紙カップで
チカとエド
残業しているうちにすっかり夜も更け、窓の外は月の神が支配する闇の世界。室内はパソコンとデスクライトの光しかないが、小さなオフィスにはそれで十分だ。
長時間のデスクワークで凝った肩を回しながら、チカは伸びをする。
そろそろ官舎に帰ろうか、とか、お腹がすいた気もするから少し遠回りして城内にあるコンビニに寄ろうか、とか。そう言えば最近肌の調子が悪いから、ついでにドリンク剤でも買おうか、とか。疲れた頭で考えはするものの、いまひとつ行動を起こすきっかけにはならないまま、ぼんやり端末の画面を眺めた。
「よう、ブーシェくん。邪魔するぜ」
深夜とは思えない、快濶な声音とともに天井の照明が点いて、室内から薄闇が逃げて行った。
「メルガル副長。お疲れ様です」
椅子から立ち上がって会釈すると、男が灯りの中へ踏み込んでくる。厳めしい制服は黒色で、加えて大柄なので、暗いところで出くわしたらちょっと怖いかもしれない。
「エドでいいって」
「エドさん。巡警ですか?」
「あぁ。下から明かりが見えたから寄った」
体躯に似合わず静かに近付いたエドゥアルドは、チカの隣のデスクに尻を載せて小ぶりな紙袋を差し出した。
茶色の袋に描かれたロゴは、城内のカフェエリアにあるチェーンのものだ。覗くとテイクアウト用のカップが二つ。
「頂いていいんですか?」
「ブレンドはおれのだから、メープルの方な。休憩用にってトーマに頼まれたヤツだけど」
駄目だろうそれは。
伸ばしかけた手を止めると、横からエドゥアルドがカップを掴み出してチカのデスクに置いてしまう。
「いいんだよ。あっちにはご立派な給湯設備ついてるし。いつものコーヒーに飽きたから、下のが飲みたくなっただけだろ。遅くまで頑張ってる新人に横流ししたって文句ねぇさ」
「副長に文句言える部下はいませんよー」
「なら、問題ない」
嘯いて、エドゥアルドは顎で促す。
「冷めるぜ」
「………はい」
葛藤すること数秒。チカはトーマの尊い犠牲に感謝して、ありがたくメープルラテを頂いた。
プラスチックのフタについた飲み口は小さくて、油断すると舌を火傷する。ゆっくりと傾けた先から香るメープルに、空腹が刺激された。口に広がる甘さのせいで、パンケーキが食べたくなる。その欲求は菓子パンで我慢するとして、やはりコンビニに寄ろうと決めた。
しばし沈黙が降り、会話を再開させたのはエドゥアルド。
「お前はアレだな、夜中まで居残ってるのよく見るが、国防省ってのはそんな仕事漬けなのか?」
「え?いえ、特にそんなことは……」
「遠慮せずに言えよ?そっちの頭にゃ多少顔がきくから、かけあってやるぜ?」
「いえ、いいんです!仕事が遅いのは本当ですけど……夜の方が捗るって言うか、その、昼はちょっと“うるさい”ので……」
ぱたぱた手を振って、チカが苦笑する。
「あぁ、聴こえすぎるんだっけか?神の恩恵ってのも、考えもんだな。……おれには分かんねぇが」
エドゥアルドはさらりと付け加えて、飲むのに邪魔だと外していたフタをカップに押し込んだ。
「……エドさんてモテそうなのに、どうして彼女出来ないんですかね?」
「だろ?どうしてだと思う?」
それを眺めながら何となく呟けば、彼は両手を握ってチカに向き直る。
「絶対に職場環境のせいだと思うんだよな。あの女傑に日々虐げられてるから……」
自分で言って、エドゥアルドは疲れたように肩を落とした。
彼の言う「女傑」を思い浮かべると、チカも否定はしきれない。
「あー……マリアンさんには、勝てる気がしません」
「あんなのと関わっちまったのが、おれの人生最大の失敗だぜ。お互い、厄介な上司を持つと苦労するな」
「そうですねー」
上司に振り回される部下の会、なんてものが結成できそうだ。
「――さて、そろそろ行くかな」
腕時計に目をやったエドゥアルドが、空にしたカップを紙袋に放り込んで腰を上げる。
「ブーシェくんも、日付が変わる前には帰れよ」
「はい。エドさんこそ、巡警の途中でしたけど、大丈夫なんですか?」
「ちょっと寄り道したって、規定時間内に戻れば大丈夫だって」
「それ、この先の巡警コースを飛ばすって言ってません?」
「気のせいだ」
証拠隠滅、と紙袋をドア横のゴミ箱に廃棄して、エドゥアルドはオフィスを出ていった。
日付が変わるまであと四十五分。残りの仕事は報告書が二通。
「三十分で終わらせるぞー」
天井へ腕を突き上げ気合を入れると、チカはスタンバイのパソコンに灯を入れ直した。