「丈夫な妻」は、夫が幼馴染のもとで「今夜が峠」と言う夜に、本物の峠を越えました
「君は丈夫だから、一晩寝ていれば治るだろう」
夫がそう言ったのは、私の熱が三日目に入った夜だった。
関所館の奥の寝室で、私は毛布を二枚重ねて横になっていた。三日前の地吹雪で、谷から上ってきた荷馬車の列を夜通し導いたのが祟ったのだ。縄を張って先頭に立ち、凍えた御者を一人ずつ館に収め終えたとき、自分の指の感覚はもう無かった。
その吹雪の夜も、夫は館にいなかった。
「アーデルハイトが夕方から息が苦しいと言うんだ」
上着の袖に腕を通しながら、ヘニングは言った。ミットラー峠の関守を務めるグロス子爵家の当主で、私の夫になって三年になる。丁寧に櫛を入れた栗色の髪が、ランプの光の下で少し乱れていた。
関守の務めは、本来は通行税を取り立てることだ。実際に峠の道を守るのは、峠の宿の娘として育った私の仕事だった。雪標を立て、縄を張り、旅人を迎える。結婚してからも、それは変わらなかった。
「医者は、今夜が峠だと言っている」
峠、と私は喉の奥で繰り返した。
峠の宿の娘に向かって峠だと言うのか、と思った。可笑しさとも悲しさともつかないものが、熱の底から浮かんできた。
アーデルハイトはヘニングの幼馴染だ。去年の冬に夫を亡くして、東の棟で暮らしている。体が弱くて、冬の夜には必ず具合が悪くなる。ヘニングはそのたびに東の棟へ通った。冬至の祝いにも私の誕生日にも。
「水差しは枕元に置いておいた。薬は戸棚だ」
「ヘニング。私、三日」
「分かっている。だが君は丈夫だから。ここで育った人は、風邪くらい一人で治すものだろう?」
彼は私の額に、触れるか触れないかの手を当てた。冷たい手だった。
「朝には戻る」
扉が閉まった。廊下の足音が遠くなり、やがて東の棟のほうから、ピアノの音がかすかに聞こえてきた。ゆっくりした、眠りを誘うような曲だった。
丈夫、と私は天井に向かって言った。
三日間、水を替えてくれる人はいなかった。何度か起き上がって自分で替えた。丈夫な人間はそういうものなのだろう。
それからどれくらい経ったのか、分からない。
関所館の横戸がごつごつと叩かれた。
峠の宿は夜でも旅人のために戸を開ける。それが決まりだった。熱で重い体を起こし、壁に手をつきながら廊下を歩いた。吹雪の夜に誰かが戸を叩くとき、遅れれば指が落ちる。
戸を開けると、雪まみれの男が立っていた。
「ティーネさん」
郵便配達人のローマン・ケルンだった。週に一度、谷の町から峠を越えて郵便袋を運ぶ人で、たいてい木曜の昼に来る。夜に来たことは一度もなかった。
「道が閉じかけてた。一晩泊めてくれ。……あんた、何だその顔」
返事をする前に、膝が折れた。
床に着く前に、片腕で受け止められた。
「熱だな。誰もいないのか」
「旦那様は、東の棟に」
彼は一瞬、黙った。私を寝室まで運んで寝台に下ろし、毛布を掛け直し、暖炉の火の様子を見て、何も言わずに外へ出ていった。しばらくして薪を抱えて戻ってきた。
「勝手に使うぞ」
夜半に一度、熱の波が引いて目が開いた。ローマンが暖炉の前にしゃがんで、火かき棒で灰を寄せている。
「起こしたか」
「いえ。……すみません、お客様に」
「客が看病するなんて、峠の宿じゃ聞いたことがないな」
「お代は」
「飯代と相殺だ。あんた、三年分の俺の飯代を、まだ受け取ってないだろ」
そんな話は初めて聞いた。目で問うと、彼は火のほうを向いたまま言った。
「木曜の昼に来るたびに、あんたが何も言わずにスープを出してくれた。あれの代金だ」
可笑しくて、息が漏れた。笑うと咳が出て、彼が水を差し出した。
それから夜が明けるまでに、彼は三度、水を替えた。濡らした布を額に当て直し、粥の鍋を温め、私が眠ったと思ったときには、小さな声でひとつ咳払いをした。
明け方、彼は荷を背負い直した。
「熱が引いたら、ちゃんと食え」
戸口で彼は言った。
「丈夫でも、飯を食わなきゃ倒れる」
丈夫でも。
その言い方が耳の奥に残った。
戸が閉まる音を聞きながら、私は決めた。熱が引いたら、この館を出る。
◇
