第二回
小伝馬町・待合茶屋のお蝶の部屋に行く。秋の夜長である。開けた二階の障子戸から闇夜の風が入ってくる。虫の音も少し混じる。それを耳にしながら依然と考えつづける。美人画の幽霊を如何に打ち崩さんものかと思い巡らすことしきり。肝心なのは描く画材なのである。果して生首が物怪になるのだろうか。姿を化かす幽霊はその恐怖の心を届けるが残忍な生首の場合はどうか。亡霊なるものが果して画のなかに表現できるのだろうか。
「豊国の物怪ねぇ。そりゃあぞっとするわよ。深川の待合に来る旦那衆にもたいそう評判だって聞くわ。あたしも一度猫の子一匹通らぬ丑三ツ時にこの隅田川の先にある宵町茶屋の柳の下で吾妻下駄の着流しでもって手招きしながらたたずんでみようかしらねぇ」
「馬鹿。吾妻下駄ってなんで履くんだ。足のある幽霊なんて見たこともねえや」
笑うと膝枕するお蝶の柔肌が小刻みに揺れて妖しき熟女の馨りが襦袢の裾から仄かに匂ってくる。稀有な刺激画或いは真髄に届く残酷画なるものを如何にして表現したものか。得体の知れぬ妖怪を描くことは今まで経験がなく極めて難解な事態だ。とはいえ所詮、絵師の宿命とは時として眼で実際に視たものを描かず湧き上がってくる絵心をもって描くことだってある。それは手練手管の画技を生業としている絵師の為せる技なのだ。
「生首はどうだ、お蝶。しだれ柳の陰に立つ幽霊と互角の勝負ができゃあしねえか」
色香が混じる膝枕のうえでいきなり覚醒したようにつぶやいてみた。生首という未経験の画材に惑わされてきたがようやくその苦心も解けていきそうであった。人々の興味を惹き付けるための画業の素性がまどろみのなかで僅かに湧き起こってくるのである。姿図の幽霊に足らないものを補えばいいのだ。物言わぬ生首がそれを凌ぐ何かを語る。対抗すべきはこの一点だけに絞られる。
「やだよわたしは、生首も幽霊も。大体今流行の物怪のいかがわしさったらありゃしないよ。それに軽薄だしさ。みんな興味本位よ。そんなことも知らないでその流行に踊らされて画材に血眼になるとは情けないね。ま、人々はみな、怪奇なものに飢えてるのよね。その気晴らしを物怪にて紛らわそうとしてるのよ。それを何よ、師匠は幽霊を負かす負かさぬなどと…」
言われてみればお蝶の言うこともわかる。
「わたしはね、師匠のそういう勝ち負けにこだわるところが嫌いよ。他人は他人、描きたいものを描けばいいじゃない。何も描きたいものを競う必要はないわ。豊国は豊国にしか描けない画を描くんじゃない。師匠は師匠の画を描けばいいじゃない。何も負かす負かさぬの話しではなくてよ。わたしはね、思うのに師匠の往年の浮世絵はいったい何処に行ってしまったのかしらと思うの。巷に踊らされて版元に煽られてあげくに画材の迷っている今の姿を見ると昔初めて会ったときの師匠はいったい何処へと…画材ひとつにしろ今のように疑心暗鬼の態はひとつもなかったのにさ」
お蝶の神妙な声が膝枕のうえで心地よく流れつづけた。
お蝶と出会ったのは嘗て勝川門下に居た頃で浮世絵が栄華を極めていた時期だった。余が昇り龍の如く役者の似画請け絵師として人気を博していた頃で当時は界隈を闊歩していたものだ。しかし、往年の云々とお蝶は言うがその頃は他に何でも描いた。衆人の好みも多様であったから人々の興味を注ぐものならいかがわしい卑俗な絵も描いたのである。
「やいお蝶、浮世絵、浮世絵といかにも高尚な言い回しをするがお前も聞いたことがあるだろう、猥褻画のことを。あれもすべて浮世絵なんだぞ」
「おやおやなんていういいぐさなのかしら。師匠自身が描いた絵、もはや勝川春朗の名をお忘れなの。わたしはね、何も猥褻画の類を言っているのではありませんよ、卑しくも一世を風靡した役者絵師としての力量、元はと言えば春水の流れを汲む誉れある役者絵じゃないか。そのことを表裏に諭してあげているというのに。もう嫌いっ」
「……」
「それを何だい。今の師匠は物怪の衆人目当ての版元の手篭めにされているかのような体たらく。そんな姿が情けなくてわたしは言っているのよ」
余が兄弟子との些細な喧嘩が因で勝川一門追放の憂き目に会い、唐辛子売りなどして極貧を舐めた日々もあったが破門後も狩野派の画法や俵屋宗理の画風に惹かれ己の筆を磨きつづけられたのはその陰にお蝶の存在があったことは否めない。今宵よもや、役者絵師で誉れ高き春朗の名を呼び覚ませてくれ叱咤激励してくれるのはやはりお蝶をおいて他にない。花の盛りは過ぎたといえまだまだ色香の残っている姐御肌、絵師なりたての頃以来贔屓にしてきた甲斐があるというものだ。
しかし、今や余の画号は北斎。狩野派、宗理、光琳を真似てはいるが模倣にあらず独自の画風を築き上げているつもりだ。だから嘗ての世界で競った歌川派豊国を相手に勝川派一門の名において美人画幽霊より凄まじき心霊図を描こうと言っているのである。この決意が何の体たらくであろう。
心地よい膝枕に微妙に奇しき音が響く。今朝の厠の蟋蟀の鳴き声が聞こえてくるようだった。
「お蝶、頼みがある。さっきから言っていることは真だ。人の生首を描きたい。何処かにその伝手がないだろうか」
「……」
「怨念の沁みついた斬られた生首だ。この世を儚み惨たらしいものが滲み出ている転がった生首だ。性別は後回しでいい」
「自分で探したら?…」
お蝶の声は途切れ再び沈黙が覆った。間に灯る行燈に静けさが張り詰め更にその度を増していった。