第8章 望み
「どうした? 最近、顔色がいいけど、何か良い事でもあったのか? 奥さんと仲直りできたのかよ」
ある日の職場での昼下がり、喫煙室で北川が徹に向かってそう聞いてくる。周りには、北川と徹の他には誰もいなかった。
「いいや。女房との仲は最悪さ。今、真剣に別れる事を考えている所だよ。良い事なんて、何もないさ」
徹は、首を振りながら煙草の煙を吐き出すと、そう答えた。
北川は煙草を咥えながら、徹の顔色を窺う。だがそれ以上、その事を詮索しようとはして来なかった。
” 人間、本当に辛い時は何も言おうとはしないものさ。愚痴をこぼす様になれば、悩みの半分くらいは解決した様なものだからな ”
北川は頭の中で、そう呟いていた。
徹はそれ以上何も話さずに、黙ったまま煙草を吸っていた。心の中に、北川にも話せない秘密を抱えて。
「離婚してやるには、それ相当の慰謝料を頂くから! 良く覚えておいてちょうだい」
秋江が徹に向かって叫んでいる。いつもの、喧嘩の後の捨てぜりふだった。
「 … 」
徹はいつもの様に黙り込むと、リビングを後に自分の部屋に向かって歩いて行く。秋江の事は気にも留めない風で。リビングでは秋江が徹に向かって汚い言葉を投げ続けてたが、彼はそれを背中で受け流し廊下へと出た。子供達は二階の子供部屋で遊んでいるはずだった。子供達には醜い夫婦喧嘩を見せたくはなかったから、いつも徹は黙って自分の部屋に籠もる様にしていた。
秋江の隆に対する悪態は、今もまだ続いている。徹が居合わせれば、秋江をたしなめ、止めさせることが何とかできてはいたのだが、留守中の事が彼にとって一番気掛かりだった。
「とうと。お馬さんになって」
恵が徹に甘え付いてくる。
「いいよ。ほうら!」
徹は休みの日には、家で子供達の相手をする様に努めていた。秋江との醜い日々の修羅場を子供達には見せない様にはしていたのだが、幼い子供達は敏感に、徹達の間の気まずい空気を感じ取っていたのだろう。だからだろうか、徹が家に居る時には、いつもにも増して彼に甘えるのだった。
和美との関係はあれからも、今も続いている。徹は子供達と接する時、正直子供達に対して、ある意味後ろめたさを感じていた。あの時、自分では相当の覚悟を持って決めた事ではあったのだが。無邪気に遊ぶ子供達の笑顔を見ると、自分のしている行為を無言で詰られている様で、子供達に対して申し訳ない気持ちになるのだった。だからこそ、子供達と接する時間を意識して作ろうとも努めていたのだろうか。
徹にとって和美の存在は、秋江との仲が悪化すればするほど、彼の心の中で大きなものとなっていった。最初は無意識に感じていただけの、この現実からの逃避の対象としての和美の存在理由が、徹の中では次第に、和美を求める理由の大きな部分を占める様になって来てしまっていた。
これは、和美の立場から考える時、彼女にとっては非常に理不尽な動機付けだと受け止められるであろう。なぜなら彼女は、徹の事を純粋に愛し、徹や自分の立場を全て受け入れた上で彼との関係を決意したのだから。和美とすれば、徹も自分を純粋に愛し、様々な困難を乗り越えた後で自分との結婚を望んでくれる事を求めていたに違いない。だからスケープゴートとしての対象としての自分の存在が、徹の心の中で大きくなりつつある現状は、和美の望む愛の方向ではなかったはずである。
徹と和美。二人の心の間にも、微妙な食い違いが生じようとしていた。
時間だけが、それを解決できるのかもしれなかった。
徹は、いつか弁護士事務所を尋ねた際に助言された、秋江の不誠実さを実証するための証拠集めを実行していた。もう徹の中では秋江との離婚が、未来のために解決しなければならない現実の問題として、実体化してしまっていたから。
徹は、隆に対する秋江の横暴な振る舞いの証拠として、近隣の住民や隆が通っていた幼稚園、そして小学校の先生達の証言を集めていた。また、折に触れ、秋江の普段の行いの一切を写真にも収めて残すように心掛けていた。それは秋江との離婚の話し合いになった時、親権をも含め、少しでも有利に事を進める事ができる様にとの考えからだった。
だがこの時の彼に、自らが、不倫という離婚に際して最も不利になる不貞行為を犯しているという事実を熟慮する余裕は無かった。既に和美は今の彼にとって、現実からの逃避の場として掛け替えのない人となっていたから。
そんなある日の午後、徹は勤務先の喫煙室にいた。彼の前には北川だけが座っている。
北川は、いつもの様に煙草を咥えながら徹に問い掛けた。
「井上。どうだい奥さんの様子は。上手い方向には行ってないのかい?」
「兄い。実は今、離婚に向けて動いている所なんだ」
「離婚⁉ 本気か? 子供達の事を考えれば…、止めた方がいいと思うがな」
北川は真面目な顔で、そう徹に言った。
「もう決めたんだ」
徹は煙草の煙を吐き出しながら答える。
「子供達はどうするつもりなんだ?」
北川が、なおも難しい顔をして尋ねる。
「親権は俺が取りたいさ。その準備もしているしね」
「いっその事、女房が不倫でもしてくれたらなあ…」
徹は遠い目をして、煙草を咥えながらそう呟いた。彼のその呟きは、北川には徹の独り言の様にも聞こえていた。
” 不倫⁉ ”
北川は、徹のその言葉を胸の中で反芻していた。
” そこまでしなければ、離婚はできないものなのか ” とも。
北川は、徹のこの言葉を深くは考えもしなかった。彼の心の中にある、秘密を知る由もないまま。
「離婚だけは、しない方がいいと思うが」
そう北川は徹に言っただけであった。
「サンキュー、兄い。心配してくれて。有り難いよ」
徹は吸いかけの煙草を灰皿の上から取り上げると、深く煙を吸い込んだ。吐き出した煙が、日の光の中に渦を巻きながら白く光り、光の矢となって伸びる。
北川には、徹の眼の中の苦悩の影を見抜く事はできなかった。もちろん徹としても、それは、例え相手が北川であっても話せない事であったから。
徹は、秋江との離婚のための調停に踏み切ろうとしていた。家庭裁判所での調停員を入れた話し合い。いずれにせよ、話の解決が付くまでには、まだ相当の期間が掛かりそうである。




