第一話 国立大学は出たけれど
「健太くん、私、あなたに一目惚れしちゃいました。真面目そうで誠実そうで、賢そうで心優しそうなところに、すごく好感が持てるんです。あのっ、これからいっしょに暮らして下さいっ!」
「えっ!?」
五月も終わりに近づいたある日の夕方。
無職の青年、楞野健太(27歳)は花時計の前で、おさげ髪のかわいらしい女子高生、旗谷佐代里(16歳)から唐突にそんなことを告げられた。
どうしてこんなことになってしまったのか?
事の発端は、三〇分ほど前まで遡る。
☆
「それではまず、楞野さんの自己PRからお願いします」
「僕、わたくしは……その、けっこう、几帳面な、性格でして……地道な努力家で、継続力があり、挑戦意欲が高く、慈悲深く…………あの……えっと…………」
神戸市の中心地、三宮のオフィス街に佇む、とあるソフトウェア開発会社の会議室。
ここで今、中途採用面接試験が行われている。室内中央付近にぽつんと置かれた折り畳み式パイプ椅子に座る健太と、長机備えの木製椅子に座る三人の面接官とが向かい合う座席配置。
面接官は健太から見て右前方に三〇代くらいの女性、真正面に五〇代くらいのがっちりとした薄毛の男性、左前方に二〇代後半くらいの眼鏡をかけた若々しい男性であった。
「……えー、では問い方を変えますね。楞野さんが今までで最も一生懸命取り組んで来たこと、これだけは誰にも負けないということをお聞かせ下さい」
「えっと、わたくしはですね……その、地理や、数学の、勉強などを……大学では、数理科学を専攻し、卒業研究では、ある社会現象に対して、連立微分方程式を組み立てて、数理モデル化し、ヤコビアンの固有値や、平衡点の安定性を調べ、解の挙動を、Mathematicaという、数式処理システムを利用して、その、解析を……高校時代、地理だけは、定期テストや、模試で、学年トップに、輝いたこともあり……その……」
「それらの経験を通じて、具体的には、どのような能力が身に付きましたか?」
「えっと……その、えーまあ、強いて言うなら、粘り強さ、でしょうか…………」
面接開始当初から女性面接官がやや困惑顔で、次々と質問を投げかけてくる。健太が緊張気味に答えていくと、面接官三人とも何かメモをとるしぐさをし始めた。おそらくは採点をしているのであろう。
「わたしの方からも二、三お尋ねします。うちの会社を志望した動機は?」
真正面にいる、重役と思われる面接官からも質問が来た。
「えー、その、御社で開発されておられる、ソフトウェアの一つである、地理情報システムというものに、わたくし、特に興味を惹かれまして……その、他社にはあまり無い、独自性というか、社員数五〇名ほどしかいない、中小IT企業なのに、業務が、多岐に、渡っているというか……加えて、わたくしが、大学時代に学んで来た、知識も、大いに、活かせるのではないかと…………えーまあ、そういうことです」
健太は時折、言葉を詰まらせながらも何とか必死に伝えようとする。
「何か、スポーツ経験は?」
「……特には……ないです」
次の質問に対し、健太はその面接官と目を合わせながらも、自信無さそうに答えた。
そのあと数秒間、沈黙が続く。
この面接官は終始、険しい表情であった。
「大学をご卒業されてからは、どのように過ごされて来たのでしょうか?」
いよいよ左前方にいる若手面接官からの質問。彼はにこやかな表情であった。健太が事前に送付していた履歴書の学歴・職歴欄を確認する。
この質問は、健太にとって非常に痛い所を突かれるものだ。
「えー、その、食品メーカーや、電機メーカーや、農協、学習塾、老人ホームなど、いろいろな企業を受けつつ、資格試験や、公務員試験にも、チャレンジを……」
健太は硬い表情のまま、ぼそぼそした声で正直に答えた。
「資格について、少しお尋ねします。弊社でも取得を推奨している基本情報技術者につきまして、今月取得見込みと記載されてあるのですが、これは、この春行われた分を受験されたということですね?」
若手面接官は続けて、履歴書の資格欄に目を移して質問をする。
「はい」
「その分の試験について、つい先日結果が発表されていましたけど、合否はご確認されましたか?」
「もちろんです。それが、その……残念ながら、不合格と、なりまして……その、去年受けた、ITパスポートは、楽に取得、出来たのですが、こちらはけっこう、難しくて……」
このようにたどたどしく答えた健太に対し、
「そうですか。分かりました」
若手面接官はちょっとだけ顔をしかめた。
「楞野さんは、今何かアルバイトはされていますか?」
再び女性面接官から質問が来る。
「いえ、それすらも、ずっと、落とされまくってる、状況で、ありまして……」
健太が俯き加減に弱々しい口調でこう答えると、
「えっ! ……アルバイトもですか?」
女性面接官に驚かれ、くすっと笑われてしまった。
「はい。そうなんですよ、事実」
健太は顔を真正面に向けて、開き直ったように言う。
「「……」」
他の二人の面接官からも苦笑されてしまった。
「では本日の面接はこれにて終了致します。採否結果は一週間以内にご連絡します。お気をつけてお帰り下さい」
その数秒後、真正面にいる面接官がやや早口調で告げる。
「……ありがとう、ござい、ました」
健太はかくんと頭を下げてお辞儀をしてから、おもむろに立ち上がった。ぎこちなく体の向きを変えて、ロボットのようにカタカタとした動きで出入口扉の前へと向かう。
「失礼、致します」
辿り着くと面接官の方を向いて再びお辞儀。その所作もどこかぎこちなかった。
健太はまた扉の方を向いてドアノブに手を掛け、そぉっと開ける。廊下へ出たのちゆっくりと閉めて、会議室をあとにした。
(あぁ、今回も絶対、不採用だろうな。試験案内には〝面接は一時間程度を予定しております〟と書かれてあったけど、五分くらいで終わったし――今までにも何度もあったことだけど。今回に限っては最後に何かご質問はありますか? とも訊かれなかったな)
