名前
「そう、なんだ…。ごめん、なんていうか、その。理解が追いつかないというか俺の認識の甘さを再確認した形というか」
「そんな!決して貴方が謝るようなことは無くて…!むしろっ、私が助けていただいてばかりで本当に――」
「あーはいはいそうやって他人行儀にするの禁止ね」
目の前の青年は少し居心地悪そうに私から目線を外して語る。その仕草は目も合わせたくないとかそういうことではなく、どちらかといえば彼の方こそ申し訳なさそうな印象だった。
「家族にはそうやって接さないの。…まぁそういう家もあるみたいだけど日本って国の大部分はため口で生活しているだろうから、そこに合わせてくれ」
「ですがっ!」
「…いい?君は俺の所有物だ。その事実はきっとこの先も揺るがない。だからこそ、君のこの場所での在り方は俺が決める。…って言っても親父に言われたことと同じようなことなんだけど。
まぁ何が言いたいかっていうと、家族にはもう少し自然体で接してほしいんだ」
それでも、と反論しようとしてようやく私は気が付いた。今、この状況において私に選択肢など与えられていないのだということを。
所有物というワードを出されれば私としては逆らうわけにはいかない。相手の弱点を着実に利用するその狡猾さはいかなる時にでも相手にすれば脅威となるに違いない。
そして同時に与えられたこれ以上ない優しい選択。心はそれを受け入れろと語りかけて来て、結局それを食い止めている理性も所有物という言葉によって強引に言いくるめてしまった。
あの奴隷商のような今一瞬の儲けしか頭にないような連中とは違う、本物。
「なんかごめんね、無理やりさせちゃったみたいで。ほんとはあんまり所有物とか言う言葉使いたくないんだけど、そうでもしないとダメな気がして」
私の表情や視線で心情を完璧に読み取ったように目の前の青年は言う。けれども朗らかに笑いながら。
そう、まるで娘や妹なんかに向ける暖かみのある表情で。
ならば――少しくらい甘えても許されるだろうか。
「じゃ、じゃあっ!そのっ!名前をください…私に!」
「名前、って…。そっか、そうだよね。君は名前すら与えられなかったってことか」
青年の表情は辛うじて笑顔を保っているものの、人の顔色を窺わねば死んでしまう環境に置かれていた私にはわかってしまう。自分と私という存在の境遇の差を実感して彼がとても動揺していることに。
当然だ。見たところ口調も丁寧、物腰も柔らか、しかしてありとあらゆる視点で他者を観察するその疑り深さ。ある種の才能を複数持ち合わせる彼が社会に出て通用しない理由など無い。
この家の設備からして間違いなくその予想は外れていない。
本来なら関わるはずの無かった存在…否、関わるべきではない存在なのだ。私は。
「いえ、そのすみませんでした、名前だなんて差し出がましいことを」
「あぁまたそうやってすぐ謝る。別に嫌とかじゃない。ただ少し動揺しただけ…って言っても君はそれを分かったうえで話をしてるんでしょ?」
「すみま…いえ、そうです」
謝ってはいけない。これでは主たる青年の望む結果は導けない。彼が望む答えではない。
よって私は途中で言葉を中断し、謝罪から肯定へと切り替える。
「…秘書に欲しいな」
「はいっ?」
今何と言ったのだこの青年は。生きるのに躍起になっていた私の体はその感覚を普通の人間より過敏にしている。それ故彼の放った言葉はしっかりと耳に届いていた。
だからこそ意味が分からない、という反応ができた。
「いや、純粋に秘書に欲しいなと思って。俺はもともとトップの立場についていたんだけどその時の秘書がおっちょこちょいでね。付き合いも長かったし別にいいかなとも思ってたけど君みたいに観察眼に優れた人材がいるなら変更も視野に入れておくべきだったかなぁ」
「私が…観察眼に優れている、と?」
「本心を読み取られたのは君が初めてだよ」
「偶然です…貴方に期待されているような優秀な人間ではないのですよ私は」
あまり期待させても悪いので先に謝っておく。所詮飼いならされていた身だ。人間としてではなく家畜として扱われていたからひらがなやカタカナといった簡単な文字はともかく、漢字を交えた文章を書くことなど出来ない。辛うじて日本語は話せるが、母国語のはずのロシア語さえ記憶にはない。
こんな人間が秘書を務めることなど出来るはずもないのだ。
「そんなことは無いと思うんだけど…謙遜は大切だし別にそういうのはいいと思うけどね。
それで…名前だったか。名前…名前…」
私に対しての価値を改める気はないのか、謙遜ということにして話を切り替える青年。
しかし私としても価値のある存在と思われた方が捨てられるリスクが減るのは事実であるからそれ以上の追求は避けておくことにする。捨てられるという経験はもうしたくない。
青年は首を傾げたり目を伏せたりしながら思考する。あたかも生まれたばかりの赤子につける名前を考える父親の様に。
「日本名でいいの?それともやっぱりロシア名かな?」
青年の問いに無言で首を振り、お任せします、とだけ答える。正直どちらでもかまわないというのが本音だ。名前をもらえるというのは私にとって何よりにも代えがたい人間への第一歩なのだから。
「苗字は俺と同じ『小日向』でいいとして…」
「苗字まで名乗らせていただいていいんですか…!?」
「いやそんな驚かれても困るんだけど…。君は何年前の日本だと思っているんだよこの時代を。そもそも家族で苗字が違うとかそんな訳アリな設定俺はわざわざ作るつもりはないぞ」
青年はこともなげに言うが、私としてはありえない話だと思っていた。もしペットを飼ったとして、それに一々苗字を付けるだろうか。ペットならつける…と言う人でもそれが家畜になったらどうだろうか。
私なら絶対につけないし、付けるという発想自体が生まれない。
青年がやっているのはそれと同じようなことなのだ。
「うーん…あんまり悩み過ぎてもあれだしなぁ。冬にちなんだものにしようかとも思ったけど、あんまり寒さにはいい思い出はないだろうし。あったかそうな名前がいいよね」
「なんですかあったかそうな名前って初めて聞きましたよ」
私のことを気遣っていただけるのは嬉しいけれど、すこし表現が常人とずれているような気もしてなんだかなぁ、といった印象。
悪い人ではないというのは確信が得られてきたけれども。
「…『ほのめ』でどうだろう。こひなたほのめ。字面としてもかわいいと思うんだよね。ちょっとロシアっぽさは無いけど…君には合うと思うなぁ」
どうかな、と自分の意見を口にする目の前の青年は優しげな笑みを私に向ける。どこまでも包み込んでくれそうな優しさが私にも感じられ、不覚にも胸が高鳴ってしまう。
もちろん私には不満なんてない。それどころか最高に幸運だったのだ、私は。
小日向ほのめ。それが私という『人間』を彩る、何事にも代えがたいとても大切な唯一無二の言葉だ。




