#7-5「思い出したくもないこと」
ああ、ここで死ぬのかも。自分の肩を流れ、床に落ちた真っ白な皿に赤く滴る血潮を見て、そう思った。
右肩を貫く鋭い痛み。走り回って荒くなった呼吸。辺りを取り囲む狂気の軍勢。それらが底知れない恐怖感と危機感になって、私を押し潰そうとしてくる。
「ハー、ちゃん……」
「……大丈夫です」
私はそう言って、フォークを肩から引き抜いた。以前の黒亀の攻撃と比べれば、問題にならない。痛みは引かないけど、深い傷ではなさそうだ。
実は全然大丈夫じゃない。この後、他のフォークやナイフをどう避けるかも考えていない。
だけどどうにか笑顔を作って、ステラちゃんにそう言った。だって、そんな泣きそうな顔をされたら、そうする以外に無いのだから。
「ナカヨク、シネエエエッ!!」
「ヒャアアアアアッ!!」
「……っ」
笑ってる場合じゃない。私だって怖くて仕方ない。でも、私より怖がっている人を見捨てて逃げるなんて、そんなの私の知っているハーティじゃない。だから、笑って彼女を守ろうとした。
「とりゃああああああっ!!」
結果、私も守られる側になってしまったけど。
「ユイナ……ちゃん……!?」
「グエエエエッ!?」
突然部屋に飛び込んできた竜人少女の真っ黒な拳が、風圧だけでナイフとフォークの大群を吹き飛ばした。
「やっぱり、助けに来……てぇっ!?」
「よっと」
ユイナちゃんはそのまま、両腕で私とステラちゃんの胴をひょいっと抱えた。そのまましゃがみ込んで翼を大きく広げると、小さな風が私の前髪を撫でた。
「オマエ、ウラギルノカ!」
「うるせえバーカ! じゃあねー!」
ユイナちゃんは吐き捨てると、二歩、三歩と助走を付けて飛び立った。部屋の奥の開いた扉を抜けると、また薄暗い石の廊下。そこを馬のような速さで飛び、壁を蹴って突き当たりを左に曲がり、次の角は右へ曲が……待って、よ、酔う……!!
「おーし! 着いた!」
「「ぎゃっ」」
「ああっ、ごめん」
急停止したユイナちゃんの手をすり抜け、私達2人は慣性で前にずざーっ。
鼻をこすった痛みを堪えつつ顔を上げると、視界は明るかった。ランプのついた小さな部屋だ。ベッドもあるのを見るに、誰かの寝室なのだろう。他には本棚、小さな窓、乾いた筆の置かれた机、ベッドに三角座りするフィオさん。
「って、フィオさん!?」
「ああ……やっほー、ハーティ……」
「僕がさっき救出しといたよー」
意気消沈してる……無事で良かったけど……。
「く、苦労したお顔をしてますね……」
「そりゃそうよ!! 1人で怖かったもん!! 口だけのお化けにベロで舐め回されたの!! アンタもやられてみる!? やってあげようか!?」
「たっ、大変でしたね。よしよし」
泣き顔で訴えられてしまった。さっきは冷静に振る舞っていたのに、よっぽど不安だったらしい。お化け苦手そうだったもんね、撫でてあげよう。
「とりあえず、4人とも無事で良かったよ」
そう言って、ユイナちゃんはドアに鍵をかけた。なるほど、鍵付きなら他の場所よりはまだ安全かも。幽霊さん達が壁をすり抜けたらお手上げですが。
「やっぱりユイナちゃん、寝返ったフリを?」
「うん、こっそり一体ずつ倒してやろうと思ってたんだけどさ。あの状況じゃバレてでも助けに行くしかないよね」
そっか……あの時、私がちゃんとステラちゃんを助けて逃げられなかったから。
「すみませ……」
「ごめん、みんな」
私の言葉を遮ったのは、ステラちゃんの声。今まで聞いたことが無いほど低くて悲しい声だった。
「あーしが勝手に屋敷に入ったから……」
「いーんだよ、僕も一緒に入ったじゃん」
「ユイちんは、あーし達のこと助けてくれたから……でもあーしは、足引っ張ってばっかじゃん。ハーちゃんだって、あーしのせいで」
「気にしないでください。前にもっと酷い怪我をしたので、このくらい平気です」
答えながら、私はカバンから取り出した布で傷口を包んだ。怪我どころか一回死んでるんですよ──やっぱりやめておこう。この状況だと冗談に聞こえなさそうだ。
