土の上の金魚
本作は友人に提供する漫画の原作として執筆したものです。
友人が多忙に尽き漫画を描けなくなり、テキストが宙に浮く形となった為、
せっかくだからと思いこちらに投稿させていただきました。
尚、BGMは藤田麻衣子さんの『金魚すくい』推奨。
晩夏の夜、町の夏祭り、提灯の灯に照らされる神社の境内。
焼き鳥、かき氷、射的・・・様々な出店が並び、人で賑わう。
金魚掬いの屋台。最中のポイで金魚を掬おうとする僕。最中が拉げ、ポイから水面に落ちてゆく金魚。水飛沫。
「もう、下手ね兄さん」
からかうような声。振り向くと、妹の鈴子が車椅子に乗ってはにかんでいる。
髪をアップで束ね、白地に真っ赤な牡丹柄が映える浴衣姿。電燈の灯りが蒼白い頬を照らしている。
「昔からこういうの苦手だったわね。勉強ばっかりやってるからよ」
「悪かったな。子供の頃から何でも出来た器用なお前とは、造りが違うんだよ」
「こんな身体になるまでは、の話だけどね」
ハッとする僕。失言だったと悔やむが、鈴子に気にした様子はない。
「ほらほら、手を止めないで。早く金魚取ってよ」
「…もう3回も最中崩してんだぞ。そんなに金魚が欲しいのかよ」
「欲しいの」
頑迷に言い張る妹。少し甘えるような調子。渋い顔で、店主に小銭を渡す僕。
中空の色とりどりの提灯、人々の喧騒、屋台から漏れるモーター音。醤油と綿菓子と草の匂いが混じり合い、鼻孔を擽る。
熱気の中に涼風が忍び込み、どことない侘しさを誘う。去りゆく夏への哀惜。もうすぐ終わる、僕と鈴子の季節。
「金魚が上がって来たところを狙うの。最中をなるべく水につけずに、さっと素早く」
「うっせ、黙って見てろ」
再び水槽に向かい合う僕。
水面に映る僕の顔は真剣そのもの。鈴子の望みなら、是が非でも叶えねばならない。
冬の病院。冷たいリノリウムの床。
父母と共に鈴子の余命が半年だと聞かされる。頭が真っ白になり、視界は暗転する。
「最後の時間を、ご家族で一緒に過ごしてあげた方がいいでしょう」
医者の提案で入院中の鈴子は家に帰ることになった。無邪気に喜ぶ鈴子。余命のことは本人には知らされていない。
(最後の時間を、幸福に過ごさせてあげたい)
父母に付き添われ、家の玄関を潜る鈴子を見ながら思う。
僕の決心。良い兄になろう。鈴子の望む限り、できるだけ一緒にいてあげよう。家族として。この胸の想いを隠して。
それからの日々。家族皆で囲んだ夕餉。鈴子にせがまれ解き方を教えた方程式。車椅子を押して歩いた春の道。鈴子が僕に笑いかけ、僕も鈴子に笑い返した。穏やかで愛しい時間達。走馬灯のように脳裏を巡る―
「おそらく外出できるのは、今日が最後だろうってことだ」
祭りに出かける間際。医師から聞かされた言葉を、そっと僕に伝える父の顔は苦しそうだった。
「・・・だから思いっきり、楽しんで来い」
僕と鈴子の、2人に向けられた言葉。僕は黙って頷いた。幼い頃から鈴子が好きだった夏祭り。鈴子を喜ばせるためなら、どんなことでもしようと思った。
母親の服の裾を引き、綿あめをねだる幼児。仲睦まじく手を絡め合いながら歩く、浴衣姿のカップル。千鳥足で出店をあちこち覗き込んでいる、酔っ払いの中年・・・
多様な人々がひしめく中を、鈴子の車椅子を押しながら掻き分けていく。鈴子は水で膨らんだ透明なビニール袋を大事そうに両手に抱えている。水の中を、1匹の金魚がたゆたっている。
「そんなに金魚が欲しかったのか?」
「うん・・・兄さん、最近優しいよね」
「・・・別に、昔から変わらないだろう?」
「変わったわよ。ちょっと前なんて、私の事思いっきり避けてたし。嫌われたのかと思ったんだから」
