前編
自室に戻ると、すぐに通学カバンを開いた。取り出した小ぶりの赤いペンケースは、お姉ちゃんが私の誕生日にプレゼントしてくれたもの。すっごく高いわけじゃないけど、中学二年生がおこずかいで買えるブランドじゃない。大学に行きながらバイトをして、先月の誕生日に買ってくれた。
「知沙希のペンケース、だいぶ汚れいているなと思って。受験頑張ってね」
笑顔の柔らかいお姉ちゃんは、少し憎らしい事を言ってプレゼントしてくれた。自分で買い替える気がないと見越しての事だと察して、私はその気持ちと共に受け取った。
私はいつもこのペンケースをあける度に背筋が伸びる。受験の冬。一年後の入試に向けて頑張らなくちゃ。塾でも学校でも常に持ち歩いていて、中身はお気に入りの筆記具で揃えている。
そのはずが、塾の課題と学校の宿題を片づけようと自室の机の前でペンケースのジッパーを開いた時、違和感に気が付いた。
自分では買わないような、派手な太いペンが入っているのだ。ボディの部分は水色をベースに、くるくると黄色やピンクのマーブル模様が描かれている。こういう柄は私のお気に入りではない。
肌身離さず持ち歩いているのに、いつ入ってしまったのだろう。誰かの物が入ったのなら返さなくてはいけない。学校や塾で机の上に置いたままにはしないし、誰かがカバンの中を漁らないと入れられない気がする。
もしかして誰かの悪意なのかな、と恐ろしく思う。これをキッカケに「あの子が盗んだ!」って学級裁判にかけられはしない……よね。
悲しくなりながら変わったペンを観察する。透明なキャップの向こうには、使った事のない形状のペン先が見える。銀色に輝くそれを凝視していると、そこが一瞬光った。
「万年筆ですよ、小片知沙希さん」
男性の声に驚いて振り返ると、そこにはペンと同じカラーの衣装を身にまとった、白髪の若い男がいた。体のラインを覆い隠すような、ざっくり大きなマントのような服が派手だ。背は高いが、マントに隠されていてもひょろりと細身な事がわかる。
ここは私の部屋。一軒家の二階だ。どうやて入ったと言うのか。
「お、おかあさん……」
震える声で助けを呼ぼうにも、声がうまく出なかった。変質者より、幽霊のほうがいい。この人は幽霊、この人は幽霊……。もしくは夢だ、勉強しながら寝てしまったんだ。
「変質者でも幽霊でも夢ありませんよ」
思わず、ぎゃぁと悲鳴が漏れた。心の声を読まれた? 何者なのかと、恐怖が実感として体を駆け巡る。寒気がして、口ががたがたと震える。どうしよう、どうしようとまとまらない考えしか頭を巡らない。助けを呼ぼう。警察に電話だ。
机の上のスマホに手を伸ばそうとすると、それを男にそっと抑え込まれた。その手は普通の人間のようで、暖房をつけても冷える私の指先を温めてくれる。不思議と震えが止まり、落ち着いて男の顔を見る事が出来た。
「怪しいものですが、知沙希さんに危害を加える事はありません」
少しだけ油っぽい匂いがした。インクの匂い?