昼前に目が覚めたとき、熱は引いていた。
体が軽かった。何日ぶりかに頭の芯の霧が晴れている。窓の外では薄く雪が降り、東の棟の窓には、厚いカーテンが引かれたままだった。
ヘニングは戻っていなかった。朝には戻ると言ったのに。
寝台に座って、指を折った。三度の冬至の祝い。三度の誕生日。結婚した日の夕食。ヘニングが「今夜は行けない」と言った夜の数。
途中で数えるのをやめた。夜の数が多すぎて悲しくなったのではなかった。二人きりで過ごした夜を、思い出せなかったのだ。
私は起き上がり、関所日誌を開いた。峠の通行を記す、一冊の分厚い帳面だ。三年間、毎晩の通行を書き込んできたのは私の字だった。
最後の頁に、今日の日付と短い一行を書いた。
『本日付で、関所館の任を離れます。ティーネ』
その上に、左の薬指から外した結婚の指輪を置いた。
荷物はほとんど無かった。父から譲られた探り棒と、縄と、雪靴。毛布を一枚。それだけを背負って裏口から外へ出た。
雪は音を吸って降っていた。東の棟の窓は閉じたままで、ピアノの音はもう聞こえなかった。
峠の北側の斜面を、三刻かけて登った。父の山小屋は、尾根の風が止む窪地に、半分雪に埋もれて建っている。
煙突から煙が上がっているのが見えたとき、足がようやく軽くなった。
「ティーネか」
戸口に出てきたのは、父のヨルクだった。顎に白い髭を伸ばした、体の小さな人だ。私の背の荷を見て、顔を見て、何も訊かなかった。
「湯が沸いとる。入れ」
それだけだった。
◇
北の小屋は冬の間も旅人のために戸を開けておく決まりだった。
朝は雪をかき、煙突の氷を落とし、薪を割る。昼には道標の頭を拭う。夕方には谷から上がってくる旅人のために湯を沸かす。関所館でやっていたことと同じなのに、不思議と息が楽だった。
誰かの「丈夫だから」を、背負わなくていい。
凍えて辿り着いた旅人の足は、雪で擦らず、ぬるま湯で時間をかけてほぐす。若い旅人にその手順を教えながら、父に教わった順番を、自分の口が覚えていることに気付いた。
ローマン・ケルンが小屋に来たのは、三日後の木曜だった。
「やっぱりここか」
彼は郵便袋を戸口に置いて、肩の雪を払った。関所日誌の最後の頁を見て、すぐに分かったのだそうだ。
「あんたの字は、いつも少し右に傾く。最後の頁だけ、まっすぐだった」
私は湯を注いだ。
土間の長椅子に腰を下ろした彼は、片手に杯を持ち、もう片手で膝の上の袋の紐を直していた。三十になるかならないかの人で、日焼けした頬に、風で切れた細い傷がいくつも走っている。
父が囲炉裏の向こうで、胡桃を割りながら聞き耳を立てているのが分かった。
「二年前の春にな」
ローマンは唐突に話し出した。
「雪融けの道で、あんたが一人で杭を立て直しているのを見た。一本十数キロの杭を、谷の下から背負って、二百本。ほとんど休まなかった」
「丈夫ですから」
「知ってる」
彼は杯を傾けた。
「あんた、いつもそうなんだ。見てる人間がいるうちは、一度も弱音を言わない」
「言う相手がいないだけです」
口に出してから、自分の声に驚いた。ローマンは目を上げ、それから小さくうなずいた。
「そうか」
それ以上は何も言わなかった。
翌週も、その次の週も、木曜に彼は来た。郵便袋の底から谷の町の菓子を取り出して、父と私に分けた。私が水桶を持とうとすると、黙って先に持った。「丈夫ですから」と言うと「知ってる」と返して、そのまま運んでいった。
不思議と、癇に障らなかった。
ある晩、囲炉裏の火を落としながら、父が言った。
「お前は小さいころから、熱が出ても言わん子だった」
「そうだった?」
「五つのときに肺をやったときも、朝まで黙って寝とった。わしが見つけたときには、唇が青くなっとった」
父は胡桃の殻を火に放った。
「丈夫と呼ばれて倒れた者を、この山で何人も見た。丈夫なやつは、倒れる前の最後の一歩まで歩くからだ」
私は返す言葉が見つからず、膝の上で手を組んだ。
「嫁に出したのは、わしの間違いだった」
「お父さんの間違いじゃない。私が選んだの」
「選んだことと、間違いは、別の話だ」
それきり、父は寝床に入ってしまった。