先ほど受けた会社が入居する古びたオフィスビルから外へ出た健太は、沈んだ気分でJR三ノ宮駅へと向かって歩き進む。その姿は傍から見ると、紺色のリクルートスーツがマッチ棒みたいな形をして路上を舞っているようだった。
健太の身長は一六五センチ。体重は、五〇キロにも満たない。標準的な成人男性と比較すれば、かなりみすぼらしい体格といえよう。加えてどんよりとした目つきで大抵いつも暗い表情、鈍重な立ち居振る舞い、声が小さく話すペースも遅い。いかにも頼りなさそうな風貌なのだ。そんなただでさえこの人とはお付き合いしたくないなぁ、と第一印象で思われ嫌厭されやすい特徴であることに加え、健太は先ほどのやり取りを見ても明らかな通り、面接を大の苦手としている。
集団面接、集団討論の場において健太は毎回、同じグループになった他のメンバーと比べて最も発言量が少なかった。しかもその発言内容も周りから浮いてしまうような、あまりに突飛で的外れなものであることが多かった。他のメンバーや面接官を苛立たせたり、唖然とさせたりして来たことは枚挙に暇が無い。入室してから着席するまでと退出する際の動作も、他のメンバーと見比べて悪い意味で一番よく目立ってしまうことが常であった。今回受けたような個人面接の場においても、訊かれた質問に対して返答するまでにかなり時間がかかってしまうことがこれまでにも度々あった。そして答える時は大抵しどろもどろになってしまう。
ようするに健太は、コミュニケーション能力が著しく低いのだ。
面接結果は言わずもがな、いつも不採用となっている。
就職活動を始めた当初、二一歳の大学三年生だった健太も、いつの間にか二七歳になってしまった。もう六年近い歳月、就職活動を続けていることになる。けれども未だ、どこからも雇ってもらえない状況が継続中というわけである。
(あつぅ……今日神戸の最高28℃って予想が出てたからな)
初夏の夕日が、暗い気分で歩いている健太を明るく照らし出していた。健太の額や首筋から汗が滲み出てくる。今年もまた、スーツが暑苦しくなる季節が巡って来てしまった。
健太がこれまで不採用となった企業の数は聞いて驚く無かれ、なんと延べ五百社以上にまで達している。正社員はもちろんのこと契約・派遣社員、アルバイトですらも断られ続ける日々。公務員試験も筆記は高確率で通過出来るのだがやはり面接で撃沈。就職活動をしていく上で、ごく普通の人ならば十社も受ければ少なくとも一、二社は採用に至るものだ。健太がいかに社会から必要とされていないのかがよくお分かりだろう。
それでもこんな惨めな健太にでも、接して来てくれるものがあるにはあった。
「こんにちはー、大学生ですかぁ? 今、就活に関する意識調査を実施……」
「…………」
健太は目を合わせないようにして先を急ぐ。駅へ戻る途中、彼に接して来たのは黒のレディーススーツを身に纏い、ボールペンとアンケート用紙を手に持った三〇歳くらいの女性だった。
(僕はもう大学生ではないし。まあ、浪人留年休学しまくって僕よりも年上の大学生もけっこういるようだけどな。これって、喫茶店や営業所に連れ込んで、英会話教室とか資格講座とかの契約をしつこく強引に迫ってくるアレだろ?)
健太は表情を曇らせる。
その女性は彼の推測通り、就職試験会場周辺や駅前、繁華街の信号機横などに現れ、アンケートと称して近寄ってくるキャッチセールス集団の一人であった。
「すみませーん、きみ、学生さんかな? ちょっとお時間いただけ……」
健太がここを振り切っても、しばらく歩き進めば同集団に属する別の人物が近寄ってくる。見るからに弱々しい風貌の健太は、彼女らにとって格好のターゲットなのだ。
(磁石かよ、僕は――)
かわすことは容易だが、接して来る度なんとも胸糞悪い気分になってしまう。
(僕は簡単に入れる冴えない地方国立大卒。旧帝大に入れていれば、状況が少しは違っていたのかもしれないな)
ふと予備校の広告を見つけ、健太は己の学歴の低さに改めて失望感を抱く。彼は学業面においても落ちこぼれだったのだ。
駅へ近づくにつれ、人通りもかなり増えてくる。
健太のように一人で歩いている者よりは、複数で行動している者の方がずっと多かった。
そんな中、
「さっきんとこ、説明会めっちゃ雰囲気良かったな」
「あー、おれあの会社めっさ入りたなった、選考受けよっ。あっこ内定出たら他ん内定先辞退するわ~」
とあるオフィスビルの出入口から、健太と同じようなリクルートスーツ姿の男性二人組が現れた。
「俺もそうしよっ。他の内定先より給料ええし平均勤続年数も長いし。あっこ、確か一週間以内にWebテスト受けなあかんのよな」
「あー、言ってたな、司会のでぶのおっさん。それマッジうぜぇー。しかも周りに阪大とか神大のやつまでおったしよぉ。あいつらも受けて来たらおれらの大学Fランみたいやし、それすら受かる気しねぇ」
「でもWebってのが救いやん、替え玉出来るし。また甲南大の横嶋さんに頼もっと」
「せこっ。まー、おれもそうさせてもらうけどー」
会話内容から察するに、おそらく就活中の来春卒業を迎える大学生なのであろう。彼らは健太の前方を遮るように並んで歩き進む。缶コーヒーを飲みつつ生き生きとした明るい表情で、じつに楽しそうに。二人とも背丈は一八〇センチ近くあった。
(それは明らかに不正だろう。まあ、あれも内定をたくさん取れる人間の要領の良さなんだよな)
健太が不快に思ったその矢先、彼らはとんでもない行動をとった。飲み終えた缶コーヒーを道路脇に平然とポイ捨てしていったのだ。
「あっ、彼女からメール来たわ。第一志望の地銀からさっき内々定の連絡もらったって」
「地銀か。やるなぁ、おまえの彼女。さすが神戸学院大。おれそこ落ちたで」
「俺もやし」
罪悪感に全く駆られてないのだろう、彼らはスマホを取り出しいじり始める。
