#5-6「死と再生」
ユイナちゃんが目覚めるのを信じて、時間を稼ぐ。それだけが私に出来ることで、私がすべきこと。
森と街のちょうど境界線まで、黒亀が歩み寄ってきた。もう時間は少ない。カバンから大きな筒を取り出して抱え、私は黒亀の方へ歩き出した。
「ハーティ!」
「大丈夫ですっ!」
黒亀まであと数メートル。大木のような足が、こちらへ向かって伸びてくる。無機質で、手加減なんて期待できない一踏み。
「わっ……ととと」
なんとか走って避けられた……グロテスクな眼球がこちらを向く。奥の血管のうごめきまで、鮮明に見えてしまって気持ち悪い。
「ヴゥゥゥゥゥゥ……」
「わわっ」
大きな口に、吸い、込まれるっ……でも、今なら!
「これでッ!」
手に抱えた筒の先を黒亀の眼球に向けて、後ろに付いたヒモを引っ張った。
「ヴ……ヴォォォォォォォォォ」
「あれは……筒の先が光ってる?」
「レーネックスの光と一緒なんですっ」
いつか私がモフモフしていた、尻尾の光る小動物、レーネックス。その尻尾から採れる発光成分を集め凝縮し、正面へ向けて一気に発光させる小さなライトだ。すごく高いものらしいから、お母様に後で怒られるだろうな……。
ともかく、眼球へ向けた激しい光を浴びて、黒亀が狼狽えるような鳴き声を上げた。
「やっぱりまぶたが無い……瞬きもしてない。光を当て続ければ」
私の考え通り、黒亀が首ごと目を逸らす。逃がすものか。私はそれに追随しながら、ライトの光を浴びせ続けた。
「ヴォォォ……ヴォォォ……!」
我慢ならなくなったのか、黒亀は腹の下に首を下ろしてしまいこみ、じっと動かなくなった。
「止まった……!」
ううん、喜んでる場合じゃない。次の作戦だ。私はすぐそばの物置き小屋に駆けつけた。木の扉を開けて、小さな部屋全体を見回す。今の時期なら、確かアレが──
「あった!」
とろとろの白い固形物が詰まった、大きなバケツ。それを持ち上げっ──っ、重たい──持ち上げて、外へ出た。小屋の横にあった水入りのバケツも持って、息を切らしながら、未だ顔を伏せる黒亀の方へ駆ける。
右足のところで立ち止まり、白い固形物をバレないように足の周りに流した。そして、そこに水をかける。これで良いはずだ。
「ヴゥゥゥゥゥ」
「ハーティ逃げて! アイツ、もう顔を上げて……」
「平気です! もう完成しました!」
ふと見上げると、上空で黒亀が再び私を見据えていた。そして、今度こそ踏み潰さんと大きく足を上げようとした。
「ヴォォ?」
ぺちゃ、ねちゃ。そんな気の抜けた音が鳴るだけ。黒亀が何度試しても、足が上がることは無い。
良かった……うろ覚えだけど、作り方は合っていたみたい。
「フィオさん、ユイナちゃんは!?」
「まだ寝てる。ねえ、あれは?」
「街の猟師さんが使っていたトラップです。水に浸すと作動して、強力な粘液が獲物を捕まえます」
いつの間にか、粘液は地面を広がって黒亀の左足にも届いていた。子供の頃、あれで熊を捕まえるのを見かけたきりだったけれど、あの頃以上にすごい効き目だ。
「これで、しばらく時間ができるはずです」
「ありがとう。アンタやっぱり凄いじゃない」
「そんな……ライトもあの罠も、誰かの作った技術に頼ってるだけです」
「誰かの手を借りれば、こんな凄いことも出来るってことでしょ? それって」
「そっか……そうかも、ですね」
って、ダメダメ。喜んでる場合じゃない。まだ終わってなんかいない。
「ユイナちゃん、起きて! ユイナちゃん!」
「ユイナ!」
フィオさんの隣に座って、何度も何度も、2人で呼びかけた。肩をさすった。
「…………は……てぃ」
そして、聞きたかった声がかすかに聞こえた。
「ユイナちゃん!」
「………………」
「ダメ。まだ意識が朦朧としてるわ」
「…………は、てぃ」
「はい! 私はここです!」
微かな言葉からでも、私を呼んでいると分かった。わずかに開いた瞳は、私を見つめていた。だから、私はその左手をそっと握った。
「……だ……め。来、る」
「来る……?」
来る? 何が? ユイナちゃん、どうして黒亀を指差して──
「……えっ」
何?
あの、背中を迸っている光は。
「…………ヴォォォォォォォォォォォォン!!!!」
閃光。紫色の灼熱の光線。それが私たちに向けて放たれた。避け……ダメ、避けたらユイナちゃんたちが。
「うわあああああっ!!」
周囲の家を、木々を、黒亀の甲羅から放たれる光線が薙ぎ倒していく。でたらめな狙いだけれど、破壊されていくものたちは私に確かに伝えてきている。"当たれば死ぬ"と。
「"エレメントワーク"ッ!! 木よ、壁になれ!!」
激しい風と衝撃に体を揺らされる中、フィオさんがすぐに、地面を手につけて叫んだ。
「……出ない……なんで!? ユイナに力を使ってるから!?」
「フィオさん……!」
フィオさんには頼れない。ユイナちゃんに使っている神授を防御に回したら、今度は彼女がどうなるか分からない。
だったら……こうするしか!
