千歳彩奈
「維月、どれがいい?」
校内の売店で、僕は高坂とパンを選んでいた。
賭けに勝った僕は昼飯をご馳走してもらえるわけだ。
素直に喜べないことが心残りではあるけれど。
僕は焼きそばパンとホットドッグを奢ってもらった。
教室へ戻る廊下の途中で、ある女子生徒が向こうから歩いてきた。
校内の廊下なのだから、生徒が歩いていることは当たり前だ。
そんなことは僕だって分かっている。
しかし、僕は彼女を視認した瞬間、頭にノイズが走ったような気がした。
それは思い出さないように閉ざされた記憶を無理やり開かれたような感覚だった。
僕の視線に気付いたのか、彼女も僕の方を見た。
当然、僕たちは目が合う。
同じ学年なのだろう。
上履きの色が同じだ。
ショートボブの黒髪に、童顔。
体は高校生にしては小さい。
つまらない現実を見たくないとでも主張するような、死んだ魚のような目。
顔の造形は綺麗に整っているのに、表情で損をしているなと思った。
相手は僕よりも先に視線を外した。
見ていないことをアピールするようにわざとらしく違う方向を見つめながら歩いている。
そして僕らがすれ違うとき、僕は気付いてしまった。
彼女はこの前(正確にいえば後日)マンションから転落死した少女だった。
あの夜、彼女は顔が血まみれで、僕も酷く動揺していたけれど間違いない。
体格もほぼ一致している。
同じ学校だったのか。
自慢ではないが、僕は他人に対する関心が低い。
クラスメイトの顔と名前すら完璧に覚えていないので、他クラスの生徒なら尚更だ。
僕はすれ違ってからも、彼女の姿を目で追ってしまった。
憂鬱な雰囲気を纏ってはいたが、それはあくまで一般の範囲内で、とても週末に自殺するような少女には見えなかった。
それに、冷たい言い方になるかもしれないけど、僕にとって名前も知らないような女の子がいつ死のうが関係がない。
普通の人が、瞬きをする頻度と同じ間隔で、この世界から命が消えていることに興味を示さないことと似たようなものだ。
僕の場合、それがちょっと極端という話なだけ。
「どうした? 一目惚れか?」
「僕が女に興味がないことは知っているだろ?」
「それもそうか」
勘違いしないでもらいたいことは、僕は同性愛者ではない。
ただ単に異性や恋愛といった類のものに関心が薄いだけなのである。
これは、もしかしたら僕が他人に興味がないことと関係があるのかもしれない。
そういうわけで、僕は恋人はおろか、想い人さえいない。
僕くらいの年頃になると、恋愛感情の一つや二つくらいは持つことになるのだろうが、僕は未だにそういった感情を持ったことがない。
「おまたせ」
僕たちは教室に戻ると、弁当に手をつけずに待っていた堀池に声をかけた。
そして三人席をくっつけて昼ご飯を食べる。
これはいつもの日常だ。
例えタイムスリップしていようがしていまいが、変わることはない。
高坂と堀池は幼馴染。
僕は冴えない男であるうえに、色事には興味がないということをクラスの殆どが何故か知っているので、堀池と食事を共にしても特に反感を買うことはなかった。
というのも、堀池は誇張なしで学年トップクラスの美貌を誇り、また品性もよく、親しみやすい性格をしていたので、よく男子からモテていた。
その上恋人がいないということで、よく男子の間では陳腐な駆け引きが行われることは、なにも珍しいことではなかったのだ。
噂話ではあるが、違うクラスのある男子生徒は、現在不登校になっている。
そしてその原因は恋愛のもつれではないかといわれている。
話の内容はこうだ。
一つのグループ内に堀池を好きな男が二人いて(もしかするともっとかもしれない)、勝手にそいつらの中で友情が破綻した、ということだ。
もちろんこの話に堀池は直接関係ないのだが、不幸なことに堀池はこの噂話の存在を知っている。
真実は闇の中だが、火がないところには煙が立たないということと、このようないざこざは今回だけではないということも。