(口が上手くて要領良くて、容姿も良くて社交性のあるやつらは大学のレベルに関係なくあっさり内定を取ってくるよな……採用担当者共はあんなろくでもないやつらに内定を与えてるのかよ。あいつら入社試験会場内では礼儀正しくマナー良く振る舞ってるんだろうけど、外へ出ればあんな態度だ……皮肉なことに、ああいうタイプの人間って、他人に媚びへつらうのも上手いんだよな)
彼らの発した言葉や行動に、健太は強い憤りを感じた。思わず路肩に落ちていた小石をぶつけてやろうかと思ったほどだ。
(僕の方が、あいつらなんかよりもずっとずっとモラルの高い人間だってことを教えてあげよう。これは、スチールだな)
健太はU字磁石のような形に腰を曲げ、彼らの投げ捨てた二本の缶コーヒーを拾い上げ、そこから三〇メートルほど進んだ所にあった自販機横の空き缶入れにきちんと分別して捨ててあげた。
(……学生の身分の内に易々と仕事にありつけてしまうやつらって、仕事をさせてもらえるということが、いかにありがたいことであるのかが一切理解出来ない人間になっていくんだろうな。仕事は貰えて当然、適当に仕事してても給料いっぱい貰えるんだって舐めた考えになるんだよ、絶対。特に一流企業勤めや公務員の方々はその傾向が顕著だろう。何でも自分の思い通りになるという、我侭で横柄な人格も形成されていくに違いないぞ。実際、仕事に就いてるやつらって、短気で傲慢でモラルに欠けたのばかりだからな。さっき銀行員っぽい四人組が平気な顔で信号無視して横断歩道渡ってるのを見たし。道いっぱいに広がって、のろのろ歩いてるサラリーマン・OL連中はけっこう見かけるなぁ。他の歩行者の邪魔になってるってことを何とも思わない自己中なやつらなんだよ、きっと。だいたい悪徳業者の存在。パワハラや給料未払い、不当解雇といった職場いじめっていうのは、冷酷で悪辣でモラルに欠けたやつらばかりが仕事にありつけてしまっているからこそ、社会問題化しているんだろ)
健太は俯き加減で歩きながら、心の中で持論を呟く。長きに渡る不採用経験から人間的にも歪んでしまった彼は、そんな心情が芽生えてしまっていた。
「ん?」
JR三ノ宮駅南側フラワーロード沿いにある、花時計の前に差し掛かったちょうどその時、健太所有のスマホがブーッと震えた。
(メールか)
健太は一旦立ち止まってからスマホをズボンポケットから取り出す。
「……採否結果のご案内かよ……」
件名を見ると沈んだ声で呟いて、メールの中身を開いてみると、
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
楞野 健太様
株式会社アーススターライトソフト
総務部人事課 採用担当 多治見 敏
採否結果のご案内
新緑の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
この度は、弊社求人へご応募いただき、誠にありがとうございました。
さて、今般の選考に当たりまして慎重に検討いたしました結果、今回は貴意に添えないとの結論に至りました。何卒ご了諾戴けますようお願い申し上げます。
末筆ながら、貴殿の今後ますますのご健勝をお祈り申し上げます。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
このような不採用通知の定型文ともいえる文面が、横書きで彼の目に飛び込んで来た。
(……またかよ。日常的にもらい慣れているとはいえ、やはりきつい、精神的に。ていうかさっき受けたばかりの会社じゃないか。来るのが早過ぎだろ、一週間どころか一時間も経ってないぞ。それに、書面ではなくメールって失礼だろ。いつも思うが何が〝慎重に〟だよ。どうせ即、不採用と決めたんだろ……まあ、通知が来るだけでも良心的だな。応募してもそれ以降全く音沙汰ない場合も多々あるから)
健太は心の中で嘆き、肩をすぼめる。
(僕に、いつまで就活させる気だよ? どこまで僕を追い込むのか――)
健太の社会に対する恨みは日に日に増すばかりだ。彼が長年の就活経験で失った履歴書代、証明写真代、交通費、履歴書などを送付するための封筒代や郵便料金。それらの額は莫大なものになっていた。
経歴にも、救いようのないくらい致命的欠陥を抱えてしまった。学生の身分の内に就職先を決め、最終学歴後すぐに勤務し始めるのが一般的な日本社会。健太のようにそのレールから外れた者は就職がますます困難な状況に追い込まれてしまうのだ。
事実、健太も大学を卒業して無職となって以降は書類選考の段階で撥ねられ、面接にすら辿り着けないケースが顕著に増えていた。
(内定通知って、本当に実在するのかよ? 伝説上の幻のアイテムなんじゃないのか? ここまで不採用が続くと、その存在すら疑わしいぞ……)
健太にとって内定通知なんてものは、もはや空飛ぶ絨毯やランプの魔人、人魚、河童、ミノタウロス、ペガサスといった空想上の存在物と化しているのである。
(……なんか、就職活動をすればするほど、ますます内定からは遠ざかっているような錯覚さえしてくる。僕の履歴情報がいろんな企業や役所に行き渡って、採用しないように仕向けられてるんじゃないのか? これだけたくさん受けまくっていればな)
健太は不採用通知を受け取ったショックからか、花時計の向かいにあるベンチに座り込んでしまった。根も葉もないことも頭に浮かべてしまう。
(……あの木の模様が、さっきのおばさん面接官の顔に見えてくる)
ふと立ち上がり、いらいら気分を晴らそうと近くにあった木を渾身の力で蹴ってみた。
(いっ、てぇぇぇーっ!)
案の定、健太のつま先にジンジン激痛が走る。さらに振動からか、この木の上からある物体が落下し、彼の脳天をコツンッと直撃した。
(あいたぁっ……泣きっ面に蜂かよ。いったい何が落ちて来たんだ?)
じつに無様な健太は涙目で地面に目を遣る。そこにはなんと、いちごキャラメルのたくさん詰まった四角い菓子箱があった。ピンク色が目立つ可愛らしい柄だった。
(!? なっ、なんでこんなものが木の上にあったんだ?)