「な……ハーティ、あんた!」
フィオさんの前に立って、私は両手を広げた。あんな攻撃、もうどうしようもない。道具でどうにかできる話じゃない。ならもう、この身を使うしかない。
「ハーティ!」
来た。
「っ、ああああああっ……!」
っ、あつっ……たい。痛い……痛い、痛い痛い……! 死ぬっ……けど、こうしないと……!
「ハーティどいて! あんた、本当に……!」
「…………っ……」
光が眩しい。身体中が痛い。灼熱の溶岩を浴びながら、無数の針で身体中を刺され続けているような痛み。
勝手に溢れる涙で前が見えない。痛みで頭がおかしくなる。私今、何してるんだっけ。なんでこんな、苦しい思いしてるんだっけ。私は……私って、なんだっけ。
「くそっ……良い加減起きなさいよ!! アンタ……アンタ、また失いたいの!?」
誰かが誰かに呼びかけている。誰だっけ。
「……あっ」
何も分からない。わかることはただ一つ。それでも、私は確かにこうすることを望んだということ。こんなに痛くても。今、目の前の何もかも真っ暗になっていくけれど。これから来る出来事に、怯える暇すらないけれど。
自分がそれを望んだから。自分のためとか、何になりたいとかじゃなく、ただ誰かを救いたいと思ったから。
きっと、このまま目を閉じて良いんだ。
何度も季節が巡って、ジアンソの街に春が来た。
私は風に舞う花びらを眺めながら、街を歩いていた。透明な体を、道ゆく人々がすり抜けていく。みんなが挨拶を交わし合う中で、私だけが無視されている。まあ、無理もないのだけれど。
長いこと歩いて、街外れの丘にたどり着いた。緑が生い茂る丘のてっぺんに、一つの墓標があった。
『R.I.P ハーティ・コロコ』
その文字を見ると胸がきゅっと縛られるけれど、でもその横にいくつも手向けられた花束は嬉しくて、なんだか不思議な気分。
黒亀は退けられて、街も元通りになった。そして、また今までと同じ時間が過ぎていく。私がいなくても、この世界はやっていける。
ユイナちゃんは、フィオさんはどうしているだろう。2人で仲良くやれているだろうか。
「2人は上手くやってるよ。まあ、ちょっと元気は無くなってるみたいだけどね」
「……あなたは?」
突然後ろから話しかけてきた人に、振り返って私は尋ねた。私、今は見えない幽霊のはずなんだけど……。
「私はラファエル。君と同じように、昔ヒーラーを志した人間。そして、君と違って挫折してしまった人間だよ」
仮面をつけた金髪の女の子は、そう名乗ってよろしく、と手を振った。
「おめでとう。君の体を張った時間稼ぎが功を奏して、竜人の少女は目を覚ました。今まで以上の凄まじい力を持って例の黒亀を消し飛ばした。犠牲者は一切出なかった……君を除いてね」
「良かったです」
「本当にそう思ってる? 後悔しているんじゃないかい?」
そんなことはない。と、すぐさま言うことはできなかった。
「凡庸ながらよく頑張ったけれど……凡庸な人間が何かを成すには、文字通り命懸けで頑張るしかないということだね。何の力も無いのに何かを救いたいのなら、自分を犠牲にする他ない。でも自分を殺して誰かを助けてしまったことに、本当に後悔は無いのかい?」
「………………全く無い、とは言えません。まだ生きたかったな、って思ってます」
微笑みを一切崩さないラファエルさんに、私はそう言った。
「でも、これで良いんです。私がこうなることを望んだんですから」
「だけど、こうは思わないかい? あそこに居合わせたのが君よりもっと強い他の誰かだったら、その人は自分自身も君も竜人の少女もみんな守れたかもしれない」
「誰だったら、なんて考えても仕方ないと思います。あそこにいたのは私で、他の誰でもない私がみんなを救いたいと思ったんです。だから、私はちゃんと満足してるし……幸せです」
私に何の力も無いことが、運命だったとしても。私が死ぬことが、理不尽な悲劇だったとしても。私は願ったから。変われたから。守れたから。
「そうかい。優しいんだね」
「そう言ってもらえたら、嬉しいです」
また風が吹いて、花びらを舞わせた。
「…………おや」
ハーティ。ハーティ。麗しく踊る花の中に、懐かしい呼び声が混じって聞こえた。
「これは驚いたな……どうやら君の周りの人たちは、君がここで終わるのはどうしても嫌らしい」
「え?」
「ここで終わるはずだった、君の運命が変わった。そうか……これが、ティアム様の言っていた心の力。どんな残酷な運命にも立ち向かえる、未来を変える力か」
「あの……さっきから、一体何を……わっ」
眩しっ……辺りが、急に輝いて……。
「それじゃあまた会おう、ハーティ。世界を変える女の子」
世界を? いやいや、そんなに大層な人間じゃありません。
……聞こえたかな?
「………………んん」
真っ白になった視界が、徐々に色を取り戻していった。
「……ハーティ?」
「…………はい」
ずいぶん懐かしい声が聞こえたから、返事をした。
「わっ」
これ……フィオさん……ユイナちゃん? ううん、違う。この、懐かしい温かさは。
「お母様?」
「もうっ……心配、かけてっ……ハーティ……!」
そうか。帰って来られたんだ。私、ちゃんと生きているんだ。
「…………ただいま。お母様」