私は小さく頷いて、伸ばした手を膝の上に置いた。
「怪しすぎます。納得いく説明をしてくれないなら、すぐに通報しますから」
強気な口調が出てきてほっとした。大丈夫、気はしっかりしている。でもやはり、どこか夢見心地だ。じゃないと、こんなに簡単には受け入れられないはず。
「通報される前に、本題を告げませんとね。それは、ひとつだけ願いを叶えてくれる万年筆です」
穏やかに、夢みたいなことを言う。
「はぁ」
気の抜けた返事しか出来ない。何を言っているのやら。
「あ、信じてないですね。でも本当です。それで書いた願いを叶える権利を、知沙希さんが得たのですよ」
「どうして私が?」
疑ってかかると、男(名前は見たまま、マーブルちゃんとしておこう)は、美しい姿勢のまま人差し指を立てた。
「家族を思い、文房具を愛する人の中から抽選で選ばれるのです」
「そんなキャンペーンにエントリーした覚えはないです」
ジュース一ケースや芸能人のグッズが当たる、とかは応募した事があるけれど。文房具関係は記憶にない。それに、家族思いって。勝手に決めつけられてもね。
納得いかない顔を見て……いや、心が読めるマーブルちゃんは会話なんてしなくてもわかるのだろうけれど。
「まぁ、すんなり信じる人の方が少ないですから当然です。っていうか、マーブルちゃんてなんです?」
初めて拒絶の表情を見せる。
「名前を名乗らないから、勝手に決めました」
ちょっと得意気になって言うと、マーブルちゃんは右手を額にあてた。
「万年筆の下っ端の精なので名前はないのですが……まぁいいです。マーブルちゃんで」
でもちゃん付けは不必要じゃ、とブツブツ文句を言っている。見た目に寄らず「さん」より「ちゃん」が似合う気安さがあると感じたまでだ。
「信用できないから、体験版とかないんですか。だったら信じられます」
「ゲームじゃないんだから、そんなのはありません」
「ケチ」
「勝手に当選させられてって不満そうだったのに。なぜ知沙希さんの立場が上になっているのかという疑問はありますが、ないものはないです。ケチと言われてもないです。貴重なものなんですよ。わかっていますか」
わかっていますかと言われても、まだ信じていない。貴重かどうかは私には関係ない。
「えー、一発勝負なの? 怖いなぁ。こういうのって書いたら真逆の事が起きて、引っかかったな! なんて言われても……」
「信じられないなら、万年筆は返してもらいます」
机の上に置いてあるマーブル模様の万年筆に手を伸ばそうとするので、私は慌てて自分の手の中に収めた。
「ちょ、待って待って。ひとつ質問していいですか?」
「ずっと質問していますけど、どうぞ」
「願いを叶えるなんて、本当だとしたら凄い事なのだから、見返りが欲しいんじゃないですか? 後でお金ちょうだいって言われても払えませんよ。バイトも出来ない中学生ですから」
じっとマーブルちゃんの顔を見る。年齢不詳。少年のようなキレイさもあり、おじさんのような落ち着きもある。きらきら輝く髪は白というよりもペン先の銀色なのだとわかった。イケメンは、不審者になっても得だな。
「知沙希さんの本当の願いが何かを知りたいだけです。それ以上の見返りは求めませんから安心してください」
「そんな事を知ってどうするの。私の願いなんて面白くないかもしれないですよ」
納得いかない私にマーブルちゃんは微笑む。
「わたしの主人の気まぐれです。文房具を愛している人がどんな決断をするのか興味深いですから。その中で、家族を思う気持ちの強いあなたに白羽の矢が立ったわけです」
文房具が好きな人なんていくらでもいる。その中で、私が選ばれた理由はありそうだった。
「わかりました。マーブルちゃんを信じます」
「よかった」
マーブルちゃんの目をじっと見る。嘘をついたら許さない、と強い気持ちを込めて。インクのような黒々とした瞳はまるで揺らがなかった。
「何に書いてもいいですが、願いは一つだけ。間違っても願いが百個に増えますように等、くだらなく浅ましくこちらの期待を裏切るような願いを書かないようお願いしますよ」
注意事項を早口で告げられる。
「期待に沿うような願いを書かないといけないの?」
私の不服そうな顔に、マーブルちゃんは笑顔を見せた。
「叶えてあげるのだから、こちらの注文を聞いてください。つまらない願いを書かれたらこちらの主人は興ざめするんですから。いいのですよ、それ返してくれても」
手を伸ばして、私の手にある万年筆を取ろうとする。そうはさせるかと体を捻った。回転する椅子がぎゅっときしむ。
「すみませんでした。ご主人さまのご期待にそえられるよう頑張りまーす」
いまいち気乗りしない返事しかできないが、無条件よりは信頼できるしいいか、と納得した。タダより高いものはないってお母さんがよく言ってた!
