社会の裏側
カタカタと何かを叩く音が部屋に響く。暖炉の傍に眠る少女を気遣ってのものなのかその動作の音は非常に静かであった。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音が僅かにその状況を彩る唯一の音。
机の上に置かれたノートパソコンには暖炉の傍で眠る幼気な少女の体に似合うであろう可憐な服が映っていた。間違っても精悍な顔つきをした青年に似合うとは思えない。
白地のだぼっとしたTシャツの上に紺色のカーディガンを羽織った青年は作業をひと段落させたのかパソコンの画面を閉じて一つ嘆息した。
傍らに置かれたココアを一口飲み、疲れた体を睡眠の合図を送る。
「…一万円、ね」
ふと青年はつい数時間前の状況を思い出し、苦虫を十匹くらいかみつぶしたような表情を作った。
青年は迷い込んでしまった見るべきではない世界に愕然としていた。平気で臓器を売りさばく世界はあまりにも非常識で異常。
商売相手には気を配らないのかはわからないが、奴隷商と思しき男に声をかけられた青年はそこですさまじい現実を目にした。
ニコニコとほほ笑む奴隷商が商品として売り出してきたのは正真正銘の生きている人間だったのだ。しかもそれは年齢にして中学生くらいだろうか。幼さやあどけなさといったものが伺えるほどの年齢。
肌の色からして白人。顔立ちからしてロシアとかそのあたりだろうか。
襤褸布のような衣類とも呼べない布を体に纏った少女の目には光が微塵もうかがえなかった。残酷な世界に打ちひしがれるように虚空を見たまま世界に静かに絶望する少女の瞳は酷く濁っていた。
「最後の『一つ』なんでお安くしときますよ?お兄さん、若いから性欲とか溜まるでしょう。こいつを使えばもうそんなことに困る心配はありませんよ」
平気で少女の事を一つ、とモノ呼ばわりした奴隷商に殺意が芽生えた。彼は彼なりに商売をするつもりらしいが、この世界に慣れていないどころか初めて対面した青年からすれば憤る以外の行動はとりようもない。
けれど青年は怒りを表に出すような悪手は打たない。あくまで冷静に、少女を救うことだけを考えていた。父の残した会社を経営し、一生遊んで暮らせるほどの大金を手にした後、信頼できる部下に会社を継がせて旅に出た青年を待ち構えていたのは、自分が知り尽くして圧倒してきたと思っていた社会の真の顔。
「…この子、ですか」
絞り出す。怒りを暴走させないように。一つ間違えれば水面に生まれた波紋はあっという間にすべてを蹂躙する大津波へと姿を昇華させることは間違いない。
「えぇ。中々上玉でしょう?ロシアで拾った捨て子なんすわ『コレ』。日本語は小さい頃からアッシが調教して――あぁ、いえ、勿論性的な事には及んでいませんぞ。大切な『商品』に自分で傷をつけるわけにはいきませんからな――日本語は覚えさせましたがな。
何せ現実というものを認識させすぎちまったせいか少し反応が悪いんすわ」
コレだの商品だの一々癪に障る男だった。
「そう、ですか。それで、この子はおいくらで…」
「おうお兄さん、買ってくれるんすか!いやぁ助かるねぇ!後十五分買い手がつかなかったら処分しなきゃいけなくなってたんすよ。お兄さんの奴隷すら人として扱うその優しさに免じて!一万円でお譲りいたしましょう!」
青年は絶句した。一万円、だと。ありえない。そのような金額、近頃は小学生でも払いきれる。
それで人ひとりの命が手中に収まるのだ。これが社会というものの本性だと青年は今更ながら知ることとなってしまった。
青年は懐から財布を取り出し、一万円の紙幣を取り出して奴隷商に渡す。すると奴隷商は一旦奥に消え、じゃらりという金属がこすれる音とともに姿を現した。
「サービスでこいつも付けちゃいます!首輪と鎖っす。これで散歩も楽に…ってお客さん!?」
「…必要ない。俺はこの子だけもらえれば」
「そんなこと言わずに!もらうだけタダっすよ」
半ば強引に鋼鉄の首輪と鎖を手渡し、奴隷商は店を畳んでいた。どうやらゴミの処理を任せられたらしい。最悪極まる。
あっという間に屋台を収納し、そそくさと退散してしまった。
「はぁ…。社会がこうも大変なものとは。俺も認識が甘かったってことかね」
誰にともなく呟いて鈍色の空を見上げる。
息が凍るほどの寒さに、少女が震えるまで、その行為は続いていた。




