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後編

 塾へ行き、帰宅して遅い夕食を家族と一緒に摂る。何も相談はしなかった。たとえ話で、願い事を聞くことは出来ない。お味噌汁をすすりながら、私はただ残り時間がわずかになった事を憂いた。残り時間が三日でも一年でも、迷う事に違いはないのだろうけれど。

 お風呂にも入り、後は勉強して寝るだけ。いつもの通りに日常を終え、私は机に座る。温かいココアをお供に据える事も忘れてはいなかった。どんなに考え事をしていても、いつもやっている事は忘れないんだなぁ。

 勉強を始めようにも、マーブルの万年筆が気になって仕方ない。私はペンケースからそれを取り出し眺めた。

「眺めても決まりませんよ」

 昨日と同様、背後から声をかけられる。そんな予感がしていたから驚きはない。

「こんばんは、マーブルちゃん」

 ため息交じりの挨拶に、マーブルちゃんは苦笑する。

「浮かない顔ですね。願い事が叶う機会だというのに」

「こんなことなら、願いなんて何も叶わなくていいかも、とすら思ってきた」

 洋服を見に行ってもなかなか決められない。家に帰ってから買えばよかった、もしくは買わなきゃよかったと後悔することが多い。

「でも、わたしにはわかりますよ。知沙希さんの願いは決まっていると。だから出てきたのです」

 自分の中では決まっている。けれど本当にそれでいいのかと悩んでいるのだ。

「私の願いじゃなくて、家族の願いを叶えるべきかと思うの。家族の願いは私の願いでもあるわけだし。でも、それって正しい事なのかわからなくて」

 手の中で万年筆をいじくると、心なしかマーブルちゃんも体をくねらせた気がした。

「わたしからは何も言いません。知沙希さんが決めてください。それもルールです」

 私は机の上のココアを一口飲んで、深呼吸をした。

「自分で決断して努力できる大人になりたい。そういう願いでもいい?」

 初めて口にして、やはりまだ後悔が顔を出す。そんな事でいいのだろうかと。

「そちらでいいのですか。抽象的な願いですが、願わなくてもどうにかなりそうだと思います」

 首を振って、私は視線を落とした。

「自分で何も決められない。夢はたくさんあるけど、どうしたいかもわからない。それに、いつかはひとりで生きていかなくちゃいけないのに、私は甘えてばかり。だから、ちゃんと決められる大人になりたい」

 実質、願いがないと言ったと同じだ。これで叶う願いがあった所で、私は成長できないと思ったから放棄する事にした。

「わたしはてっきり、亡くなったお母さまとお話ししたいと言うのかと。生き返らせる事は不可能でも、お話しくらいなら可能でしたのに」

 私の頭には机の奥底にしまった、汚れたペンケースが浮かんだ。

 小四の時、お出かけした際にお母さんが買ってくれた水色のペンケース。誕生日ではないから、高いものじゃない。タオル地の触り心地がぬいぐるみみたいで、すぐお気に入りになった。今でもその手触りを忘れない。毎日毎日、気持ちよくて撫でていたから。

 そのあとすぐ、脳出血でお母さんは倒れた。意識が帰ってくる事もなく、数日後には亡くなった。

 私も、お父さんも、お姉ちゃんも、感謝の言葉ひとつ告げられないままだった。あっけなくお母さんという存在が消えてしまったのだ。

 こんなことなら、毎日おいしいごはんありがとうって。毎日笑顔で接してくれてありがとうって言えばよかった。

 お母さんがいなくなって、ずっとその後悔ばかりが家族の中で口をついてでた。どんなに汚れても、ペンケースを変えられなかった。お父さんは慣れない学校行事や近所付き合いに悪戦苦闘した。高校生だったお姉ちゃんは部活をやめて、家事とバイトで自由時間を無くした。

「お母さんと話したい。生き返る事はできなくても、ありがとうって言いたい。きっと、私よりもお父さんやお姉ちゃんのほうがそう思っているはず。私も、未だに困った事があったらお母さんに頼りたくなる」

 マーブルちゃんの出現に驚いて、ついお母さんの名を呼んでしまった。

 私は机の上の赤いペンケースを手に取る。

 末っ子の私は、甘えてばかり。そんな私が出来る事は「きちんと自立した大人になる事」だと思った。

「これをくれた事で、お姉ちゃんは、前を向こうとしているってわかった。最近お母さんの話をしなくなったけど、忘れたわけじゃない。感謝の気持ちだって伝わってないかもしれないし、せっかくのチャンスだってわかってる。でもまた悲しい思いをしたくないし、させたくない」