健太はそれを拾い上げると、怪訝な表情で睨みつけた。
――その直後、彼の身に予期せぬことが起きた。
「親切なお兄さん、ありがとうございます。私、さっきそのキャラメルちゃんを口に入れようとしたら、カラスさんに箱ごとパクッとくわえられていっちゃったんですよ」
いきなり背後から一人の女の子に、ゆったりとした口調で声をかけられたのだ。
「へっ!?」
健太は恐る恐る後ろを振り向く。
そこにいた子は面長ぱっちり垂れ目、細長八の字眉、ほんのり栗色な髪をアジサイ柄のシュシュで二つ結びに束ね、肩にかかるくらいまで下ろしていたのが特徴的だった。少し痩せ型で、服装は胸ポケットの付いた白地長袖ワイシャツに、えんじ色チェック柄スカート。移行期間中の制服姿と思われる。
「こんにちはーっ、はじめまして。私、松鴬女子高等学校一年の旗谷佐代里って言います。あのっ、藪から棒ですが、もしよろしければ、あなたのお名前聞かせてくれませんか?」
その佐代里と名乗った子は健太に顔を近づけ、にこやかな表情で問いかけてくる。健太は緊張からか額から冷や汗がつーっと流れ出た。ドクドクドクドク心拍数も一気に上がる。
「ぼっ、僕!? 僕の、名前は、かっ、楞野健太、です、けど……」
健太は面接時のように言葉を詰まらせながら、思わず答えてしまった。
「健太くんっていうんですね。フライドチキンが食べたくなっちゃうお名前ですね」
佐代里は不○家のペ○ちゃん人形のように舌をぺろりと出した。
「あっ、どっ、どうも……」
健太はどう反応すればいいのか分からず戸惑う。
「健太くん、キャラメルちゃんを救って下さり、本当にありがとうございました。私の大好物なんです、特にいちご味は」
佐代里はにこやかな表情のまま、健太が右手に持っていたキャラメル箱を掴み取る。そしてそれを肩に掛けていた通学鞄にしまった。
「どっ、どういたし、まして」
健太はただただ呆然と立ち尽くす。
「あのっ、健太くん。私から、ちょっとお願いしたいことがあるの……」
佐代里は急に真剣な眼差しになり、健太の目をじっと見つめる。そして、すぅと息を大きく吸い込んだ。
「なっ、何かな?」
健太の心拍数はさらに上がった。
こんなちょっと変わった出会い方をして、佐代里は健太にあんなことを告げたのだ。
「いっ、いっしょに、暮らしてって……」
健太は動揺の色を隠せなかった。
「今から健太くんを、私のおウチへご案内しまーすっ!」
「うわっ!」
そんなことはお構いなしに、佐代里は右手をぎゅっと握り締めて来た。
マシュマロのようにふわふわ柔らかい感触が、健太の手のひらにじかに伝わる。
「こっちです、こっちです」
「わっ、わわわわわ、ちょっ、ちょっと…………」
健太は佐代里にグイグイ引っ張られていく。
佐代里の背丈は一五〇センチ台後半くらい。健太よりも小柄だが、彼は完全に力負けしてしまっていた。
あれよ、あれよという間にJRとそのすぐ北側を走る阪急電鉄の高架下を潜り抜け、さらに北の方角へ。
急な坂道を駆け上がりつつ閑静な住宅街を走り抜け、青々とした木々に囲まれた五十段ほどの緩やかな石段を駆け登らされ、ついには山がすぐ背後に迫った所まで連れて行かれた。
「ここでーす。私のおウチ♪」
佐代里はようやく手を離してくれる。
「……りょっ、旅館?」
健太はゼェゼェ息を切らしながら、彼のすぐ目の前に聳える建物を見上げた。
真っ白な漆喰で塗られた外壁の所々に杉板が張られ、出窓も付いている。屋根瓦は抹茶色。三階建ての近代和風建築だった。
「立派な建物でしょ。さあ、健太くん。どうぞこちらへ」
「わわわ」
健太は再び佐代里に右手を握り締められ、ズズズッと引っ張られていく。
「ただいまーっ!」
佐代里は横開きの玄関扉をガラガラッと引くと、元気よく帰宅後の挨拶をした。
「おかえり、佐代里ちゃん」
数秒待つと、奥から一人のお婆さんが現れた。
「お婆ちゃん、このお兄さんを、新しい管理人さんにしよう!」
佐代里は健太の右手を握り締めたまま、元気な声で伝える。
「へっ、へっ!?」
健太は目を大きく見開いた。
「佐代里ちゃん、そちらのお兄さん、かなり動揺してるよ。事情はちゃんと説明してあげたのかい?」
お婆さんはにこにこしながら二人のいる方へ歩み寄ってくる。
「あっ、いっけなーい私ったら。ごめんね健太くん」
佐代里はてへっと笑う。
「あっ、あの、ですね……」
健太は棒立ちのまま、口をパクパクさせていた。
「お兄さん、健太ちゃんって名前なのかい。汗ようけかいとるね。きつい坂上って来て疲れたろう? ちょっと休憩していきな」
お婆さんに手招かれる。
「いっ、いえ。そっ、その、僕は……」
健太は慌て気味に断ろうとした。
「健太くん、上がって、上がってーっ!」
「わわわわわ」
しかし佐代里にまたも右手をぐいっと強く引っ張られ、無理やり上がらされてしまった。
健太と佐代里は玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。
目の前はロビーとなっていた。
「健太ちゃん、佐代里ちゃん。ここへお座り」
