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霧の後に  作者: Eisei3


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9/12

第9章 葛藤

 大森和美は、徹との関係ができてからも、児童相談所の職員として、それまでと変わらない日々を過ごしていた。

 ただ、徹に返事をしたあの夜、胸の奥で決意した想いは、常に彼女の頭の中で自らの心を苦しめ続けてもいた。自ら覚悟し、選んだ道であったはずの徹との関係。

 

 『 不倫 』

 この二文字が、いつも彼女の頭の中にはあった。例えそれが、徹と会った夜の最中(さなか)にでも。徹が日々の生活の中で傷付き悩んでいる様に、和美もまた、別の意味での苦しみに苦悩していたのだった。

 彼女はドラマに出てくる様な、ただ耐えるだけの女には成れそうになかった。あの()、胸に誓った決意のままには。その苦しみは、かつて徹が自分一人では支え切れなくなって和美を求めた様に、彼女にとっても、それは、自分一人だけではとても背負い切れないほどの大きさに膨らんでしまっていた。

 

 そんな和美の職場に、遠藤知子(ともこ)という歳上ではあるが、仲のいい気心の知れた女性がいた。

 和美は、彼女といつも私生活での出来事を話しては笑い合っていたのだが、ある日、自分の胸の中だけにはしまって置けなくなった悩みを、彼女に打ち明けたのである。それは丁度、彼女が徹との関係を持ってから半年が経った、ある秋の日の事だった。

 

 「知子さん。実は私、今お付き合いをしている人がいるの」

 その日の昼休み、一頻(ひとしき)り彼女といつもの様にお(しゃべ)りをした後で、和美はそう話を切り出した。幸いその時、彼女達の周りには誰もいなかったから。

 「へー、和美にそんな人がいたなんて。ちっとも知らなかったわ。おめでとう」

 知子は、和美が胸の内に秘める彼女の悩みもまだ知らないまま、そう明るく言葉を掛けた。

 「…それがね、…」

 和美はちょっと間を置き、少し考える風で言い淀む。話をするべきかどうか迷っている様に。

 「何? どうしたの」

 急に顔を伏せて黙り込んだ和美に、知子が首を傾げながら聞く。その問いに和美も、心の引っ掛かりが解けた様な気がして、話の続きを喋り出す。

 「でも、その人には奥さんも子供もいるの。しかも三人の子供が…」

 「え⁉ 妻子持ち。あなた、不倫をしているっていうの?」

 「あなたがねぇ…。まさか、私をからかっているんじゃないの? ね、そうよね。冗談よね」

 知子は、最初こそ驚いて真面目な顔をしたが、それを ” 悪い冗談だよ ” と、言わんばかりに笑いながら言った。とても和美が不倫をしているとは、信じられないという態度で。

 「ううん。本当の事なんですよ。もう半年になろうとしています。私もそう決めた時には、どんなに辛い事があっても負けないという思いはあったのですが、やっぱり心が耐え切れなくなってしまって…。それで、知子さんに初めて告白した訳なんです」

 和美は今にも泣き出しそうな顔で、知子の顔に助けを求める様な眼差しを向ける。

 その和美の様子に、ただならぬ気配を感じた知子は、真顔に戻るとその話を聞き返した。

 「本当なの?、それは。私なんかに話していいの? そんな大事なことを」

 「ええ。誰かに聞いてもらわなければ、とても私一人では支えきれなくて。他に話ができる人もいなかったものですから…」

 その時、もはや和美の感情の(つつみ)は既に切れ、溢れ出る感情は、もう彼女の手では抑え切れなくなっていた。

 事の大きさと、自分が頼られているという気持ちから、知子は暫く何かを考える顔付きをしたまま黙っていた。

 

 二人の間に暫しの沈黙が流れた。間もなく、お昼休みも終わる。外へ食事に出た職員達も事務所に戻って来ようとしている。

 「分かったわ。この場所で、今話を聞くのも無理だから…。今日、仕事が終わったら食事に行かない? どう? そこで詳しく話を聞かせて貰うから。いい? しっかりしてね」

 知子はそう和美に言葉を掛け、彼女の左肩をポンと叩いた。和美はうつむきながら、その言葉に僅かに頷いた。

 事務所の中には職員達が戻り、部屋の中を職員達のざわめきが支配している。だが、もうすぐ午後の仕事の始まりを告げるチャイムが鳴れば、また事務所の中は静かなざわめきに包み込まれるのだろうが。


 仕事が終わり、和美が机の上を片付けていると、知子が近付き、彼女に話し掛ける。

 「どう? 出掛けられる? 駅前にあるレストランに行きましょうよ。いい?」

 「はい。お願いします」

 和美は知子にそう返事をした。 

 二人はそれぞれの車に乗り込むと、知子がレストランへの道を先導する。夕方の道は通勤帰りの車で混み合い、短い秋の日は暮れ、もう夕闇が辺りを覆い尽くそうとしていた。

(ほど)なく二人の運転する車は目的のレストランに到着して、車は駐車場へと滑り込んで行った。


 

