表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北斎画狂人日記  作者: stepano
5/17

第五回


 どしゃぶりの雨のなかを不足していた画工材を買い求めるため浅草の道具問屋を見てまわる。市村座の前を通りかかったときふと見上げると雨に煙る()し物の看板絵が眼に写った。怪しげな雰囲気はあるがたいそう珍奇な景色が覆っていてまるで亡霊が立ち回っているかのようにぼんやりと見える。何という雑な描き方かとわが眼を疑いながら突っ立っていると往来する人々が怪訝そうに立ち止まった。それは尾上梅幸演じる化け物の看板絵だったがまわりを取り巻く物怪(もののけ)の拙筆はいったいどこの門手の作品なのか。ただ悪戯に見せびらかしたように稚拙にて淡白であった。まさに衆人の目を眩ますかのような態がある。

 眺めていると春朗時代の屈辱の出来事が思い出されてくる。何と因縁は巡りくるものかと胸に迫った。それは兄弟子春好に眼の前で破り捨てられた自分の招牌絵のことであった。その出来事以来、将来当世一の画工となってこの日の恥辱を(すす)ごうと勉強忍耐の結果、今日の姿にまでたどり着いたのだ。遡れば狩野派を学び、俵屋宗達の一門宗理の画法を真似、或いは光琳のわざを会得するために費やした精力は返す返すも一途だった。やがて屏風絵、黄表紙、錦絵、摺り物等にその成果は滲み出て巷の画界に轟き、弟子の数は入れ替わりが絶えず、その門下は至る処に散在するに到った。画料が尽きたときにはその都度自らの画号を門下に売りその報酬で急場を凌いだ時代もあって、其の行為は卑賤だと陰口されたが平然そのものだった。

 昔、屏風絵のことではこんなことがあった。  

 本郷に屏風絵の書き問屋の集まる処があった。有名だったので各地の藩士は自分の城主から授かった絵を注文するためそこを訪れていた。

 あるとき津軽藩の使者が訪れて狩野派の流れを汲んだ屏風絵の注文をした。書き問屋は狩野派の絵師を知らなかったので大いに困り誰かその伝のある者を周囲に尋ねたところ、なかにひとり知っていたものがいて彼が余の居所を教えたのだった。

(それがし)は奥州は津軽の城主、津軽越中守の使者だ。屏風絵の件で御願いに参った。本郷にて聞くところによると狩野派の画法を知っているのは貴殿であると受け賜わったが」

 思わぬ珍客だったので取り組み中の画業の手を休めてその使者の姿を顧りみた。

「お上の好みは狩野探幽の画風で、屏風に描いてもらうべき絵師を探していたところ、貴殿が昔狩野派の画法を学んでおられたと聞き、その真意のほどをお聞かせ願いたくまたお上の願いである御地へ参上していただければ有り難き幸せと…」

 果たして過去の門下生が告げたものか。しかし何も隠す理由も見当たらなかったので一瞬図惑ったが取りあえず答えて言う。

「確かに狩野派の画法を学んだがあまりにも唐突な話。今は忙しくて手が空かないので暫し検討の暇を頂戴したい」

 是非にと言われても直ぐには津軽への旅支度などできるはずはなくその日はとりあえず引き取ってもらった。

 狩野派の画法を継ぐ絵師としていったい誰が余の名を告げたのだろうか。勝川派を破門された経緯は一説に余が狩野派の画法を学んでいたからのごとき噂されたことがあった。しかし画工たる道、他派に学ぶことの多ければ、果して模倣そのものが本流の外道といえるのだろうかとその話を門下の者に告げたことがあったかもしれない。しかしこの話も狩野派を継ぎたい気持を表わしたわけではなく常に自分の画工の道を貫く心得を説いたまでのことである。ところが実際にあとから狩野派からも破門されることになり結局、画工の道とは流派の秩序が一番重要なことだと思い知らされることになる。  

 破門の原因は兄弟子であった狩野融川の拙画を余が軽笑したことにあった。その画はひとりの童が竿を持って柿を落とそうとしている図だったがその竿の端は既に遥か柿のところを過ぎてしまっている。にもかかわらず童の尚も足をつま立つ姿が描かれているのは何の意味があるのかと述べたからであった。この発言が師に触れて個別の趣旨を(そし)る類のものとされそれがもとで排斥を受けたのである。つまり思ったままを言ったことが師弟の秩序を壊わすものと見なされた。これが世の流派の規律であったのだ。

