雨
木曜日。
朝は快晴。
しかし、今日は夕方から雨が降る。
天気予報では晴れのち曇りと予報されているが、僕の記憶が正しければ雨だ。
夕方まで学校に残るつもりはないが、念のため折りたたみ傘を鞄に入れておく。
前回の一週間と世界は進んでいるとはいえ、僕の身の周りは全く同じではなかった。
もしかしたら誰かに頼み事をされて、雨が降り始める前に帰れなくなることもあるかもしれない。
大きい傘でもいいのだが、天気予報では降らないことになっているので、折りたたみがいい。
絶対目立ってしまうからだ。
僕は出来るだけ傍観者として生きていきたい。
他人と関わることはほぼ諦めている。
僅かに残っている希望は友人二人がいてくれているおかげだ。
彼らがいなかったら、僕は授業以外で口をひらくことのない日々を過ごしていたと思う。
友達がいるおかげで毎日が楽しい。
僕は自他共に認める捻くれ者だけど、そこだけは素直に受け止めているつもりだ。
一日の授業が終わるころには雲行きは怪しくなっていた。
空は重たい灰色一色に染まっている。
僕の隣にいた堀池が心配そうに教室の窓から空を見上げている。
「雨降りそうだね」
「今日は雨降らないって天気予報で言ってたぞ」
堀池の反対側にいた高坂がそう言った。
「最近の天気予報ってほとんど外れないから大丈夫だ」と付け加えた。
僕は今二人に挟まれている。
ここで僕が「雨は降るよ」なんて未来予知してしまったら、二人に怪しまれるかもしれない。
二人は僕と違って勘がいいからだ。
出来る人間っていうのは、全体的によく出来るものなのだと僕はこの二人を見ているとつくづく実感させられてしまう。
人は平等であるから、同じ能力の数値を各能力に割り振るなんてことを考えてしまうけれど、実際はそうではない。
全体の能力数値が百の人間がいれば千の人間や万の人間だっている。
顔がイケてなくて運動も勉強も芸術も出来ない人間がいるように、かっこよくて人望もあって文武両道で芸術に長けている人間だっていくらでもいる。
「天は二物を与えず」という出来ない人間を安心させる夢見がちな言葉もあれば、「文武両道」や「八面六臂の大活躍」「才色兼備」という現実を叩きつける言葉も存在している。
僕たちが生きているのはそんな世界。
サッカーの件でだいぶおかしな言動をしてしまったので、二人には悪いけれどここは黙秘を貫かせてもらう。
よっぽどのことがない限り、僕はあくまで傍観者というポジションを貫きたい。
「じゃあ私、今日生徒会あるから、じゃあね」
そう言うと、堀池は忙しそうに荷物を纏めて教室を出て行った。
「俺たちも帰るか」
高坂の言葉に頷いて、僕たちも荷物を纏めた。
高坂と僕は帰る方向が同じなので、一緒に帰ることが多い。
堀池は門からもう別の方向になってしまうので一緒に帰ることはない。
たまにどこかへ寄り道するときについてくるくらいだ。
高坂となんでもない話をして、グランドを横切る。
空はもう落ちてきそうなくらい暗くて重そうだった。
風も少し吹いている。
表面張力が働いているコップを見ているような謎の緊張感がある。
今日は家で読書でもするか……。
そんなことを考えながら正門をくぐろうとしたとき、ある事を思い出し僕は思わず声をあげてしまった。
「どうした?」
僕が馬鹿みたいな声を出して話題を切ってしまったので、高坂もそれに反応した。
そうだ。僕は忘れていた。
そして自分が折りたたみ傘を選択してしまったことを後悔した。
僕はいつも考えが一つ足りない。
今日雨が降ることが分かっていたなら、僕は折りたたみ傘ではなく、普通の傘を選択するべきだったのだ。
しかし、持っているのは折りたたみ傘だ。
僕は怪しまれない理由を探すために脳を急速に働かせた。
「あ、いや、先生に今日中に持ってこいって言われてたプリント提出するの忘れててさ。それにまだ記入すらしてなかったんだ。待たせるのも悪いから、今日は先に帰って」
「分かった。天気予報はああ言っていたが、この様子だと雨が降り出してもおかしくないから、維月も早めにな」
「あぁ、ありがとう」
よかった。うまくいった。
