マーガレット
一週間巻き戻ってしまったといっても、特に大きな支障はなかった。
それもそうかと思った。
だって、僕は何かの使命を背負って一週間前に戻ってきたわけじゃないのだから。
特にやらなければいけないことがあるというわけでもなく、基本的に僕は今週を一周目と同じように過ごした。
世界的なニュースだと、ノーベル文学賞の発表があったくらい。
もちろん、受賞者は僕の記憶通りだ。
今年は外国人だった。
週末を目の前にして振り返ってみると、一周目との変化は些細なものだった。
基本的に僕が介入することのできない出来事。
たとえば、サッカーの試合とかノーベル賞だとか、そういったものの変化はなかった。
もっと僕の身の周りの出来事でいうと、少なからず変化はあった。
たとえば、僕がサッカーの試合の賭けで勝ってしまったり(前回は賭けすら行っていない)中身のない雑談の内容が変わったりしたくらいだ。
僕は同じ話を二回するのは嫌いだ。
話すほうも疲れるし、聞くほうはもっと退屈だろうから。
だからといって僕は自分が話した内容が一週間以内のものか以降のものかなんてことをいちいち覚えてはいなかった。
なので僕は同じ話をしてしまわないようにコロコロと話題を変えていた。
そして昨日、堀池を家まで送ったこと。
その結果堀池が風邪をひかずに金曜日学校に来ていること。
変わったのはこれくらい。
これが恋愛ゲームだったら、今までの会話の選択でルートが分岐してエンドが変わるなんてこともあるだろうけど、今のところほぼ変わりはない。
一周目の土日は自宅で一人で過ごしていた。
なので今週起こる出来事は今日でおしまい。
それに金曜日も特に大きなことはない。
普段通り授業を受けて、普段通り三人でご飯を食べて、普段通り帰宅する。
そして土日を過ごせば、僕の日常はまた戻ってくる。
そして十月十七日を迎える。
それで全て元通り。
たった一週間、不思議な体験をしていたと思えばいい。
あと、そうだ。
嫌なことを思い出してしまった。
日曜日はアレと遭遇してしまうのだ。
あれだけはもう二度と見たくない。
あの日曜日は本屋とレンタル屋に出かけた帰り道に目撃してしまった。
日曜日はもう家から出ないようにしよう。
よくドラマや映画で過去を改変して死ぬはずだった人を助けるという描写があるが、多くの場合それは不幸な事故や事件からの回避だ。
自殺の場合は……助ける必要があるのだろうか。
自殺を失敗させたところで、それは自殺未遂になるだけで根本的な解決にはならない。
いずれまた自殺してしまうだけだ。
なので僕は二周目が始まったときに決めたスタンスを変えるつもりはない。
傍観者として、普通の学生として運命は変えない。
変える義務もない。
僕は友達を雨から助けはするが、知らない女の子を自殺から救うことはしない。
いつものように高坂と一緒に下校する。
高坂は部活動には入っておらず、近くのレストランでアルバイトをしている。
話によると厨房もホールもどちらもこなせるそうだ。
僕ならレジ打ち一つさえも満足にこなせないと思う。
高坂は友達補正なしにしても凄い奴だと思う。
長期休みには短期集中で泊まり込みのアルバイトもしていると言っていた。
去年の夏は海の家でアルバイトをしていたらしく、こんがり日焼けしていたことを覚えている。
「維月ってさ、亜由美のことどう思ってる?」
「どうって……、別になにも。ただの友達としか。またなんかあったの?」
「いや、なにもない。ただの気まぐれだ。気にしないでくれ」
どうでもいい話題の間に突如挟まれた異質な問いかけは、高坂の巧みな話術により、数多くの話題の一つになって、もうあとを追うことは出来なくなった。
この質問は前回の一週間にはなかった。
たぶん、堀池が高坂に昨日のことでも話したのだろう。
確かに高坂からの視点で考えると、僕が嘘をついてまで彼女を送ったと勘違いしても無理はないだろう。
いや、客観的に見ればそれは限りなく正解に近いのだ。
しかしそれはあくまで一般論でしかない。
