マイマグで
セイとスゥ
そろそろ陽も傾こうかと言う頃。
「スゥ、コーヒーできましたよ」
「あー!」
セイアッドがコーヒーと菓子の乗ったトレーを手にリビングへ顔を出したのは、テーブルに積み上がった塔が悲鳴とともに崩壊した瞬間だった。
崩壊の原因となった長方形の木片を手にした赤毛が、キッとセイアッドを睨む。
「貴様が入ってくるから倒れたではないか!」
「人のせいにしないで下さい。スゥ、お茶にしますからテーブルを片付けて下さいね」
ばっさり切って返して、セイアッドはスールェに顔を向ける。
「うん」
軽く頷けば顔を隠してしまう伸びすぎた前髪をかき上げ、スールェは散乱したジェンガをテーブルの端に寄せた。
それで片付けたと言いたいらしい。
彼も「片付ける」と言う言葉の概念を議論する気はないのか、空いたスペースにトレーを置いた。
そう広くもないリビングを見回せば、読みかけの本はページを広げたまま床の上に積まれ、モスグリーンのラグにはクッションと脱ぎっぱなしのルームシューズがひっくり返り、ソファにはブランケットがかろうじて引っかかっていた。そして、ゲームに負けた赤毛が床に転がって「無視するなー!」とぐずっている。
それらを踏まないようにしてスールェの正面に座ったセイアッドが、二つ用意したうち、赤色のマグカップを取り上げた。一緒に運んできたミルクとはちみつを注ぎ、スプーンで軽く混ぜてから彼女に差し出す。
「熱いですから、気を付けて下さい」
「うん」
首肯すれば、またさらさらと金糸が落ちてくる。
挿絵の多い物語も、パッチワークカバーのクッションも、猫の足を模したルームシューズも、手触りのいいチェック柄のブランケットも、全てスールェが来てからこの家に増えたものだ。
そしてもう一つ、スールェにくっついてきた赤毛を見下ろす。
「スゥ。何度も言いますが、フィニクスを長時間、人型で顕現させておくのはよくありません」
「貴様!我を邪魔者扱いする気か!」
跳ねるように起き上がった赤毛が、やかましく喚いてスールェに抱きつく。
母親を取られまいとする幼児そのものだ。
「……外に出さないと、ジェンガもトランプもできないし」
控えめに擁護したスールェに、セイアッドがにっこり微笑む。
「ですが、その大きさのものに邪魔をされると、スゥにキスができません」
「………」
「我のスゥに何をするかあぁぁ!」
スールェが硬直するのと同時に、しっかり抱きついていた赤毛が絶叫を残してかき消えた。
許しを得た彼はテーブルに肘をついて身を乗り出して、慎ましく結ばれた桜色の唇に、慎重すぎるほどゆっくり触れる。きゅっと閉じていた瞼が開き、彼女の碧眼はセイアッドで満たされた。
「……ルーナは」
セイアッドに柔らかな幸福を与えた唇から、言葉が零れる。
「何です?」
「ルーナは、『わたしのセイに』とは言わないね」
「…………」
スールェの瞳まで数センチの距離で瞬きして、セイアッドは破顔した。
解けた空気に体を退いて、自分のカップを手に取る。黒いマグにはミルクもはちみつも入れない、ブラックコーヒー。
「ルナシィは、弟神ほど宿主に執着していませんから」
「フィニはすぐ怒る」
「あれはまだ子供なんですよ。宿主と母親の区別もついていない。ですから、フィニクスを表に出すときは注意が必要です」
何度も告げてきたことを、セイアッドはスールェに繰り返す。
「ここはフレッドの傍ではありませんし……わたしは、あなたを殺したくは――」
言い終えるより早く、スールェの内側でフィニクスの感情が沸騰し、灼熱の波が目の前の男を舐め上げた。
「フィニ!!」
セイアッドの頬を焼く熱気に、スールェが叫ぶ。
手を伸ばしかけて、それがもたらす悲劇が脳裏をよぎる。
「セイ……」
「大丈夫ですよ」
地上の生物を焼き尽くすと云われる熱に包まれながら、セイアッドは埃でも払うかのように片手を振った。
彼にはまるで意味のない攻撃だと思い出したスールェが、そっと息をつく。
「フィニ、止めないと怒るよ」
内側で燻るフィニクスに声をかければ、そっぽを向くような唐突さで熱が霧散した。返事をしないところを見るとかなり拗ねているようだ。
「フィニが拗ねてる」
「後で頭でも撫でてやれば、それで機嫌は直りますよ」
「うん」
スールェが顎を引くと、セイアッドはまだ手にしたままだったコーヒーをすする。火傷一つ負っていない長い指が、カップをテーブルに戻した。
「ところで、明日の予定は?」
「フレッドの雑用」
「人使いの荒い方ですね」
無意味な攻防はすでに両手に余るほどを数えるので、今さらフォローはいらない。必要なのは、セイアッドが彼女に傷つけられることがないと言う事実だけなのだから。
「いつものことだよ」
「いつものことですね」