「…」
確かに鈴子を避けていた。どんどん綺麗になっていく鈴子を避けていた。妹を女としてしか見れなくなるのが怖かった。自分に歯止めが効かなくなるのが怖かった。
祭囃子の音が聞こえる。櫓の周囲では盆踊りが始まる。
たけなわを迎えようとしている祭りの中心から少しずつ離れ、2人は何時しか暗がりを歩いている。
鈴子は口数が少なくなる。黙って俯いて、ビニールの中の金魚に目を落としている。
「疲れたか?」
「・・・ううん」
「どっかで休むか?」
「・・・うん」
祭りが開かれている地帯から離れた林の中にあるお社に2人で辿り着いた。僕がお社の階段に腰を降ろす。
静寂。人の気配がない、闇の世界。
「まるで時間が止まったみたい」
鈴子が、ぽつりと呟く。
お互い無言のまま、幾何かの時が流れる。僕は空を見上げる。無数の星が瞬いている。美しい空が、無性に憎らしい。
ふと視線を戻すと、鈴子は尚も俯いている。闇の中で蠢く金魚は、何処か不気味だ。
僕は不安を掻き立てられる。
「なあ、本当に大丈夫か?家に帰ろうか?」
ふるふると首を横に振る鈴子。僕は判断に迷う。2人だけの静寂が、やや気詰りでもあった。このままでは、自分を抑え続ける自信がない。
「じゃあ、祭りに戻らないか?そろそろ花火も始まるし」
敢えて明るい調子で、車椅子の取っ手を掴み押し出そうとする僕の袖を、鈴子が無言で掴む。
「…行きたくない」
「鈴子?」
「あっちに戻ったら、また時間が流れちゃう」
車椅子の車輪を両手で動かし、僕と正対する鈴子。束ねた髪を解き、浴衣の帯を解き…
「ば・・・何やってんだ!」
慌てて目を反らす僕。
「兄さん、こっちを見て」
「み、見れないよ!」
「どうして?子供の頃は、一緒にお風呂に入ってたじゃない」
「何歳の時の話だよ」
「それとも、こんなガリガリになっちゃった身体じゃ気持ち悪い?」
「そんなわけないだろ、馬鹿を言うんじゃない!」
「だったら見て。私が・・・生きている内に」
ハッとして鈴子を見つめる僕。浴衣の前がはだけ、病的に白い肌が剥き出しになっている。闇の中にぼんやりと浮かび上がる肢体。頬にかかった解れ髪が、艶めかしい。
「お前、知って・・・」
「・・・本当は、ずっと黙っていようと思っていた」
鈴子が切々と語り出す。
「これからもずっと生きていく兄さんに、迷惑をかけたくなかった。だから良い妹でいようって、仲の良い兄妹で十分幸せだって・・・でも嫌、このまま気持ちを伝えられないで死ぬなんて、やっぱり嫌。我儘な妹でごめんね・・・」
鈴子の声が次第に涙声になって行く。しゃくり上げる音も混じり出す。
「兄さんに見て欲しいの・・・ねえ、私を見て。私に触れて。私を感じて。そして、」
ツーっと、一筋の涙が頬を伝った。
「・・・私のこと、ずっと覚えていて」
―樹木の香りがする。甘く、にがい、透明な香り。
遠くで花火が上がった。眩い閃光が一瞬辺りを照らし、白い肢体を露わにし、流れる涙に反射した。
箍が外れた。その音を、確かに聞いた。
僕は鈴子を抱いた。両腕で、力強く、目一杯掻き抱いた。
噛みしめるように肩に顔を埋めた。その後、身体を密着させたまま、顔を上げる。鈴子の顔を見つめる。潤んだ瞳が間近に迫る。そのまま、2人の顔は尚も近づき、唇は―
鈴子の身体から力が抜け、腕がしな垂れた。手首に紐で掛けていた金魚が入ったビニール袋が、するりと滑り落ちて地面にぶつかり、びちゃという音を立てた。
ビニール袋の口から水が毀れ、金魚も一緒に這い出てきた。
金魚は最初、土に広がった水たまりの上でぴちぴちと激しく跳ねていたが、すぐに動きが弱まり、殆ど動かなくなり、痙攣し―やがて、死んだ。
(了)