二週目の木曜には、郵便袋の底から見覚えのある封筒が出てきた。
ヘニングの字だった。宛名を書く手が少し急いでいる。
『ティーネへ。館の雪標の位置を教えてほしい。使用人が道を間違えて、昨日は荷車が溝に落ちた。早く戻ってきてくれ。君がいないと困る』
読み終えて、封筒ごと暖炉に入れた。
「返事は」
ローマンが訊いた。
「要りません」
「そうか。じゃあ、こっちもそのまま持って帰るか」
彼は袋から、もう一通を取り出してみせた。同じ筆跡で、同じ宛名だった。
「谷の町の郵便局を通って二通。配達人として言うと、三通目も来る」
私は笑ってしまった。笑ったのは久しぶりで、喉が少し掠れた。
三通目の封筒には、さらに短い一行が書かれていた。
『戻ってこい』
謝罪の言葉はどれにも書かれていなかった。
彼が谷の町から来る道は、本当は関所館のほうが近い。北の小屋まで回れば、半刻は余計にかかる。一度それを言うと、彼は肩をすくめた。
「こっちの道のほうが、郵便が少ないんでな」
嘘だと思ったが、指摘はしなかった。
三週間目の夕方、父が空を見上げて言った。
「明日は崩れる」
◇
父の言ったとおりになった。
翌日の昼から降り始めた雪は、夕方には地吹雪に変わった。小屋の窓は白い壁になり、風が煙突を鳴らし続けた。
その夜、戸が激しく叩かれた。
開けると、雪を全身に張り付かせた男が転がり込んできた。
「ティーネ」
ヘニングだった。外套の襟が凍って顔の周りで割れ、唇が紫になっている。付き人は連れていない。一人で、三刻の道を登ってきたのだ。
私は彼の外套を脱がせて暖炉の前に座らせた。ヨルクが熱い茶を持ってきた。
「君がいなくなってから、毎日誰かが道に迷う。使用人たちは、どれが雪標なのかも知らなかった」
彼は暖炉に手をかざしたまま、顔を上げなかった。
「馬車が、南の側で止まっている」
震える声で彼は言った。
「郵便馬車と、谷の医者の一行だ。子供が一人。御者が二人、乗客が五人。雪標が埋まって動けなくなった。館の者は誰も、雪の下の道が分からない。……君にしか、越えられない」
土間の隅で、ローマンが立ち上がった。この嵐で足止めされていたのだ。
「それと、アーデルハイトの薬が」
ヘニングはそこで言い淀み、それから、少し照れたような笑みを作った。
「君は丈夫だから、この雪でも大丈夫だろう? 頼む」
小屋の中が静まった。
囲炉裏の薪がはぜた。
「ヘニング。あなたはあの夜も、同じことをおっしゃいました」
「あの夜は、アーデルハイトが」
「今夜が峠だと。存じています」
私は壁の掛け釘から雪靴と縄を取った。
「三年間、あなたの峠を、わたくしは毎晩一人で越えてきました。今夜は本物の峠へ参ります」
彼の顔から血の気が引いた。
「関所館の者としてではありません。峠を知る者として、馬車の方々を迎えに行きます。ついてくるなら、わたくしの縄を離さないでください」
◇
夜の峠は白い闇だった。
先頭に私、真ん中にヘニング、最後尾にローマン。腰を縄で結び合って、一歩ずつ歩いた。探り棒を雪に差し込み、下に道があるかを確かめる。雪の下に埋もれた雪標の頭を探り当てて、次の標へ向かう。目隠しをして歩くのに近い。三年間、毎冬、私が体に覚えさせた道だった。
半刻ほど登ったところで、足を止めた。
「どうした」
「静かにしてください」
前方の尾根の肩に、雪がせり出している。昼の光なら見えたはずの庇が、闇の中で、風の音の変わり目としてだけ分かった。足を乗せれば、庇ごと落ちる。
私は腰の袋から石を取り出して、庇に向かって投げた。
一拍おいて、低い音とともに白い塊が崩れ落ちていった。しばらくして、谷底のほうから雪煙が上がった。
「あの下を通っていたら」
ヘニングが掠れた声で言った。
「通りません。尾根の裏を回ります。倍の時間がかかります」
進路を変えて、さらに歩いた。
「ローマン。後ろは見えますか」
「縄の重さで分かる。三人分、ちゃんとある」
「子爵様は」
「ぜえぜえ言ってるが、生きてる」
「聞こえているぞ」
縄の真ん中から、ヘニングの息を切らした声がした。ローマンが喉の奥で笑った。