冷静に考えるとここで「何を忘れたんだ?」と訊かれていたら、僕はそれを答える準備をしてしなかった。
同じクラスであることが不都合だと感じたのはこれが初めてだ。
本当に僕は一つ考えるが足りない。
今はこれでいいかもしれないけれど、いつか必ず取り返しのつかないミスをしてしまうだろう。
現段階で分かっていることは、社会人になると絶対に苦労するということだ。
それ以前に僕みたいな社会不適合者を雇ってくれる会社があるかどうかである。
働きたくても、働けないかもしれない。
現在の不安もさることながら、将来の心配もしなければならない。
心配するくらいなら改善すればいいのだが、僕の妙なプライドがそれを邪魔している。
早いうちに直さないといけないところだ。
僕は高坂と別れると、そのまま教室に向かった。
自分の席につくと僕はいつも鞄に入れている文庫本を読み始めた。
続きが気になって家に帰るまで待てない! といった理由で読んでいるのではない。
これはいわば時間潰しである。
本当の目的は別にある。
というのも金曜日に堀池は風邪をひくことになっている。
木曜日の雨に打たれたことが原因だ。
僕はそれを正門をくぐるときに思い出した。
高坂は「最近の天気予報は外れない」と言っていた。
それに加えて傘を持っていなかった。
折りたたみ傘を持っている可能性も低い。
というのも高坂が折りたたみ傘を使ったことは今まで一度も見たことがないからだ。
そして僕の手持ちは頼りない折りたたみ傘一本だけ。
三人でこの小さな傘に入るというのは流石に無理がある。
以上の理由から高坂には、わざわざ嘘をついてまで帰ってもらった。
あいつに予知の説明をすることも億劫であるし、三人濡れて帰って風邪でもひかれたら本末転倒だ。
傍観者であることを決めていることに変わりはないが、普段世話になっている堀池を傘に入れたところで未来に大きな支障は出ないだろう。
それに僕は心のどこかで、この状況を人のために使いたいと考えていた。
だから、手を打つならここがベストだ。大きくも小さくもなく人の役に立つ。
それも友達のために。
誰が僕を咎められるだろうか。
僕は教室で待っていた。
雨の匂いがした。
湿気をたっぷりと含んだ空気が教室を満たしている。
もうすぐ雨が降る。
この教室で待っている理由は生徒会室が廊下の奥に位置していて、生徒会員は帰るときに僕の教室の前を通る。
そのときに堀池に声をかければいい。
理由はそうだな。
なんでもいい。
誰もいない静かなところで読書をしたくなって教室を選んだといえば、不自然な話ではないと思う。
というか思いたい。
僕の脳ではこれ以上思いつかないから。
時計の針が五時を回ると、廊下の向こうで声が聞こえてきた。
生徒会の人たちだろう。
だんだんと声が近づいてくる。
僕はその集団が教室のそばを通り過ぎるとき、横目で堀池の姿を探した。
しかし彼女の姿はそこにはなかった。
……首を傾げた僕の視界に入っていたのは、まだ雨が降っていない外の景気だった。
「あぁ、なんだそういうことか」と僕は納得して、教室を出た。
そして生徒会室に向かった。
生徒会室の扉を二回ノックした。
中から「どうぞ」という声がした。
僕はゆっくりと扉をあける。
そこには堀池が電卓を片手に何か数字を書き込んでいる姿があった。
入ってきたのが僕だと分かると、堀池は手を止めて微笑んだ。
そして、どうしてここに来たのかと僕に問いかけた。
「まだここにいるかと思って」と返した。
答えになっていない気がしたけれど、堀池は僕の返答内容のおかしさに気づかないほど、作業に集中していた。
僕が生徒会室に堀池が一人で残っていると確信した理由は、生徒会全員で一緒に帰宅した場合、誰かしらの傘に入れてもらえる可能性が高いからだ。
それなのに前回の木曜日の雨に打たれて、堀池は風邪をひいてしまっている。
それは一人で帰宅したことを意味している。
責任感の強い堀池のことだ。
きっと今のように自分一人だけ残って作業をしていたのだろう、と僕は予想した。
そしてそれは的中した。
「先に帰ってていいよ。一人でやる作業だし、もう少し時間かかるから」