 しかし、破門は余の画道にいっさい障りはなかった。余が究した狩野派の画法はその後充分に生かすことができたのである。

 それからしばらく経ったある日、津軽藩の使者が再び訪れた。しかし室内を相変わらず取り散らかしたまま画業に熱中していたので相手になることが出来ず色よき返事もしなかったので再度帰らさせてしまった。

 愈々十日余りしてひとりの家臣が現われた。

「余は津軽の家臣だ。城主が貴候を招くと仰っているのに応じないのは何故なのだ」

 家臣は鼻息荒く高飛車な態度だった。当方の身なりと室内を訝しく眺めた後、懐から金五両を取り出し更につづけて言った。

「これは軽微だが受け取られたい。再三のお願いだが今回はとりあえず藩邸へお越し願いたい」

 しかし、依然として余の何も答えず画業に執着しつづけているのを見て、

「若し貴候が描いた絵が城主の意に適ったら更にまた若干の報酬を与えよう」

 と焦りながら声高に迫ってきた。しかしその性急な態度に対しても心が乗らずただ画業に熱中して返事をしなかった。

 結局、また家臣も帰っていった。

 数日過ぎてから果たしてかの家臣が又やってきて同行を促した。今回はその面構えが苦悩に満ちていて付き人は緊張している。

「本日こそはご同行願いたい。さもなければ(それがし)の面目が立たず城主に対して忠を背くことになる。貴候は如何なる理由でそれを拒んでいるのだ。。ただ黙っているのは不届き千万、若し先般同様に拒否したる返事の繰り返しならば重大な決意に及ぶぞ」

 家臣には先般置いていった五両に威を借りた期待の形相があった。だが反面半ば悲壮な気配も写っていた。しかし即座に同行し兼ねる状況にあったので今回も拒否すると忽ち家臣は大いに怒り、    「ならば愈々貴候を斬って、某も自殺する」  

 と言い放った。傍らの付き人は俄かに慌てて家臣をなだめ、しきりに余に向かって同行を促した。余は仕方なく今は同行し難き状況であることを理解賜わらないのなら先に受け取った金五両を返却すればいいのだと思い、

「明日、人を遣わし該金を藩邸へ返す」

 と返答すると忽ち家臣と付き人は呆れ果てたようになってしばらく動かなかった。そしてやがて憤然として帰っていった。  

 このような早急な仰せは如何に赤貧な生活に潤いの救いとはいえ描く準備が定まらないまま同行するということは如何にも無謀である。承るとなれば慎重に図ることこそその報酬の値打ちに添うものであって軽んじて請合うのは余の性に会わないことだったのである。

 数ヵ月後、屏風の構図が出来上がったので招きの連絡はなかったが突然その藩邸へ赴き屏風一双を描きあげた。その家臣はまさに驚いて余のことを「見上げた奇人だ」と拝した。


 市村座の前で依然と雨に濡れつつ立ち尽くしていた。

 とにかく今は相変わらず役者絵の絵師多しといえ稼ぐ流派は決まっていて歌舞伎役者の意向もあり看板絵は大方が鳥居派が占めている。ましてや今をときめく市村座の看板役者、音羽屋梅幸の()し物は全て鳥居派が握っているはずだ。その大御所は清信であろう。清信の画風は役者絵の新派といえたが眼の前の絵、これほどまでに手抜かりの思慮浅き怨霊の図を描くとは思わなかった。覇者の奢りか瞬時の手抜きは合点ならず益々憤懣やるかたないままようやくそこを離れた。

 再び雨に濡れつつ歩を進める。路傍の溜まりのなかを音を立てて踏みいったときふと過去の鬱憤を晴らそうと考えた。勝川派破門は元はといえば招牌絵を破った兄弟子春好との不仲にある。あのときの屈辱をまさに晴らす機会が訪れているのではないか。市村座も驚く怨念の姿図を今の北斎に描かせれば有無を言わせねえ。生首の画の構想もある。忽ち例によって躍動してくる怪しき魂が沸き起こってくるのである。鳥居派一門の拙筆が本来破門受けた勝川派ではなくいわばお門違いではあるが嘗ての春朗が目醒しのいい腕試しになるに相違ない。

 確か茅場町の橋の袂に看板屋問屋があったはずだ。雨は煙りいずれが茅場の方向なのか草鞋(わらじ)の脚に泥がつきまとった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