お婆さんに案内されたのは玄関入って左側に見える、小さなローテーブルをコの字型に囲むように抹茶色のソファーが並べられてある場所。ローテーブルのすぐ横には四六インチの液晶テレビも置かれていた。右側には食事スペースなのか、わりと大きめの漆塗りダイニングテーブルと、それを囲むように木製椅子が六つ並べられてあった。
ソファーに健太と向かい合うようにお婆さん、健太のお隣に佐代里が座る。
「健太くん、こちらのお婆ちゃんのお名前は天王寺谷千代さん。お歳は九三歳だよ」
佐代里はちょっぴり自慢げに紹介した。
「はじめまして、健太ちゃん」
千代さんは健太に優しく微笑みかける。このお方は髪の毛こそ綿菓子のように真っ白であったが、顔にはあまり皺は無く背筋もぴんと伸びていた。身のこなしも機敏で声も元気溌剌としており、とても九三歳とは思えない若々しい風貌だった。七〇歳近くも若い健太の方が、老け込んでいるようにさえ感じられたほどだ。
「はっ、はじめ、まして」
なんだよ、これ。新手のキャッチセールスか? だったら早く逃げないと……。
健太はおどおどしながらも、ぺこりと頭を下げた。
「お客様ですかー?」
奥からもう一人、中学生くらいの女の子が現れた。三人のいる方へ歩み寄ってくる。
「そうだよ、健太くんっていうの」
佐代里は嬉しそうに伝えた。
この女の子の背丈は、一五〇センチ台前半くらい。卵型のお顔でおでこが広く、縁無しのまん丸な眼鏡をかけていた。濡れ羽色の髪はみかんのチャーム付きりぼんで三つ編み一つ結びにしていて、見た目から優等生っぽさが感じられた。
「いらっしゃいませ、健太お兄さん」
「あっ、どっ、どうも」
爽やかな笑顔で挨拶され、健太は頭を少し下げて会釈した。
「健太ちゃん、礼儀正しいねえ」
千代さんは感心する。
「いえいえ、僕決してそのようなことは……」
健太はすぐに謙遜した。
「健太ちゃん、背広は暑かろう? 脱いでリラックスしな。ネクタイも取って」
千代さんは笑顔で勧めてくる。
「いっ、いえ。僕、これでちょうどくらいですから」
本当は暑いけど、いざという時に逃げにくくなるからな。
健太は警戒して、身に着けていた背広とグレーの地味なネクタイを外そうとはしなかった。ビジネスバッグも左手に持ったままだった。
「どうぞ」
女の子がハーブティーと、炭酸せんべいをローテーブルに運んで来てくれた。健太の目の前にコトンと置く。
「あっ、ありがとう、ございます」
あとで高額請求されたりしないだろうな。
健太は礼を言うもそんな不安がよぎり、手をつけようとはしなかった。
「わたし、武士友子と申します。私立松鴬女子中学の三年生で、理科部に所属しています」
この女の子は友子というらしい。手短に自己紹介をしたあと、千代さんのお隣に腰掛けた。
「あのう、きみも、この旅館に、住んで、いらっしゃるのでしょうか?」
健太は恐る恐る質問してみた。
「はい。でもここは、今は旅館ではなく松鴬女子中学校・高等学校の生徒寮として利用されてるの。全校生徒一五〇〇名くらいいる内、二割近くが寮に入ってますよ。ただ、皆同じ寮というわけではなく、いくつかの提携寮に分散させているんです。ここ『谷風寮』のようにこぢんまりとした寮から、百名以上収容出来る大きな寮までいろいろあります」
「そっ、そうなんだ」
友子の説明に、健太は腑に落ちたような反応をした。
「そんで、おらがこの谷風寮の現管理人なのさ。健太ちゃん、おら、見ての通り高齢だろ? 卒寿もとっくに過ぎていつポックリいくか分かんねえから、管理人の後継者となる、若い子を探してたのさ。まあ、おらもまだまだ引退しないけど。少なくとも百まではね」
千代さんはにこにこ笑いながら言う。
「お婆ちゃんは、二〇歳以上から七〇歳くらいまでの人を募集してたんだよ」
佐代里は説明を加えた。
「学校のホームページに、求人広告を出そうかと思ってたとこなのさ」
千代さんはさらにこう伝えた。
「そっ、そうなん、ですか……」
健太はぽかんとなる。
ミャーォ。
突如、奥からネコの鳴き声も聞こえて来た。ほどなくして四人の前に姿を現す。
白、黒、茶、三色の毛並み。三毛猫だった。佐代里の方へとことこ駆け寄ってくる。
「この子は谷風寮のペットでマスコット的な存在の、文治郎っていうの。私は文ちゃんって呼んでるよ。メスだけど文治郎、男の子の名前みたいで面白いでしょ。お婆ちゃんが子どもの頃大人気だった、お相撲さんの名前から取ったんだって」
佐代里は嬉しそうに紹介する。
その文治郎と名付けられた三毛猫は、佐代里のお膝の上にちょこんと乗っかった。佐代里は頭を優しくなでてあげる。
「三毛猫は、ほぼ百パーセント、メスですね」
健太は的確に突っ込んだ。
「オスの三毛猫なんて、おらも九〇年以上生きて来たけど一度たりとも見たことねえな。ここは、旅館として大正時代から長年経営してたんだけど、震災で一度全壊したんだ。建て直した際、元の姿を再現したんだけど、客足が震災以前に比べると大幅に減ってしまって経営が苦しくなってね。そんで、平成十年度からは松鴬女子の提携寮として使うようになったのさ」
千代さんはこの寮の沿革を簡潔に語る。
「震災って、阪神淡路大震災のことですね。僕も、体験しました。僕が住んでいる所は大した被害は無かったのですが、震災直後の神戸の姿は現地を訪れて、まの当たりにしております」