一刻ほど過ぎたところで、縄が後ろに引かれた。
「待ってくれ」
ヘニングの息が大きく乱れていた。
「待ってくれ、ティーネ。足が動かない」
「止まると凍ります」
「少しでいい。……君は、どうして平気なんだ」
「平気ではありません」
私は振り向かずに答えた。
「寒いです。足も腕も痛いです。三日前の熱も、まだ完全には引いていません。でも、道が分かっているから歩けます」
縄がぐっと張った。ヘニングがしゃがみ込もうとしている。
「ローマン」
「ああ」
最後尾の影が前に出た。ローマンはヘニングの背負い袋を外して自分の肩に掛け、脇の下に腕を入れて立たせた。
「歩けるだろ、子爵様」
「あ、ああ」
「縄を離すなよ。あの人が言ったとおりに」
私は前を向いた。縄にもうひとつ分の重さが乗った。それでも、足は前に出た。
夜が明けるころ、南側の雪標の陰に、馬車の黒い影が見えた。
乗客は五人、御者は二人。みな毛布にくるまって肩を寄せ合い、馬を風除けにして一晩を耐えていた。十歳くらいの男の子が母親の腕の中で熱を出している。私は荷から、小屋で煮詰めた薬湯の壺を出して、子供に少しずつ飲ませた。
母親が涙の跡の残る顔で私を見上げた。
「あなたが来てくださらなかったら、朝まで持たなかったと思います」
「間に合って良かったです。この子の足も温めてください」
私は子供の靴を脱がせ、自分の毛布の端で足を包んだ。男の子が熱で潤んだ目を開けて、小さな声で言った。
「おねえさん、つよいね」
強い、と言われたのは初めてだった。丈夫、とは違う響きがした。
「強くないの。道を知っているだけ」
谷の医者はブラウン先生といった。白い髭の痩せた人で、私が子供の額に布を当てているのを見て、疲れた目で微笑んだ。
「ありがとう、お嬢さん。グロス夫人かな」
「いいえ。ただの峠守です」
口にしてから、その言葉の座りの良さに自分で驚いた。
先生は荷から小さな薬袋を取り出して、ヘニングに渡した。
「ご依頼のものです。グロス夫人の眠り薬ですが、これ以上は出せませんぞ。毎冬、同じ文面の使いをよこされても、あの方のご病気は命にかかわるものではない。冬の夜の心細さだ」
ヘニングは薬袋を受け取ったまま、凍りついたように動かなかった。
彼が三年間、「今夜が峠だ」と言い続けた夜は、どれも本物の峠ではなかったのだ。
◇
春が来て雪が解け、峠の道が開いた。
領主の事務所で、離縁の書類に署名した。ヘニングは自分の欄を黙々と埋め、最後に一度だけ顔を上げて「すまなかった」と言った。私は「はい」と答えた。それ以上は要らなかった。
事務所の廊下で、黒い服のアーデルハイトとすれ違った。彼女は立ち止まり、私に深く頭を下げた。顔色は悪くなかった。
「あの冬は、ごめんなさい。ヘニングに甘えすぎていました」
「いいえ」
それしか、答えられなかった。彼女の指にはもう何も光っていなかった。
関所館は領主の直轄に改められ、ヘニングの手元に残ったのは子爵の名前だけだった。
あの夜の馬車の乗客の中に、領主付きの書記官の親戚がいたらしい。峠の道を導く正式な役目の欠員に、私の名前が挙がった。領主から俸給を受ける峠の案内人頭で、肩書きに夫の名前は付かない。
四月の朝、私は峠の頂に立っていた。
新しい雪標の杭を二十本、背負い籠に積んで尾根を登ってきたところだった。籠の縄が肩に食い込み、吐く息が白い。
「貸せ」
後ろから声がした。ローマンが郵便袋を腰に下げて立っていた。
「丈夫ですから」
「知ってる」
彼はいつもの調子で言い、それから珍しく真面目な顔をした。
「丈夫な人間なんか、いない。重い物を背負うのが上手いやつと、背負わせてもらうのが下手なやつがいるだけだ」
朝の風が杭の頭を鳴らした。
「今日は俺が持つ。あんたは持たせろ」
私は籠の縄を肩から外した。
ローマンの手が受け取り、ひょいと自分の背に載せた。重みがまるごと消えた。肩が勝手に高く上がった。
丈夫だと言われ続けた肩から、荷が下りた。
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