 「私は、シーフードスパゲティー。和美は? 何にする?」

 「うーん。私も同じものでいいわ」

 「シーフードスパゲティーを二つ。それと、食後にホットコーヒーを二つ」

 そうオーダーを済ますと、二人はテーブルのコップに注がれた水を飲みながら、暫く黙ったまま座っていた。コップを傾ける度にカランと、氷が立てる音が静かに響く。

 

 「すごく苦しんでいる様だけど、不倫をしているというのは本当なの?」

 最初に口を開いたのは知子だった。

 「その通りです。昼間、お話をした様に」

 和美はそう答えながら頷く。

 「で⁉ 相手の男性とは上手くいっているの? それから、その人の奥さんは和美の存在を知っているの?」

 「はい。あの人も私の事を愛していてくれていると思います。多分、奥さんは私の事に気付いてはいないでしょう」

 「それと、今向こうの家庭では、離婚する事を前提に話し合いをしている所です。奥さんに色々と問題があるみたいで。彼も大分、苦労をしている様です」

 和美はそう知子に説明する。

 「離婚ねぇ…。それで、その人は、離婚したら和美と結婚してくれると言っているの? 子供が三人もいては後々、色々と大変でしょうに」

 知子はバックからメンソールの煙草の箱を取り出すと、火を点けながら言った。そして二口ほど吸うと、直ぐに灰皿の中へもみ消した。

 「結婚の事はまだ何も。でも、私は彼を信じているし、離婚する事も確実なんです。子供達の事はどうなるか私には分かりません。彼が、子供の親権を取れるかどうかもまだ分からないですし」

 和美がそこまで話をすると、ウエイトレスがオーダーした料理をテーブルの上に運んで来た。

 「お待たせしました。シーフードスパゲティーです。ご注文は以上でしょうか?」

 彼女はそう聞いて、注文に間違いが無い事を確認すると、伝票をテーブルの上に置いて別のテーブルへと注文を受けに行った。

 「それじゃあ。料理を食べながら、話を聞かせて貰おうかしらね」

 「ええ」

 二人はスパゲティーをフォークに絡め、食事しながら会話を続ける。

 

 「それで。和美は相当悩んでいる様子だけど、その人は本当に信用できる人なの? ただ、遊ばれているだけという事は無いのね」

 「それだけは信じています。こうなる事を決めた日に、その事は彼にも伝えてありますし。彼は誠意のある人なんです」

 「そうね。和美がそれだけしっかりとした考えを持っているのだから、私は敢えてその事について和美の事を責めたりはしないわ。むしろ、彼との仲が上手くいってくれる事を願うし、応援もするわよ。こんな私だけれども和美が頼りにしてくれて、返って私の方が嬉しく思うし、私に話してくれた事で和美の苦しみが少しでも和らげば、私も相談に乗って良かったと思うわ」

 知子はそれだけ言うと、コップの水を飲み干した。

 和美も、知子にこれまで誰にも言えなかった秘密を告白できた事で、心の中の鉛の様に重い苦しみから、大分解放された気分になっていた。

 

 二人の食事が終わり、ウエイトレスが食器を片付けると、食後のコーヒーを運んできた。

 二人はコーヒーにミルクを入れると、スプーンで軽くかき回す。二人の表情は店に入って来た時に比べ、大分柔らかくなっていた。特に和美は。誰にも言えなかった悩みを知子に話し、秘密を共有し合えたという感覚からか、彼女の気持はかなり楽になっていた。

 

 コーヒーを口に運びながら知子が聞いた。

 「相手の人について、良かったら聞いてもいいかしら?」

 「ええ。構いませんが」

 和美はそう軽く返事をした。それだけ、知子の事を信じていたからなのだろう。

 「彼の名前は井上 徹というの。建設会社の営業をしていて、前から同じ乗馬クラブに通っていて顔見知りではあったのだけれど。奥さんの子供に対する虐待問題。これが離婚の大きな原因となっているんですが、それを事務所に相談に来て。それからお付き合いをするようになったのです」

 和美は徹について、かいつまみそう説明した。

 

  ” 井上 徹 ”

 その名前を聞いた時、知子のコーヒーを持つ手が止まったのに、和美は気が付かなかった。僅かに彼女の眼の色が変わった事も。

 その後、暫く和美が話し、知子が聞き役になった後で知子が言った。

 「出ましょうか」

 そして二人は駐車場で別れの挨拶を交わし、それぞれの家路へと着いた。

 和美は、つい今し方までの悩みが嘘の様に軽くなり、心も晴れて、徹の事を正面から考えられるだけのゆとりが、心の中にわき上がってきているのを感じていた。

  ” 知子さんに話を聞いて貰えて、本当に良かった ”

 そう心の中で思うのだった。

 

 秋の夜はゆっくりと、静かに時が過ぎていく。今を生きる者達の想いやその苦しみの感情を乗せて。

 もうどこからかコオロギの鳴き声が聞こえてきていた。人を愛し、苦しむ想い。その(あわ)れな心の声の伴奏をするかの様に。

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