「いいよ。ここで待っててもいいかな」
「本当は生徒会以外の人が長居するのはよくないんだけどね。今は誰もいないから」
それを肯定の意味だと捉えて、僕はまた文庫本を開いた。
彼女の集中力は目を見張るものがあった。
全身全霊真っ直ぐに作業に没頭している。
まるで脳の集中スイッチをオンにしたような、普段の優しい彼女からは想像も出来ない姿だ。
これが出来る人間と出来ない人間の差なのだろうか。
現に僕は文庫本を読む集中力を欠いで、対照的に彼女の作業は進んでいく。
その能力を羨ましく思った。
三十分ほど経過した頃だったろうか。
彼女はペンを置いて大きく背伸びした。
そして笑顔で終わったことを告げた。
その頃にはもう雨音がしていた。
僕たちは生徒会室を後にして校舎の玄関口に立った。
僕は折りたたみ傘を取り出して、堀池を入れた。
「……もしかして雨が降るから待っててくれたの?」
「まぁ、そんなとこ」
二人の距離は互いの息遣いが聞こえてきそうなくらい近くて、僕は柄にもドキドキした。
動きがだんだんぎこちなくなる。
体と体がぶつかると、彼女は「ごめん」と少し焦ったように謝る。
……なんだこの状況は。と、この状態を作った張本人である僕自身が困惑してしまっていた。
「あ、ありがとう……。私、反対方向だからここから走って帰るよ」
正門を抜けたところで堀池が言った。
「いいよ、送る」
「でも……、悪いしさ」
「雨の日が好きで、もう少し楽しみたい気分なんだ。だから僕の暇つぶしに付き合ってると考えてくれたらいい」
「初耳なんだけどそれ」
「今日初めて雨の日も悪くないなと思ったんだ。だから初耳なのは当たり前だよ」
「ぷっ……、ウソつくならもっとかっこよくついてよね。騙される方も大変なんだから」
そういうとクスクスと堀池は溢れる笑みを手で隠した。
僕もつられて笑ってしまった。
下手くそな嘘もたまにはいいもんだ。
誰かを助けるための嘘ならついてもいい。
悲しませる嘘よりずっといい。
家まで送ることを了承してもらったので、一緒に下校する。
「維月くん、濡れてる。ちゃんと傘入ってないでしょ?」
堀池はブレザーの内ポケットからハンカチを取り出して、僕の顔にかかっていた雨の跡を拭ってくれた。
そのとき二人の予想以上に顔と顔が近づいてしまった。
さすがに堀池もそれに気づいたようで、思わず視線を逸らした。
微妙に気まずくなる。
「ご、ごめん……。風邪ひかれたくなかったから……」
「あ、あぁ。……ありがとう」
「ちゃんと傘入ってね」
「分かったよ」
といったところで僕は傘の中にまともに入らなかった。
一人でも小さくて頼りない折りたたみ傘は、二人が入るにはさずがに無理があった。
しかし、それが二人の距離を縮めていく。
異性とこんな至近距離まで近づいたことなんて今までなかったからどう振る舞えばいいのか分からない。
濡らすまいと奮闘しても雨から完璧に守れるわけもなく、彼女の髪の先は水滴が微かに滴る。
すっきりとした横顔の造形、猫のように大きな瞳、雪のように白い肌、頬がふわりと紅く染まっている。
堀池と雨の組み合わせはなんて美しく儚いのだろうと一瞬見惚れてしまった。
堀池だからここまで輝くのか、それとも他の女子でも同じようになるのか僕にはわらかない。
ただ、この光景が雨に濡れてまで友人を送ったことに対するご褒美だというのなら、僕には身にあまるものだと思った。
「雨があがるまで寄ってく? お茶くらい出すよ」
家に着くと堀池は僕を誘った。
しかし僕はこの雨が夜まで降り続けることを知っている。
それに男友達の家ならまだしも、女友達の家に水分をたっぷり含んだ制服姿でお邪魔させてもらうのはしのびなかった。
僕がやんわりと断ると、堀池は聞き分けの良い子供のように「分かった」と少し残念そうな顔をした。
「送ってくれてありがとう、じゃあ、また明日学校でね」
そして堀池は家に帰っていき、僕も雨の帰路につく。
翌日、堀池は元気に登校して僕の前に姿を現した。
それは僕が望んだ未来だったはずなのに、小さな胸騒ぎがした。
未来が分岐したのだと知った。