「それでは、願いが決まった頃合いにまた参ります。あ、言い忘れていましたが、世界平和という大きな願いは主人の力不足故、ご遠慮願います。人の命を扱う事も不可能です。願いは明日、日付が変わる前までに決めておいてくださいね。過ぎてしまったら消えますので」
マーブルちゃんは、また早口でまくしたてながらぺこりと丁寧にお辞儀をする。そのまま、頭から万年筆の中にしゅるりと消えていった。
タイムリミットがあるなんて聞いてない、と言い返す間もなかった。
手の中に、大人がいる。そう思うと、万年筆に重量感が加わったような気がしてしまう。
キャップをあけてみようと引っ張るが、あかない。しばらく観察して、それは回転させてあけるものだと気が付く。誰も見ていないのに恥ずかしい。いや、マーブルちゃんが見ているか。
万年筆なんて使った事ないから仕方ないじゃん。キャップすら開ける事の出来ない子どもだとバカにされている気がしてしまい、私は大人しくそれをペンケースにしまった。
ひとつだけか。何を願おうかと考えだしたら、勉強なんて手につかない。受験勉強に集中出来るように、ってお願いをしたくなった。
ペンケースの隙間から、マーブルの万年筆を窺う。そして、教室の天井を見てため息。
翌日になっても万年筆は私の手元に残っていた。夢ではないらしい。
ひとつだけか、どうしようかなぁ。
考え事をする私の肩を、誰かがつつく。あいまいだった天井の線がくっきりとした黒に見えた。
「どうしたの、まだ眠いの?」
クラスの中で一番仲のいい舞ちゃんが、スポーツ少女らしい爽快な笑みを見せた。今日は朝練がないから楽でいいと、元気な様子で。
「まだ二時間目が終わった所だしね、眠い。テスト返却だけだから退屈だし」
昨日なかなか寝付けなかったのは事実だけれど、気分が冴えていて眠気はない。あれこれ考えすぎて、脳がオーバーヒートしそうな位だ。三学期の学年末テストが終わり、その返却に授業は割かれていた。
「あのさ、舞ちゃんは願いがひとつだけ叶うとしたらどうする? 何をお願いする?」
「どうしたの急に」
不思議そうに首をかしげる舞ちゃんのショートカットが、サラリと揺れる。秋ごろ少し伸ばしたけれど、性に合わないと短くしてしまった髪だ。きっと、ロングヘアにしたらツヤツヤでキレイなストレートになるに違いない。くせ毛で、いつもふたつに結んでいる私とは違う。
「無人島に何を持っていく、とかそういうのと同じ話だよ」
そうだなぁと頭を巡らせ、一点で視線を止めた。目線の先は追わなくてもわかる。廊下側に立つ舞ちゃんから見て、私の向こう。窓際には柊くんの席がある。
「アイツ、最近調子悪いみたいでさ。部長なのに試合だしてもらえないんだって」
そうなんだ、と頷く。柊くんは弓道部だ。大人しくて、クラスでも目立たないけれど私は知っている。試合に出られなくて元気がない事も、矢を放つ姿勢が美しい事も。
「だから、アイツをちょっと元気づけてあげられるようなお願いがいいかな」
絵空事のような願いを口にする。
「それでいいの? 欲がないなぁ」
「あー、うん。そうだな、やっぱり私の事好きになってもらえますように、にしようかなぁ。これはダメか」
照れ笑いを浮かべて短い髪を荒っぽく払う。サラサラの髪は癖が付くことなく元通りまっすぐ降りた。
「そんなことない。難しいよね、ひとつだけって」
フォローするような言葉に、舞ちゃんは「そうだね」と邪気のない顔で答えた。
「知沙希は、何にするの」
当然のように質問を返され、内心慌ててしまう。言う事を何も決めていなかった。
「一生ダイエットの必要がない体型になりますように、かな」
嘘ではないけれど、真実でもない。舞ちゃんは私のぷにぷにの頬をつついた。あと五キロは痩せたい。
「その体型は私も欲しい!」
「舞ちゃんは痩せているじゃない」
「運動しているからねー。引退したらどうなることやら」
舞ちゃんはバスケ部の男子に「宿題みせて」と頼まれて、私から離れていった。
どうして柊くんに恋したの?
柊くんと同じくらいキレイな背中に問いかける事しかできなかった。