、脳内からセロトニンとメラトニンが分泌されて幸福感を感じているのだろう。
だからこんなにも緊張感のないふんわりメルヘンな思考回路になってしまっているのだろう。
僕の隣に腰掛けた人物は、こちらに向かって「おはよう」と言った。
僕がそれに返事をすると、今度は「ごめんね、待った?」と訊ねた。
このベンチから見えるところに設置されている時計台に目をやると、まだ待ち合わせの時刻まで十分以上あった。
僕は彼女の顔を見て「ううん、今来たところだよ」と返して、文庫本をパタンと閉じた。
その表情には少しの緊張と安堵が混じっていた。
僕たちは立ち上がることなく、しばらく優しい風に身を任せた。
彼女の柔らかい髪が揺れているのを、足元に伸びている影から知った。
視線を上げると、夏の間に生い茂った木々が、少しずつ衣替えの準備をして、秋本番を迎え入れる準備をしているのが目に入った。
季節は進んでいく。
気づかぬうちにひっそりと、そしていつもさよならを言わずに去っていく。
僕たち生物は、いつもいなくなってからじゃないと気付けない。
それが悲しくもあり、切なくもあった。
でも僕はそんな残り香のような寂しさが好きだった。
こんなことを考えてしまっているのも全部この過ごしやすい気温と降り注ぐ太陽光のせいだ。
全部セロトニンとメラトニンのせいだ。
「ここすごくいい場所だね。もう少しだけ、こうしててもいいかな?」
僕は肯定の態度を示した。
言葉も仕草もいらない。ただここにこうしていたいと思った。
なんて贅沢な時間の使い方なのだろう。
ぽかぽか陽気の中で僕たちは自然と笑みがこぼれる。
今、ここが世界で一番幸せな場所なのではないだろうか?
そんなことさえ思ってしまうし、僕の持っている貧弱な情報網の中では、ここに勝るスポットは登録されていなかった。
そんな幸せな頭で、もしかしたら幸せって何も知らないことなのだろうか。
だから赤ちゃんはあんなにも幸せそうに笑うのかな。
なんて、幸せになってしまっていた頭で考えていた。
十分に日光浴をしたあと、僕たちその場を後にした。
今日は堀池が木曜日のお礼をさせてほしいとのことで、お気に入りのカフェで奢ってくれるらしい。
いつものように雑談を交わし、僕たちは目的地へと向かう。
カフェは高架線沿いにあるビルの三階に店を構えていた。
古ぼけたビルは周りの建物と比べても特に色褪せていたが、それでもこの景色にすっかり溶け込んでいる。
むしろ朽ち具合からして古参の風格を漂わせており、どっしりと腰を構え、この街を影ながら支えているような印象すら受けた。
入ってすぐ目の前にある急な階段を登って、扉をあけた。
目の前にはキッチンスペースがあって、その脇を抜けると机も椅子もデザインが統一されていない客席が並んでいる。
ソファやパイプ椅子だったり、机もアンティーク調のものからタイル式のものまであった。
僕たちは空いている窓際の席に腰掛けた。
そこからは線路が見えており、電車が往来するのを間近で楽しめるようになっている。
ケーキはシフォンケーキ、チーズケーキ、ミルクレープの三種類があった。
僕が決めあぐねていると、堀池は「ここのオススメはチーズケーキだよ」とこっそり教えてくれた。
僕はそれとレモンティーを注文した。堀池も僕と同じものにした。
運ばれてきたチーズケーキは真っ白だった。
僕はチーズケーキといえばあの昔ながらのハチミツ色をしたものを思い浮かべていたので少々面を食らった。
一口食べると口の中で雪のように溶けた。
そして濃厚なチーズが広がる。
「……美味しい」
「でしょ」
思わず口から言葉が漏れた。
そして僕の意思とは関係なく口角があがる。
本当に美味しいものを食べたときは笑顔になるものだ。
まさにほっぺが落ちそうな表情になる。
レモンティーもケーキとよくあっていた。
「こんな美味しい店があったなんて知らなかったな」
「ずっと昔におじいちゃんに連れてきてもらってね。みんなには内緒にしているの。なんとなく自分の場所でいてほしいから。あんまり広めないでね」
「僕とこんな洒落たカフェに行く奴なんて堀池くらいしかいないよ」
「ふふっ、そうだったわね」
「そこはフォローしてほしかったな」
堀池は白い微笑みを浮かべると、その細い指で髪を耳にかけた。
絹のように美しいその髪は、同じ人間のものとは思えないほど滑らかに揺れる。
太陽の光の中の堀池は、邦画のワンシーンを沸騰させる。
同じ学校の奴に見つかったら嫉妬で殺されしまうかもしれないな。
と思うくらい、僕の席から見る世界は美しかった。
しかしたぶん、きっとこれは僕だから見られた光景だろうな。
僕が彼女に恋心でも持っていようものなら、緊張で窒息死していたかもしれない。
そんなことを考えると、僕の暗い人生にも何かの意味があったように思える。
それくらい、彼女は影響力を持っていた。
「ねぇ、維月くんってさ、本当に女の子に興味がないの?」
「恋愛的な意味で……というのならそうだね」
と、自分で言ってみたものの、僕はもしかしたら人間的な意味でもあまり他人に興味は持っていないのだけど。
「そっか……」
「……うん」
僕たちは息を合わしたようにレモンティーを口にした。
「……維月くんのことが好き」
突然の告白のおかげで、レモンティーは僕を襲った。変なところに入り、咽せる。
「……なんて言ったらどうする?」
ニコっと可愛らしくて狡猾な小悪魔のような表情をした。僕が咽せている間に、堀池はもう一口レモンティーを飲んでいた。
「……ありがとうって言うと思う」
堀池はそれを聞くと、頬杖をついた。
柔らかく握られたその手は、ちょうど口元を隠すように添えられていた。
そして小さく「……それだけ?」と言ったような気がした。
しかし、その声はタイミングよく来た電車の走行音に掻き消され、うまく聞き取れなかった。
しかしだからといって僕も、それをもう一度要求することはしなかった。
なんとなく、しないほうがいいと思ったからだ。直後に訪れた短い沈黙は、電車の音と共に連れ去っていった。
そして僕たちはそれといった会話もなく、店を出ることにした。