第六回
「水滸伝」といえば馬琴、馬琴といえば北斎が巷に流れる合わせ絵師だ。それをお蝶が知らぬわけがなかった。
「それじゃ気心知れた相手じゃないか。その版下の絵、野狐を消せの消さぬなど筋書きと何の関係があって?とばちり受けるのは版元の角丸屋じゃないか」
「馬琴はわかっちゃいねえ。完結場面にこそ物語が生きようっていう要の締めっくりに難癖つける愚かさよ。食を漁る野狐の姿の暗示こそ効果てきめんなのによ。削除しては何の響きも伝わりゃしねぇよ」
「おやまあ、其れが朋友同士の有様なのかい。互いにいがみ合っていては先の進まない話じゃないか」
「仕方ねえよ…馬琴はわからねえんだよ」
「ところで生首の話はどうなったの?豊国と勝負じゃなかったのかい?」
「勝負はするわさ」
余は答えたものの実のところこの間見た市村座の看板絵のことを思い浮かべていた。生首の件と亡霊の看板絵が重複してくるのである。摺り物でいくか看板絵でいくか、いずれにしても今流行の物怪の図を仕上げなければならない。
お蝶の膝枕から見上げる障子戸に今宵も月影はなかった。いつもの待合茶屋はまるで深まる秋の気配さえ感じられない。
「ところでお蝶、この間頼んでおいた生首の伝手はないのか。前にも話したようにその決意は消えていない。愈々着手しょうと思う」
言っている裏側で着手するのは先に看板絵の方にあった。雨に煙っていた市村座の看板絵が眼に浮かぶ。生首も亡霊もいずれも妖魔の描写だ。あの拙画を超えるものを描きたい。
「実はな、お蝶。このあいだ芝居小屋の絵をみたときに思ったんだが…」
「?」
「物怪繁盛の浮かれ芝居にあやかってあんな絵じゃだめだ。今着手するのは看板絵が先だ…」
「何を言っているの?看板絵?まあ、呆れた。このあいだまでは摺り物の豊国負かすは生首の怨念こもった絵じゃなかったのかい?それが今度は鳥居派一門に殴り込みかい?」
「そうさ。いったん棲みついた魂は納まりきらねえ…土砂降りのなかの梅幸が泣いてらあ」
つぶやきながら余は襦袢からはみ出ているお蝶の膝をまさぐりながらその手を次第に奥へと進めていった。
「芝居の看板絵は鳥居派一門が占める世界じゃないの。何処に師匠の受け手があるやら」
お蝶は嘲笑を洩らしながらもその吐息が喘ぎ始めた。
「斬られた首に限らねえ、怨念がさ迷っている生首だ。どうだ何処かに死人の霊を呼び戻す霊媒師がいないか?」
「いい加減にしておくれ。そんなもの知らないよ。本当に描きたけりゃ、五反田の処刑場へでも行ってきたらどうなのさ。盗人、罪人の拷問に打ち首、晒し首、惨たらしい懲らしめの数々が拝めるさ。よくもまあ飽かずに生首、生首なんぞと…そんな下拙なもの描いて何の役に立つというのだい。嘗ての勝川派の花形の腕が泣くわさ」
「……」
「そんなに気色の悪いものにこだわるつもりならいっそ、昔描いたという医術図があるじゃないか」
「医術図?」
「阿蘭陀甲比丹依頼の医術人体図のことさ。ほら、百五十金だの七十五金だのと画料でひと悶着のあったという話だよ。人体の臓物などを描くんだといってたいそう苦心してたじゃないか。それは参考にならないのかい?」
それは今考えても煮え繰り返る思い出だった。四谷の医師がいて、余が日夜丹精凝らして描いた人体図を阿蘭陀甲比丹は百五十金で買取ってくれたがその医師は薄給なので半減にしろと言い出し、やむを得ずして苦汁を呑まされたのだ。
「何を言やがる。勘違いをしてやしねえかお蝶。いいか、描こうとしているのは臓物でなく、何度も言うように恨み辛みの生首なんだ」
擦る手が膝から股座へと忍び寄り柔らかなお蝶の肌はやがて息荒く短い叫びに変っていった。
「なら、想像してお描きになったら。もうわたしは身も心もよだち気が変になりそうだよ。そんな野暮な話はやめにして早くわたしをよがらせておくれ」
行燈の灯りは今宵も怪しく揺れ、絹擦れの音を静かに包んでいった。
「見てろ。今に描き上げてやろう。それは生半可な幽霊が腰を抜かして仰天する生首の妖怪だ」