第七回
野狐の蛇足とはいったい馬琴はその寂寥な風景画をどのように捉えているのだろうか。痴狂の情死こそ不可思議な霊に誑かされた男女の謎ではないか。余が補足した野狐が魔性の醍醐味を描き表わしているという演出なのだ。どういう思慮の狭き短絡の持ち主なのか。余が会得した宗理の画風は寒夜の野狐こそこの世の類みな虚しからずが自然の理を表わし、互いの尊厳を悪戯に貪ると一方において必ず厳罰の報いがあると知らしめているのである。
退散していった角丸屋もあれからしばらく姿を見せず浅草馬道の埃風にも閑寂の態が吹き荒んでいる。
朝の日課は再び魔除けの獅子の画を描き、米びつを下敷きに半紙を広げる。気に入った獅子画が完成するまで筆を持ちつづけ、昼を過ぎても食せず渇いても茶を入れず踏み場のないほど散在があろうと無頓着だった。他に鳥獣略画や職人略画の方も相変わらず執着しつづけて夜更けの闇のなかでも眼を凝らす。
そろそろ画料が底をついてきたが略画の売り先は未だ決まらなかった。いずれ版元が見つかるまで煩わずに貯めて置くことにする。
過日雨のなかを茅場町の看板問屋を歩いたとき市村座の請け絵の伝手を聞いていたがその詳細は日本橋の鶴屋にて乞うように案内があった。主人の九佐衛門が出てきて言うのには「絵師の得意とするところの絵を持参して賜わば一考して返事しよう」とのことだった。早速帰って筆をとり数日来こだわってきた生首の画に真剣に取り込もうと思ったが臨場感あふれる怪奇な素画とはいったいどんなものなのか。なかなかその描画は完成しなかった。
描きたいのは切り撥ねられた武者の首。しかし単に惨たらしさを表現するのではない。見開いたその眼に死霊が宿っていなければならなかった。宗理の画風では幽玄さはあっても死霊の響きが出ない。余の生首の画は死霊の魂を描くのだ。
二、三日考えても埒あかず眼が疲れてきて柱を見上げるとそこに蜜柑箱の御身が俄かに輝いていた。
促されるまま又筆をとる。苦慮算段し、心魂を注ぎ込んだ。