「そうかい。健太ちゃんも当時のことを知ってんだね。ところで健太ちゃんは、今どんなお仕事してるんだい? 見たところごく普通のサラリーマンっぽいけど」
「いえ、その、僕は、スーツを着ていますが……無職です。大学を卒業して以来、ずっと」
千代さんから突然された質問に、健太はびくっと反応したあと重々しく口を開き、俯き加減に打ち明けた。
「おやま、そうだったのかい、なら一層好都合じゃあないか。健太ちゃんは、タバコは吸うのかい?」
一瞬沈黙があった後、千代さんは興味深そうに尋ねてくる。
「いえ、全く」
「パチンコや競馬、競艇とかの賭け事、風俗店の利用は?」
「それらも、一切手を出したことはないです」
健太は訊かれたことに無表情で淡々と答えていった。
「そうかい、そうかい。とても品行方正な子だねぇ。じゃ、喜んで採用するよ。まさに求めていた人材ぴったりだ」
千代さんは大きく笑いながらおっしゃった。
「えっ…………えええええええええええええええっ!!」
すると健太は目を白黒させたのち、驚愕の声を上げた。
「とりあえず、最初の一月くらいは試用期間ってことになるけど、他に仕事無いならやってみないかい?」
千代さんはとても嬉しそうに誘いかけ、健太の肩をポンッと叩く。
「あの、それって、僕を、ここの旅館、ではなく寮の管理人として、雇って、いただける、ということ、なんです、よね?」
健太は唇を震わせながら、言葉を詰まらせながら質問する。
「その通りさ」
千代さんはにこやかな表情で告げた。
「本当に、僕なんかを、採用して、いただけるんですよね?」
健太は怪訝な表情を浮かべ、再度尋ねる。
「もちろんさ、住み込みでね」
千代さんはきりっとした声で言う。
「……ってことは、僕も、ここで、暮らすという、こと、なん、ですか?」
健太はきょとんとなった。
「おう、谷風寮はかわいい子満載だよ」
千代さんは笑いながら答える。
「健太くん、谷風寮の新しい管理人さんになって、なってーっ」
「わたし、健太お兄さんなら大歓迎ですよ。かなり真面目そうなお方ですし」
佐代里はもちろんのこと、友子もそれを強く望むような言葉をかけた。
「今日は木曜日かいね。引越しの準備もあるだろうし、健太ちゃん、来週月曜から来てくれないかい?」
「えっ、あっ……もちろん、いい、ですけど」
「採用に当たって、履歴書と健康診断書を提出してくれないかい?」
「わっ、分かり、ました」
千代さんからの要求を、健太はやや戸惑いながらも引き受けた。
「おらはべつにそんなのはいらないと思ってるんだけど、学校側が提出を求めてるんでね」
千代さんは大きく笑った。
「いやぁ、身元確認のために必要だと思うのですが……」
健太はやや困惑顔で突っ込む。
「健太くん、寮生はもう一人いるよ。中学二年生の小野川秋香ちゃんっていう子、呼んでくるね」
佐代里はそう伝えるとロビー隅にある昔ながらの箱階段を駆け上がり、二階へ。
「秋香ちゃん、あのお兄さんが、新しい管理人さんになってくれるよ。お顔見せてあげて」
「……」
佐代里がお部屋の出入口を引いてこう叫ぶと、秋香という子はお部屋から出て来て、階段の所からロビーに向けてぴょこっとお顔を出す。無言のままぺこりと頭を下げて、すぐにお部屋へ戻っていった。
(あの子か……)
健太はその子と一瞬だけ目が合った。一五〇センチもないくらいの小柄さ、丸っこいお顔とくりっとしたつぶらな瞳。ほっそりした体つきで、墨色の髪を水色リボンでポニーテールに束ねていたことが確認出来た。
「秋香ちゃんは、人見知りの激しい子なの」
ロビーへ戻って来た佐代里は手短に紹介する。
「あのう、そのような、繊細な子がいるのに、僕のような、今日初めてここを訪れた者が、管理人をして、大丈夫なのでしょうか?」
健太は不安げに問うた。
「大丈夫だよ、健太くん」
「秋香さんは、きっと健太お兄さんのことを気に入ってくれると思いますよ」
佐代里と友子は自信たっぷりに言う。
「健太ちゃんなら、秋ちゃんとも絶対上手くやっていけるさ」
千代さんも同じく。
「そうで、しょうか? あの、おばあちゃん、僕のような、今まで六年近くも延々と就職活動をして来て、企業から何百社も不採用にされ続け、公務員試験にも落とされ続け、どこからも雇ってもらえなかった、かつてない無能人間を、採用して下さり、誠に、誠にありがとうございます」
健太は千代さんに向かって深々と頭を下げる。健太の目には、ちょっぴり嬉し涙が浮かんでいた。
「いえいえ、何をおっしゃいます。こちらこそ大感激さ」
千代さんはにっこり微笑みかける。
「それでは、失礼致します」
健太は千代さんから谷風寮の見取図、アクセスマップ、仕事内容の説明などが記載された書類を受け取り、ここをあとにした。
(ついに……ついに、ついに採用されたんだな、僕)
健太はこれまで二七年間の人生で一度も味わったことの無い高揚感に包まれながら、JR三ノ宮駅へと向かって歩いていく。
(……待てよ、採用してくれると聞かされて、つい我を忘れてよく考えないまま承諾の返事をしてしまったけど、これって……採用詐欺なんじゃないのか? 冷静に考えると、僕なんかを、こんなにあっさり採用してくれるなんて、あり得ないことだよな?)