 一息に言って、私はまたココアに口をつけた。

「マーブルちゃんとしては、そういう家族の対面が見たいから、私に近づいたんでしょう。ごめんね、期待に応えられなくて」

 しかし、マーブルちゃんは首を振った。

「いいえ。下世話な事を言いましたが、あなたの心の葛藤が見られて主人もきっと満足していると思います。あの人、ゴシップが好きなのです」

「主人って、どんな人?」

「万年筆の神様です。聞いた事はありませんか? ペンは剣よりも強いって」

「それは聞いた事あるけど、ゴシップ好きなのは初耳」

 頭の中で、ギラギラした脂を顔に浮かせた太ったオジサンが高笑いをしていた。

「ゴシップが好きだから、あれこれ真相を暴いてやろうという根性になるのですよ」

 なんだか言い方が悪いなぁ。きっとマーブルちゃんの世界も上司と部下の関係で悩んでいるのだろうと同情した。

「言っておきますが、主人は脂ぎったオジサンではありませんし、子供に同情されるような上下関係でもありませんよ」

「ご、ごめんんさい……」

 そうだった、考えが読めるのだった。私は肩をすくめた。

「ゴシップネタになる代わりに、願いをひとつ叶えてくれるって事か、納得」

「こちらの世界は娯楽が少ないのでね。それにしても想定外でした。大好きな柊くんの連絡先を知りたいとか、舞ちゃんには渡さないとか、欲っぽい事を言うのかと」

 欲っぽいって。なんでも知っているんだから嫌になる。確かにそれらも候補にあったのだから、図星だ。私は顔のほてりを誤魔化す為に、怒った声を出した。

「そろそろ書く!」

 ひょっとしたら、ふっきれない私の気持ちを軽くする為に欲っぽいなんて言ったのかも。マーブルちゃんは優しい。

 はいはい、とマーブルちゃんは私に手を伸ばしてきた。反射的に万年筆を手渡す。すると、大きなマントの中から黒いボトルを取り出した。インクの瓶だ。それを机の上に置いて、蓋をあけた。

「この万年筆は吸入式といって、インクを吸い上げて使うのです。カートリッジを入れるだけの万年筆に比べて面倒ですけど、願いを叶える儀式っぽくていいですよね」

 マーブルちゃんは、万年筆を少し分解する。中から透明な筒が出てきた。ペン先をインクにつけたまま、ゆっくりと万年筆の上部を回転させていくと、透明な筒にはインクが溜まっていく。

 瓶に数滴インクを戻す。それを上に向けてまた回す。テレビの医者ドラマでよく見る、注射前の光景に似ている。

「ティッシュ、お借りしますよ」

「ティッシュ一枚なんて返せないでしょうから、差し上げます」

 ふふっ、とマーブルちゃんは笑いながら、ペン先を拭き取った。それを元のマーブルのカバーに収める。

「さぁ、どうぞ」

 丁寧に、両手で手渡される。私も慣れないながら、両手で大切に受け取った。

 自分でインクを入れるだけで、なんだか格があがる。確かに面倒だけど、愛着は沸きそうだ。

「そうだ、紙。何に書いたらいいかな」

 視線を巡らせ目に留まったのは、壁にピンでとめていた絵葉書だ。お母さんが結婚してから、唯一家族以外の友達と旅行をした時、お土産で買ってくれた天橋立のもの。使い道がなくて、日に焼けた絵葉書。

 家族の事ばかりで、自由にさせてあげられなかったとお父さんは嘆いていた。その中、唯一家族から解放された一日だ。

 私はそれをはずし、裏の白い面を机の上に置く。

 緊張で、万年筆を持つ手が震えた。本当にこれでよかったのか、後悔してしまいそうで。

「大丈夫、知沙希さんはきちんと自分で決められた。これからだって、きっと正しいと思えるように生きられます。お母さまの事も、柊くんの事も。ライバル視している舞ちゃんの事も」

 ぽんと、マーブルちゃんが肩に手を置いた。

 ありがとう、と心の中でつぶやいた。でも、いくら心を読まれているからってそれではいけない。お母さんと同じになるのは嫌だ。

「ありがと、マーブルちゃん。色々考えるきっかけになったよ」

「こちらこそ、美味しいゴシップありがとうございました」

 私は、深呼吸をしてから絵葉書に願いを書いた。普段とは違う書き味。とてもなめらかで滑ってしまいそう。汚い子どもの字は万年筆でも変わらないけど、少しだけ大人っぽい字になった気がした。

【自分で決断し、努力できる大人になりたい】

 書き終えたと同時に、万年筆も、インク瓶も、マーブルちゃんも消えた。残ったのは絵葉書に、決意表明のように書かれた文字。

 日に焼けていない白い面を表にし、再び絵葉書を壁に飾った。

 大丈夫。いい大人になる。舞ちゃんに負けない素敵な女性になる。柊くんともっと仲良くなれるよう、頑張る。

 お母さん、見ていてね。



   了


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