中編
うつむいて歩いていたから気が付かなかった事。願い事ばかり考えたおかげで、ぼんやり空を眺められた。とても澄んでいて、冬ってこんなに張りつめていたっけ。雲ひとつない空だ。今の気持ちは、あの万年筆の柄みたいに欲望でぐるぐる模様だと言うのに。
「そんなに上向いていたらコケるぞ」
男子の声に振り向く。なんと、滅多に私に話しかける事のない柊くんが、愉快そうに声をかけてきた。驚きのあまりどう返していいかわからなかったけれど、生唾を飲み込んで気持ちを整える。
「あ、見てた?」
照れ隠しでへらへら笑う。ブレザーの上にコートを着ないで、茶色のマフラーを巻いている。今日は暖かい。私もチェック柄のマフラーだけだった。
「柊くん、今日部活は?」
尋ねてから、それが失言だったと唇をかんだ。そういう状況じゃないって知っているのに。
「テスト終わったばかりだし、休み。夕焼け前に帰れるっていいよな」
テスト返却期間だから、午前中で学校は終わった。
でも、そういう時だからこそ運動部は部活がある。テスト中は休みだから。弓道部だってあるはずだ。練習に向かう生徒を見た。
帰宅部の私には嘘をついてもバレないと思って、珍しく話しかけてきたのかもしれない。とはいえ、私も緊張してしまってなかなか話しかけられない。こうして話すのはいつぶりだろう。柊くんが男子とバラエティ番組の話をしている時に割り込んだのは、テストのかなり前の事だった。
「そっか、たまには休むのもいいよね」
運動をしたことがないのに、上っ面の言葉が出てくる。
元々大人しい柊くんは、それ以上口を開かなかった。二人で、帰宅部の人たちの流れに逆らう事無く歩く。そういえば、家がどのあたりにあるか知らない。どの曲がり角で別れる事になるか。そう思うと、途端に怖くなる。
下の名前で呼んでいるけど、それほど親しいわけじゃない。みんなが、舞ちゃんも呼ぶから流れに乗って、呼んでみただけ。
そんな仲だから、何を聞いていいかわからない。何も知らない。
「柊くんは、もし願いがひとつだけ叶うなら、何を願う?」
間を持たせるために質問した。不思議な顔をされたら、舞ちゃんにした言い訳と同じ事を言おう。参考になるし、とても気になるし。
「願い、か」
そうだな、と指を顎にあてて考える。私が少し見上げるその輪郭には、うっすらと髭が生え始めていた。
「ひとつだけ? そうかぁ。うーん」
もしもの話なのに、真剣に考えてくれている。その対応が嬉しかった。自然と歩く速度を緩める。次々と追い越される中、だんだんと下校する人たちが減っていった。
「努力する才能が欲しい、かな」
思いもよらない答えに、私はすぐに返事が出来なかった。その様子を見て、柊くんは慌てたように手を横に振った。
「ごめん、真剣に考えすぎた」
「ううん、ありがとう、真剣に答えてくれて。でも、柊くんはちゃんと努力出来ていると思うよ」
ちゃんと見ているから。居残り練習をしたり、休み時間に弓道の本を読んで勉強していたりすることを。
「そう、かな。自分ではわからないけど、そう言ってもらえてなんだか嬉しくなった」
控えめな笑みを見せてくれた。そして、マフラーをいじくって口元を隠す。
もしかして、照れてる?
それに気が付くと私まで照れてしまいそう。今なら、願い事は「この時間が永遠に続きますように」しかありえない。
「そういえば、小片のペンケース、あれいいよな」
唐突な話題に、私は裏返った声が出る。カバンの中に入っているペンケースが脳裏に浮かんだ。
「え、あ、あの赤いやつ?」
「そう! なんていうか、赤いんだけど派手じゃなくて落ち着いていていいなーって。大人の女性が使うような、かっちりした雰囲気がする」
そんな、ジロジロ見ている訳ではないけど、とマフラーに顔を沈めながら言う。大人の、女性。女じゃなくて、女性って言ってくれるんだ。
「あ、ありがと。あれはお姉ちゃんが買ってくれたんだ。だからちょっと高いの。それに気が付くなんて、柊くん、お目が高い!」
ふざけたついでに、軽く柊くんを小突いた。触っちゃった。冷たい布の感触しかしなかったけど。
知っていてくれたんだ、と思うと頬が熱い。赤くなっていたら恥ずかしいなと、私もマフラーに顔をうずめる。
「小片は、何を願う?」
あれだけ真剣に考えて答えてくれたのに、適当に返すのは気が引けた。でも、まだ決まっていない。
「受験成功しますように、かな」
柊くんのあとでは、なんともばかばかしい願いの気がした。
「頭いいもんな。何か夢があるとか?」
一応、クラスでは賢い部類に入る。勉強ばかりしているから。
「あるといえば、あるの。でもひとつに決めきれなくて。だから、どの道にでも進めるように、とりあえず勉強だけはしておこうかなって。特に趣味もないし」
一晩で決めろと言われた願いはともかく、進路の目標もひとつに絞れない。なんだか自分が嫌になる。
「あー、なるほど。それは賢い生き方かも」
「そうでもないよ。気が散っているだけ。弁護士もののドラマを見たら弁護士になりたいとか、そういうのばっかり」
「いいじゃん、それで。オレなんて、別にプロになりたいわけじゃないのに弓道にハマって成績ガタ落ち。高校も、弓道部があればいいやって感じでそれ以上考えてない」
自虐的に笑うけれど、後悔なんてしていなさそうな清々しい表情だった。それだけで、柊くんは弓道が本当に好きなのだとわかる。その姿を見ている事が好きだという事も、わかった。
「好きなものがあるって、いいよね」
「そうだな」
噛みしめるような私の言葉に、柊くんも同調してくれた。
「あ、それじゃ、オレこっちだから。明日な」
私が行きかけた道と違う方向を指さした。せっかくいいところだったのに! 十字路が恨めしい。
「うん、また明日」
ばいばい、と手を振る。こんな風にお別れをするのは初めてだ。好きな人と明日の約束が出来るだけで、いつもの道がこんなに輝くなんて知らなかった。アスファルトの色が白っぽく見える。
うひょー、と心の中で叫びながら、私は白い道を走った。