帰りの新快速電車の中で、健太は急に不安がよぎって来た。
☆
「おふくろ、親父。僕の、就職先が、決まったんだけど……」
健太は神戸市のお隣、明石市内にある自宅に帰り着くとすぐさま還暦を迎えた母と、定年退職間際に迫った父に報告した。
「えーっ!! 嘘ぅ!?」
母は目を丸くする。健太の就職先が決まることは、宝くじの一等に当選するようなものだと思っていたからだ。
「本当に、決まったのか?」
父も同じような反応をした。
「うん、一応……」
彼からの問いかけに、健太はこくりと頷く。
「何という名前の会社?」「初任給はどのくらい?」「いつ創立されたん?」「資本金は?」 「社員一人当たりの売上高は?」「社員数は?」「どういった事業を展開してるん?」
父は次々と質問してくる。
「その、なんというか、普通の民間企業のように、他社と激しく競い合いながら利益を上げるとかそういう感じのところではなくて、教育施設の事務職みたいな感じで……その、今日受けに行った会社は即不採用にされたんだけど、その、帰る途中に、女子高生にここに誘われて、それで、簡単な面接を受けたら、あっさり採用されて…………」
健太はそう伝え、父に千代さんからいただいた書類を手渡した。
健太の父は私立中高一貫校に理科教員として勤めている。公務員ではないが、比較的安定した身分だ。倒産やリストラされる心配もほとんどない職業といえよう。
「生徒寮の、管理人をするのか!?」
父はけっこう驚いていた。
「そうなんだけど、この谷風寮っていう寮、私立松鴬女子中・高の提携寮の一つみたい」
「松鴬!? その学校って、なかなかの名門校やない。そこと提携している生徒寮なのか。それは良かったじゃないか」
健太がそう伝えると、父の表情に笑みが浮かんだ。
「生徒寮の管理人って……生徒達の相談相手とかになってあげんといかんし、人付き合いや対人能力が相当いるでしょ。健ちゃん、そこで本当にやっていけるのかしら」
母は少し心配になったようだ。
「まあ母さん、ここを見ると、健太にとってぴったりの職業かもしれないじゃないか」
父は柔和な笑顔で言う。仕事内容が説明されてある書類には、求める人物像:品行方正、素直で正直者、誠実、地道な努力を怠らず真面目で心優しい人。と書かれてあった。
まさに健太のことだ、父は感じたのだ。
私立松鴬女子中学校・高等学校は、健太の父が勤めている学校のライバル校らしい。入学難易度も同じくらいではあるが、父の勤めている学校はスポーツ万能な活発系、松鴬の方には真面目で大人しい文化系の子が多く集まる傾向にあるという。
そう聞かされた健太は、今回の件は採用詐欺ではなさそうだと確信した。
(さてと、提出用の履歴書を書かなきゃ……これが、最後になればいいな)
自室へ入るとすぐさま机の引出から新品の履歴書用紙を取り出し、万年筆を右手に持った。丁寧な字で履歴書の各項目を埋めていく。
始めに日付、氏名、生年月日、満年齢、郵便番号、住所、電話番号を書き、性別欄の男に○を付ける。
次に学歴欄。健太は小中高とも公立で、一浪後に国立大学へ入学した。そして講義にはいつも真面目に出席し、レポート課題も提出期限をきちんと守り、留年も休学もすることなく、きっちり四年で卒業。
職歴欄には〝なし〟と記入。一行空けて右詰に〝以上〟と書く。これまで書き直しを含め、何百枚も書いて来た健太の筆遣いは馴れたものだった。
志望動機欄も記入していく。
(志望動機か……どうしよう? 思いがけず採用されたし、おばあちゃんは空欄のままでいいって言ってたけど)
ここは空欄のままにしておいた。
資格欄他の項目も全て記入したあと、最後に証明写真を貼り付けて履歴書は仕上がった。
(健康診断書、一応問題無いけど……)
痩せてはいるが持病は一切無く至って健康。ただ、視力はかなり悪かった。裸眼視力は両目とも0.1未満だ。そのため彼は度の強い眼鏡を愛用している。
(わりと広いんだな)
健太は谷風寮の見取り図を確認した。
玄関があるのは南側。寮の一階、ロビーの奥には北に向かって廊下が伸びており、西側に台所と談話室、東側に共同トイレ、管理人室、書斎が南側から順に並んでいる。
廊下をさらに奥へ進むと両サイドに中庭が見えて来て、そこを十五メートルほど突き進むと平屋建ての別館へ辿り着く。そこは大浴場となっていた。
客室は本館二階と三階にある。各階四屋ずつの全八屋。どのお部屋も広さ十畳ほどの和室だ。寮生三人は二階の客室を利用しており、佐代里が201、友子が202、秋香が203号室。生徒寮といえば相部屋がイメージされるが、ここでは珍しく一人一部屋ずつ用意されていた。
谷風寮の外観は大正三年【一九一四年】の旅館創業当時からほとんど変わりないものの、建て直す際、建物の一部を旧来の木造から耐震性の強い鉄筋コンクリート造りに変えたらしい。
☆
午後八時頃、谷風寮。
「健太くん、早く来ないかなぁ。楽しみだなぁ」
「とっても誠実で心優しそうな人だったわね。わたしも一目で気に入っちゃった♪」
佐代里と友子、そして秋香も、大浴場の湯船にゆったり足を伸ばしながらくつろいでいた。浴室には、一度に二〇人ほどは入れる大きな檜風呂が備え付けられてあるのだ。
「秋香ちゃん、新しい管理人さんになってくれる健太くん、すごく良さそうでしょ?」
「……分かんない」
佐代里の問いかけに、秋香は困惑顔でこう答えた。
※
「アイス、アイス。これからはアイスが美味しくなる季節だねえ」
佐代里は風呂から上がり脱衣場で体を拭くと、そのまま台所に駆け込み冷蔵庫の前へ。中から抹茶味のアイスキャンディーを取り出しロビーへ向かい、ソファーに座るや否や、パクッと齧りつく。
「佐代里ちゃん、健太ちゃんが来たら、そんなはしたない格好のままうろついたらいけないよ」
千代さんはにこにこ微笑みながら、抹茶アイスを美味しそうに頬張る佐代里に優しく注意した。
「はーい」
佐代里はてへりと笑う。バスタオルを一枚、膝上から肩の辺りにかけて巻いただけの姿だった。
「わたしも気をつけなくては」
「あたしも気をつける」
同じような格好でロビーに現れた友子と秋香は、ちょっぴり反省する。
三人とも脱衣場へ戻りパジャマを着込んだあと、またロビーへ。
その途中、佐代里はもう一度台所へ寄り、戸棚にあった鯖缶を持って来ていた。
「文ちゃん、エサだよ。おいでーっ」
ミャー。
佐代里が鯖缶を開け床の上に置くと、文治郎が一目散に駆け寄ってくる。