なので堀池は僕らといるときが一番安心するという。
僕もその意見には同意だ。
僕もこの三人でいるときが一番気楽だ。
基本的に他人と一緒にいることが苦痛という理由もあるのだが。
「亜由美、聞いてくれよ。今日こいつ女子のことを目で追っていたんだぜ」
高坂は堀池のことを亜由美と呼んでいる。幼馴染だからである。ちなみに、堀池は高坂のことを祐一郎と呼んでいる。これも理由は幼馴染だからである。
それを聞いた堀池はむせた。
ご飯が変なところに入ってしまったのだろう。何度も咳を繰り返した。よっぽど驚いたのか。
そんなに驚くようなことか。
僕も一応男子高校生だし、何度もいうように僕は同性愛者というわけでもないのだから。
「雨でも降るのかな」
堀池が冗談っぽく笑った。
「今日は降らないよ」
今週は木曜日だけ雨が降るはずだ。
僕は記憶の回収が終わると、高坂に奢ってもらった焼きそばパンの袋をあけた。
しまった。飲み物を買ってくるのを忘れてしまった。
パンを食べると喉が渇いてしまうというのに。
「それでどんな子だったの?」
高坂はあの子の説明を始めた。
印象はほぼ僕と同じだった。ただ一つ、死んだ魚のような目をしているという印象は受けなかったようだ。
もしかすると、僕の先入観が彼女をそう印象づけたのかもしれない。
「それってもしかして、B組の千歳さんじゃない?」
堀池は目線を左上に向けて、記憶を探りながらそう言った。
「千歳……、苗字は?」
「千歳が苗字だよ。フルネームはたしか千歳彩奈さんだったかな。去年の十一月頃、湖東高校から転校してきたんだよ」
「知らないな……」
こういうとき、交友関係が広い友達がいて本当によかったと思う。
それも二人中二人だ。僕は友人関係に恵まれていると、何か起こるたびに思う。
それにしても名前をフルネームで呼ぶと、外国人になった気分になる。
性と名を逆に呼んでいる気分になる。
十回に一回アヤナチトセと呼んでも、違和感はなさそうだ。
「そいつって、いじめられたりとかしてるの?」
もう少しオブラートに包んだほうがよかったかな、と後悔した。
しかし堀池はそんなことも気にせず「いじめられてないと思う」と何事もなく返事をしてくれた。
おかげで空気がおかしくならずに済んだ。
いじめられていないとすれば、家庭環境だろうか。
追い込まれての自殺……。
いや、そもそもなんで僕は例のアレが自殺だったと決めつけているのだろうか。
確かにベランダを見たときは人影はなかった。
だが、他人をマンションの五階から落とした人間がいつまでも犯行現場に残るほうがおかしい。
落として隠れた。
という可能性はゼロではない。
しかし、答えはもっとシンプルに考えればすぐに解き明かされた。
まず、殺されたあとにベランダから落とされた場合、人が通る可能性のある道路に放り投げることに対するメリットがない。
次に生きたままベランダから落とされたのだとしたら、悲鳴の一つでも聞こえるはずだ。
しかし、あの日の夜は静寂そのものだった。
その静寂を切り裂いたのは彼女が生んだ地面との衝突音だ。
以上のことから、彼女はあの夜に自殺をしたのだ。
僕はそう決めつけることにした。
真実を分かったところで、僕が得るメリットはなにもないのだから。
この国の自殺者は年間三万人と推定されているが、これは自殺と認定された死亡者の数である。
日本には年間十五万人ほど変死者がいるといわれている。
しかし変死は自殺に含まれていない。
なので実質、日本の自殺者は十五万人から十八万人であると推測出来る。
これは先進国の中では約十倍の数字であり、また若者の死因第一位は自殺なのだ。
これが自殺大国日本と呼ばれる所以。
一日四百人以上。
一時間に二十人。
三分に一人が自殺している計算になる。
なのでそのうちの一人が同じ学校の生徒だったとしても、なにも不思議なことではない。
殺害されてしまうのならまだしも、彼女は自分の意思で死を選んでいるのだから。
僕は関係ない。