一般論で考えれば、確かに僕が彼女のことを好きで、高坂を出し抜いて雨を口実に二人で帰ったと誤解されてしまうことは否めない。
なので「どう思ってる?」と尋ねられても仕方がない。
しかし、よく思い出してほしい。
僕は本当に今まで異性を好いたこともないし、堀池を友達以上だと認識する気もないのだ。
だから僕はその問いかけは高坂らしくないな、と思った。
何か別の意図があったのかも知れないけれど、僕が持っている材料からはこれ以上はただの予想になり、根拠は奥へ進むほど失われていく。
価値が下がっていく思考の迷路にハマってしまう。つまり、脳の無駄遣い。
だから僕は、この件に関してはもう何も考えないことにした。
河川敷を歩いていると、景色を彩る草花の中に制服姿の少女がいた。
しゃがみ込んで何かをしている。
もう少し歩いて近づいてみると、少女の手にはカメラがあった。
家族が旅行などで使うようなお手軽サイズのものではなく、もっと本格的で高そうなカメラだ。
そしてレンズの先には白くて小さな花。
マーガレットが咲いていた。
少女はこれを撮影していたのだ。
強かに伸びて開花しているマーガレットは花びらの造形だけではなく、存在自体が儚く美しいもののように見えた。
僕たちがしゃがみ込んでいる少女の脇を抜けようとしたときだった。
少女は撮影を終え、立ち上がりながら体を半回転させた。
彼女は手元のカメラを触りながらだったので、僕たちの存在には気づいていなかった。
――――ぶつかる、と思ったときにはもう遅かった。
小柄な彼女は僕の体にぶつかり、立ち上がった勢いがそのまま跳ね返されて、少女はよろけながら尻餅をついた。
彼女は慌てて後ろを確認した。そして安堵した。
マーガレットは無事だった。
そしてもう一度こちらに視線を戻し、目を合わせた。
彼女はまだ少し動揺していて、若干カタコトになりながら「ごめんなさい」と謝罪した。
その少女は、僕が以前廊下でそれ違った千歳彩奈だった。
二日後の日曜日、彼女は自殺をする。
陽の光の中、まじまじと顔を見たのはこの時が初めてだった。
廊下ですれ違ったときと同じように、彼女は童顔だった。
同じ高校生なのに中学生のような印象を受けた。
それは髪型とか体型のせいだったかもしれない。
堀池が華やかなモデルや芸能人のように綺麗だと評される顔だとすると、千歳はいわば町娘のような素朴で地味な印象を受ける。
しかし、僕は千歳を見つめてしまった。
ずっと昔、どこかで会っていたような気がした。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
彼女は心配そうに僕の顔を覗き込む。
声を掛けられたことにより我に戻った僕は中途半端な返事をした。
「私たち……、以前どこかで会いましたか?」
「たぶん、学校ですれ違ったんだと思う。同じ制服だし」
「あ……、そうです……よね。ごめんなさい。おかしなことを聞いてしまいました」
「いや、こちらこそ。ぶつかってしまって悪かったよ」
僕はそう言うと、彼女はペコリと頭を下げて僕らとは反対の方向へ歩き始めた。
僕たちもまた自分の家に向かって歩き始めた。
「今のって、この前維月が一目惚れした千歳ってやつだろ?」
「だから、一目惚れじゃないって」
高坂は僕を茶化した。僕が異性に過剰に反応する仕草が珍しかったのだろう。
しかし、僕は彼女の言葉が妙に引っかかっていた。
なにか重大なことを見落としてしまっているような気がした。
理詰めで物事を考えていく僕はいつも一歩足りない。
直感や感情といった不確定要素を理論の中に組み込まないせいだろう。
そんな生き方で培った経験が警報を鳴らしている。
胸騒ぎがしていた。
僕は後ろを振り返った。彼女は陽の光をいっぱいに浴びて、自然いっぱいの河川敷の道を幸せそうに歩いていくように見えた。
少なくとも何も知らない僕にはそう見えた。
そして、その日の晩。
僕はルートが変更したことを知る。
堀池から週末に遊ばないかと誘いがあったのだ。
線路の分岐器のような音をたてて、僕のルートは変わってしまった。