文治郎は鯖が、ネコにはありがちだが一番の大好物なのだ。
「文ちゃん、美味しい?」
佐代里がにこやかな表情で話しかけると、
ミャーンと、文治郎はとても幸せそうな表情で返事をした。
「そうか、そうか。鯖好き文ちゃんだねぇ」
佐代里は文治郎のふわふわした胴体を優しくなでてあげた。
「佐代里ちゃん、なかなかの逸材を見つけて来たね。いまどき滅多にいないよ、あそこまで人柄の良い子」
千代さんは柔和な笑みを浮かべる。とても嬉しそうだった。
「私、一目見て不思議な魅力を感じたの。健太くんは普通の人とはオーラが違うなぁって」
佐代里はてへりと笑う。
「でも、どうしてあんなに良い人そうなのに、今までどこからも雇ってもらえなかったのかなぁ?」
ソファーに腰掛け、ゆったりくつろぎながらバラエティ番組を眺めていた友子は、ふと疑問を浮かべた。
「健太ちゃんは確かに誠実で謙虚、心優しく慈悲深く、素直で正直者で品行方正な善良な子だよ。おらは一目で健太ちゃんの人となりが分かったさ。でも、大人の社会では健太ちゃんみたいな性格の子であっても、人間的に優秀だと評価されるとは限らないのさ。友ちゃんは、無職っていうとどんなイメージ持ってるんだい?」
「うーん……平日の昼間からパチンコ店や、競馬場に入り浸ってる柄の悪そうな人達かなぁ? 社会科の先生も、無職にはろくな人間がいないっておっしゃられてたよ」
「私もそんなイメージ持ってた。でも、健太くんは例外だね」
千代さんから友子にされた質問に、佐代里も答えた。
「いやいや例外ではないのさ。無職の中には親や学校の先生とかから言われたことはきちんと守る。学業優秀、そうではないにせよ自分なりに日々コツコツ努力する。不良行為や賭け事にも一切手を出さず真面目に生きて来た。こんな良い子として育って来た人間性のとても優れた子もいっぱいいるのさ。世の中には人の悪口を言ったり、騙したり、暴力をふるったり金を盗んだりが平気で出来るような、奸悪な一面がある子達もたくさんいるけど、そういう子達の方が世の中で求められてるリーダーシップやコミュニケーション能力、社交性が優れているとかって社会から高く評価されて、就職もその後の出世も上手くいくケースも大人の社会じゃよくあるものなのさ」
千代さんはため息交じりに長々と話し伝える。
「千代お婆ちゃん、学校社会でも似たようなことが言えるよ。真面目で勉強が出来て大人しい子より、バカで陰ではいじわるしてくる明るい子の方がクラスの人気者になって、先生からも好かれるし」
秋香はむすっとした表情を浮かべ、不満そうに伝えた。
「秋ちゃんの言うことも、ほぼその通りだね。学校でも社会に出てからも、良い行いをして来た子達っていうのは、気苦労をすることが多いものさ。健太ちゃんもきっと、今まで気苦労ばかりして来てるよ。おらにはよく分かるさ。でもみんな、絶対非行に走っちゃいけないよ。真面目に慎ましく生きてても、報われることだってたくさんあるんだから」
千代さんは優しく微笑みながら伝える。
「それはお婆ちゃんの言うとおりだよ。私も学校でみんなからいじめられてる子を助けたら、私までいじめられたことがあるけど、その子から感謝されたし、私の行いを評価してくれたお友達もいっぱいいたもん。私、絶対良い子のままでいるっ!」
「わたしもです。ずる賢いことして褒められても嬉しくないもん」
「あたしも、ずっと良い子のままでいるよ。悪い子は大嫌い」
寮生三人は固く誓った。
「さすが谷風寮生だ。ずっと就職試験に落ち続けて来た健太ちゃんが、佐代里ちゃんと出会え、谷風寮の管理人になれたのも、日頃の行いが報われた結果に間違いないさ。あの子は絶対すごくやる気のある子だよ。無職の中で若い子達はニートとか引き篭もりとかって世間じゃ悪く言われてるみたいだけど、そんな子達でも仕事にすごくやる気がある子、仕事さえ与えられれば真面目に働く子はたくさんいると思うのさ。ただ、そんな子達は不器用で自己主張が不得意で、友達が少なくて人前で話すことが苦手な子も多いんだ。一般的な社会っていうのは友達がいっぱいいて体力があって、明るく活発で要領が良く饒舌な人間を欲しがるもんだから、そんな子達がなかなか仕事にあり付けないのは無理もないのさ。おらはそんな子達でも快適に働ける職場ってのを、せめて谷風寮の中だけでも提供してあげたくて……おらが新しい管理人を募集しようと思ったのは、そんな理由もあったからなのさ」
千代さんはしみじみと語る。
「そうだったんだ。わたし達が就職する頃には、健太お兄さんみたいな感じの人が、もっともっと働きやすい世の中になればいいな」
「そうだね友子ちゃん。今の大人の社会は学校の社会よりも遥かに理不尽で厳し過ぎるみたいだもんね」
「あたしもそう願うよ。みんな平等が一番だよね」
寮生三人は興味深そうに千代さんのお話を聞いていた。
午後九時頃。
「わたしのとこの寮、来週から新しい管理人さんが来るよ。千代お婆さんも引き続き管理人は続けるけどね」
自分のお部屋へ戻った友子は、同じクラスの親友で自宅生の、安福真津美という子にスマホで連絡した。
『本当!?』
その子がけっこう驚いていることが電話越しにでも分かった。
「もうどんなお方か拝見したんだけど、とても真面目そうで心優しそうな若い男の人だったよ」
友子は嬉しそうに伝える。
『若い男の人って! 大丈夫なん? 女子生徒寮の管理人を任せて』
「絶対大丈夫よ。千代お婆さんがすごく気に入って採用を決めたんだもの」
『千代婆ちゃんがっ! それじゃ、性犯罪起こしそうにないまともな人かな?』
「まともな人に決まってるわっ!」
真津美の浮かべた疑問に、友子は満面の笑みで自信満々に答えた。
「お母さん、来週からね、谷風寮に楞野健太くんっていう新しい管理人さんが来てくれることになったの♪」
『それはよかったね。佐代里とっても嬉しそうね。声が弾んでるわ』
「うん! とっても嬉しいよ。お婆ちゃんも友子ちゃんも文ちゃんもすごく喜んでた。お婆ちゃんお墨付きのとってもいい人だから、秋香ちゃんもきっと喜んでくれるはずだよ」
佐代里は城崎にある実家にスマホで連絡。
《スズナ、あたしと佐代里お姉ちゃんと友子お姉ちゃんの住んでる寮、なんか新しい管理人さんが来るみたいだよ。来週の月曜日から》
秋香も同じクラスのお友達、二星鈴菜にラインで知らせた。
《上之原先生、来週の月曜日から、谷風寮に管理人さんがもう一人増えるみたいです》
そしてもう一人、クラス担任にも異なる文面で送信した。