「謝るのは後にして、今どうするかを考えない?」
少し間が開いた後、ベッドの上のフィオさんがそう答えた。よかった、ちゃんと顔と声に生気が戻ってる。
「フィオさん、落ち着けましたか?」
「うん。落ち着いた」
「どうするって言ってもさー。向こうはあんな感じだし、やっぱ正面からぶっ飛ばすしかなくない?」
ユイナちゃんはそう言って、腕をブンブン振り回している。確かに彼女なら、正面から彼らにぶつかっても勝てるだろう。でも問題があって。
「ミルカさん、頭が吹き飛んでも何ともなさそうでした。あそこから復活出来るなら、どうやっても倒せないかもしれないです」
「そっかー……じゃ、火付けちゃうのは? 人形って自分で言ってたし、燃やしちゃえば灰になってやっつけられるかも。グロいけど」
「それで倒せはするかもしれないけど、大事なこと忘れてない? あたし達閉じ込められてるのよ。閉じ込めた犯人がアイツなら、やっつけちゃったら屋敷の外に出る手段がなくなるかも」
確かに。そもそも私達の目的は彼女を倒すことじゃなく、ここから生きて出ることだ。
「だから、対等に話し合える状況を作って交渉してみるしかないんじゃない? まあ、命狙ってきてるヤツらが妥協して解放してくれるかは怪しいけど」
「……交渉」
そう呟いて、ステラちゃんは立ち上がった。覚束ないその足取りは、部屋のドアへと向いていて。
「ステラちゃん? どうかしたんですか?」
「あの子に言ってみる。あーしの命一つで、みんなのこと見逃してくれないかって」
無理な作り笑いを浮かべて、彼女はそう言ってドアノブに手をかけた。銀のドアノブが右に回って。
「ダメだよッ!!」
「……!」
ユイナちゃんのその声で、私はようやく我に帰った。どうしてぼうっと見ていたんだろう。完全に呆然としていた。だって、あまりにも唐突すぎる。
「そ……そんなこと言わないで! さっきのことなら、もう気にしなくて大丈夫ですから!」
「うん。でも、別に罪滅ぼしとかじゃないの。さっき……空からフォークが降ってくるの見て、思い出しちゃって。星が落ちてきたあの日のこと」
所々、うろ覚えだったんだよね──彼女はそう付け足して、また息を吸った。
「あーしの友達……あーしの一番の親友が、あの日……目の前で死んだの。あーしを、庇って」
涙ぐんだ声で語った、あまりに残酷な出来事。聞き間違いかと期待したけれど、すぐに『今の言葉を聞き間違えるはずがない』と悟ってしまった。
「そんな……」
「嘘……」
部外者のくせに、何故か私は胸が締め付けられて、一瞬呼吸を忘れさせられた。
一緒にかすかな声を上げたのは、フィオさんだった。先刻までの自分の恐怖心もとうに忘れたような表情をして、かける言葉に困っていた。言葉が湧いてこないのは、私も一緒だけれど。
「…………それで、自分も死にたくなっちゃった?」
長い沈黙を破ったのは、ユイナちゃんの優しい声だった。黙って頷いたステラちゃんの隣に、彼女がドアを背にして腰掛ける。
「あーしさ……昔はもっと暗くてダメな奴だったの。でもその子と出会って、その子みたいに明るくなりたくて……この喋り方とか色々真似したら、友達増え始めてさ」
涙を拭う。すぐまた溢れ出した雫を、また拭う。何度もそうしながら、ステラちゃんは震える言葉を紡いだ。
「だから、マジ感謝してて……いちばん生きてて欲しかったし、いちばん会いたかったのに……あーしのせいで、死んだ……!!」
「ステラちゃん……」
気の利いたことも、良い慰めも思いつかない。それでも何かしてあげないと、彼女が壊れてしまいそうで。私は一歩、彼女に近寄った。
「ヒャアアアア!! ミツケタゾォ!!」
だけど、悲しみに包まれた密室を、銀の刃が切り裂いた。
「なっ……!?」
宙に浮く、ナイフのお化け。顔のついたナイフがドアに突き刺さり、ギリギリとドアの上の方を切り始めた。ステラちゃんを庇うように前に立つユイナちゃんの視線の先で、ナイフはケタケタと笑い続ける。
「っ……こんな時に!」
フィオさんが苛ついた声を上げて、覚悟を決めたように立ち上がった。




